我、輝夜の空に君を想ふ。

桜部遥

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光蓮寺和己編

ようこそ、高天原荘

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淡いベージュの髪に、桜吹雪が舞い落ちる。
麗らかな日差し。澄んだ空気。ゆっくりと流れる雲。
少女は新品の制服に袖を通し、ピンク色のキャリーバッグを引いて歩く。
背中に着くくらいの髪を靡かせながら、ゆっくりと息を吸い込む。
ガラガラと、キャリーバッグから伝わる振動も少女の心を高鳴らせた。

「うわあ、ドキドキする……。」

少女の右手には小さな紙切れがあった。
それは何やら地図のようで、紙の中心には大きく『目的地』と書かれている。
少女はその目的地を目指して歩いているようだ。
初めて踏み入れる地とあって、少女はきょろきょろと辺りを見渡しながら歩く。
大きな川、閑静な住宅地、電車の音、子供達の笑い声。
何から何まで新鮮な気持ちで、少女は胸を踊らせた。
浮かれた足元が宙に浮く。その足ぶりだけで彼女の心情は明らかだった。

歩いて十分ほどすると、少女の前に大きな屋敷が見えてきた。
日本の大きな旅館のような、立派な建物。木造で建てられた大きな門は、近づき難くなるような迫力がある。
その中からちらりと伺えるのは、鮮やかな緑の木々とどこまでも青い空だった。
自分には不似合いなその外観に、少女は戸惑いを見せる。
「……えっと、あれ、間違えた……?」
少女は冷や汗をかきながら、何度も手に握っているメモを見る。
いや、間違えてはいない。何度見ても、目的地はこの大きな館だ。
少女はゴクリと唾を飲み込む。
「それじゃあ、ここが……。」
少女は館を見上げた。桜の花が、ヒラヒラと空を舞う。

「——ここが、高天原荘。」

少女は、雨宮唯。
この春私立条院学園に入学し、そして専用の学園寮、『高天原荘』に入寮する高校一年生。
「寮の案内ページに惹かれてここまで来ちゃったけど……。いざとなると緊張するなぁ。」
自分の胸に手を当てると、いつもよりも活発な心臓の音が聴こえてくる。

思い返せば、中学三年の梅雨。夏の高校見学に向け、下見をする学校を選んでいた時だった。
様々なパンフレットの中で一際目を引くパンフレット。
外国のお金持ち学校のような煌びやかな外観に惹かれたものの、唯の家からは通えない距離。
一度は諦めかけたけれど、どうしても条院学園に通いたかった唯が見つけたのがこの寮だったのだ。
条院学園には、他にもいくつか専用の寮が存在する。
交通の便や、立地条件などによって家賃が異なる為、自分に合う寮を探すだけでも一苦労だ。
その中でもこの高天原荘は家賃一万、大きな浴槽に、日当たりのいい大広間。
学園にも徒歩で通う事ができ、朝夕食付き。
この大広間で、皆でお茶とかしたら楽しそう、なんて動機で、この寮に入る事を決めたのだ。
そうは言っても、パンフレットには高天原荘の外観の写真は無く、唯自身も半信半疑なままここまでやってきた。
最初は騙されたかもなんて考えたけれど、どうやら杞憂で終わったらしい。
けれど、想像していた建物よりも豪華な館に、唯は逆に萎縮してしまう。
(う、うう……緊張でお腹痛い……。)
キリキリと腹の虫が悪さをする中、震える足を一歩踏み出す。
立派な門をくぐると、その先には本寮がでかでかと立っている。
その威圧に、唯は心臓をどくんと鳴らした。
当たりを見渡すと、ドラマで見るような日本庭園。
その中でも一際目を引くのは……。
「凄く綺麗……!」
寮の左手に見える大きな日本桜。そよ風に揺れる桜が、池の中に落ちていく。
なんとも幻想的な光景だ。
そんな美しい桜に魅入っていると、本寮の玄関ががらりと開く音が聞こえて来た。

「——おや、君は新しい入寮生かな?」

初めて聞く男の人の声に、唯はパッと振り向く。
本寮の玄関から出てきたのは、黒い長髪を軽く結んだ男の人だった。
メガネ越しの柔らかな目元は、唯よりも貫禄がある。
にこりと自分に向けられた、美青年の笑顔に唯は勢い良く頭を下げた。

