不完全なΩはαの甘い想いに気付かない

春瀬湖子

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2.胸の軋みのその答え

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「泰――」

 四限を終えた俺は、いつものように泰斗を誘って和処なごみへと行こうとしたのだが。

 
「い、井筒くん! ちょっとだけ、時間が欲しいの」

 筆記