「はっ、ひゃい!私、今日からここでお世話になります、雨宮唯です!」

「唯ちゃんね、そんなに緊張しないで大丈夫。」
「ひっ……じゃなくてはい……。」
(うっ……早々に噛んでしまった……。)
ぺこぺこと何度も頭を下げる唯に、男は微笑んだ。
穏やかで、包容力のある笑顔に唯はじっと見つめる。
後ろに佇む日本家屋も相まって、男の和服が映える。
(わぁ、綺麗……。日本男子って感じだ!)
男は唯の持っていたキャリーバッグを手に取ると、唯に背を向けた。

「俺の名前は花宮治。ここの管理人をしているんだ。」

「よろしくお願いします、花宮さん!」
「治でいいよ、他の皆もそう呼んでくれているし。」
あがって、と治は唯を寮の中へ案内する。
その後ろを子犬のようについて歩き始めた唯は治に幾つか質問をした。
「それじゃあ、治さんで。この寮には何人くらいの生徒さんが住んでいるんですか?」
「うちは、唯くんを入れて十二人だよ。」
(サラッとくん呼び……!?)
思わぬ愛称に、唯は内心驚きを見せる。
「少ないです……よ、ね?」
「うん、うちは少数だね。他の寮だと軽く三十人を超えるって聞くし。あ、その分うちの寮は完全個室だよ。」
という事は、一人部屋だ。
相部屋だと思い込んでいた唯は少しだけガッカリした表情を見せる。
(お友達、出来るかなって思ってたんだけど……。)
玄関を上がると、長い廊下を歩く。
足を踏み出す度に、廊下の板がギィッと軋んだ。
「唯くんの荷物は、事前に部屋に運んでおいたからね。」
「ありがとうございます!」
「いいのいいの。女の子に重たい荷物を持たせる訳にはいかないからね。唯ちゃんの部屋は三階の突き当たりだよ。あっ、それと……。」
長い廊下の突き当たり、階段を登ろうとしていた治は唯の方を向いた。
きょとんとする唯に、治は意味深げな表情を見せる。

「他の奴らは、協調性とか自重とか、そういうものは無いかもしれないけれど……でも、君なら何とかやって行けると思うから。唯くんみたいな子が、この寮に入ってくれて本当に良かった。」

治の笑顔は、先程よりもどこか重たい。
唯はその言葉の意味を殆ど理解出来てはいなかった。
ただ、治のような優しそうな人が困ってるという事は悟る。
だからだろうかと、唯は思った。
「私も、治さんみたいな方が管理人さんで良かったです!」

——この人の役に立てたらいいな。


案内された部屋に入ると、そこは可愛らしい部屋だった。
淡いピンクの壁紙と、白いテーブル。
ベットには天窓がついている。
日本家屋のような外観とは違い、この部屋はフローリングの女の子らしい個室だった。
「凄く可愛い部屋です!」
「気に入って貰えたのなら良かった。実はこの部屋しか女の子の好きそうな部屋が無くって……。」
「寧ろ、有難いくらいです!」
今まで使っていた部屋は、ここみたいに可愛い部屋では無かった。
だから余計に、唯の心は踊る。
(お姫様みたいな部屋……!)
唯のキャリーバッグを部屋に置くと、治は廊下に下がった。

「夕食の時に、唯くんを紹介するからそれまではこの部屋でゆっくりしているといいよ。……まあ、多分殆どの人には会えないと思うけど……。」

それは、皆新学期の準備で忙しいからだろうか?
なんて考えながら、分かりました、と唯は返事をする。
パタンと扉が閉まり、治は立ち去っていった。
「……ふう。」
一人になった途端、さっきまでの緊張疲れが現れる。
とりあえず、ベットに腰を下ろした唯は天を仰いだ。
(今日からここで暮らすんだよね、私。)
あまり実感が湧かない。
慣れない匂いと、見慣れない部屋。唯の中に不安は募る。
このまま上手くやって行けるか、失敗しないだろうか。
みんなと仲良くなれるだろうか。
気にする事は沢山で、息が詰まりそうになる。
「……あ、でも。」
唯は立ち上がって、ベットの横にある窓に手を伸ばした。
鍵を開け、ガラガラと窓を開ける。白いカーテンがそよそよと優しく踊った。
唯は視界に入るその物体に心を和ませる。
窓から見えるのは、大きな桜の木だった。

「ここの景色、凄く綺麗……!」

たった一本の桜の木が立っているだけだけれど、その桜がとても美しくて。
唯の心を落ち着かせてくれる。
(私の一番好きなお花……。)
ここから毎年桜の花を眺める事が出来ると思うと、心が弾む。
あと少しでこの桜は散ってしまうけれど、それまでの短い間だけでも楽しもう。

桜を眺めていると、急に睡魔が襲ってくる。
そう言えば昨夜は緊張と興奮であまり良く寝付けていなかった事を思い出した。
(疲れが出ちゃったのかな?)
唯は窓を閉めて、ベットの上で横になる。
夕飯までには起きなくちゃと考えながら、唯の瞼は重くなっていく。
そのまま唯は、睡魔に抗えず眠りの中に落ちていった。



「……ん」

重たい瞼をこじ開けるようにして目を覚ます。
寝ていたせいか、喉が少し渇いた。
ゆっくりと起き上がって、窓の外を見てみると、辺りはすっかりオレンジ色に染まり始めている。
「今、何時だろう?」
スマートフォンに表示された時間は、十七時を回った辺りだった。
「うそ、私こんなに寝てたの……!?」
午後から少しだけ仮眠をとろうと思っただけなのに、いつの間にか夕方だ。
とはいえ、まだ夕食までには少し時間がある。
(せっかくなら、夕飯の手伝いでもしようかな)
部屋を出て、階段を降りようとする。

—— 丁度その時だった。

「……うわっ!」

前を見ていなかった唯の体が何かにぶつかる。
その反動で、尻もちをついた唯は何があったのかと顔を上げた。
そこに居たのは、銀色の美しい髪に琥珀の瞳を持つ、美しい少年だった。
どうやら階段を登っていたこの少年とぶつかってしまったらしい。
唯は慌てて立ち上がり、少年に頭を下げる。
「す、すみません!お怪我はありませんか!?」
美しい少年は唯の姿を凝視すると、チッと舌打ちをする。

「気を付けろよ、ブス。」

その言葉に驚いて、唯は顔を上げる。
少年は不機嫌そうに唯を睨んでいた。その鋭い眼光に、唯は背筋が凍る。
(こっ怖い……!)
でも、この寮に居ると言う事は彼も同じ生徒だ。
これから一緒に暮らしていく仲間も同然。
唯は必死に作り笑顔を作って、少年に手を差し出した。
「私、今日ここに来た雨宮唯と言います!よろしくお願いします!」
初対面の第一印象は三秒で決まると言う。
第一印象はもう決まってしまったかもしれないけれど、今から巻き返していける、はず!
唯から差し出された手を見つめた少年は、再び舌打ちをした。

「……正気か、てめぇ。」

明らかにさっきよりも声が低い。そして顔色がとても悪い。
唯を意味もなく憎んでいる瞳。
(これは明らかに……怒ってる、よね?)
地雷を踏んでしまったのだろうか。ただ自己紹介をして、握手をしようと思っただけだと言うのに。
唯は、焦りを見せる。初日から同じ寮の生徒と揉め事なんて起こしたくない。
というか、それはあまりに幸先が悪すぎる。
「あの、えっと……。」
どうするべきかと、必死に思考を巡らせる。
何か彼の機嫌を治すために出来る事は……。
少年から放たれる気迫と威圧に耐えきれなくなった唯は、大きな声で叫んだ。

「わっ、私の夜ご飯あげるので許して下さいっ!!!!」

しーんと、静まり返る空間。突き刺さる視線。
(あれ……?やってしまったかも……。)
怖くて顔を上げられない唯に、少年は黙って睨み付けていた。
すっと息を吸った少年が、唯に対して怒鳴りつけようとしたその瞬間。

「てめぇ、いい加減に——」

その刹那。——月は、目を覚ます。
それまで光り輝いていた太陽は闇の中に溶け、夜は来る。
全てがその月明かりの下で輝き出す。それは、今まで太陽の中で隠れていた真実。
月の光は、そんな真実すらも照らすのだ。

「……え?」

唯の目の前にいたのは、さっきまでの少年のようで少し違う。
銀色の美しい髪に琥珀の瞳。そして九つの尻尾と、人には持ちえない耳。
それを、言葉で表現するのならまさに『人ならざるもの』。

「——ッチ。もう月が昇ったのか。」

真っ白な和服に身を包んだ少年は、気だるように舌打ちをする。
その少年の姿は……姿は、そう。


——妖のように美しかった。
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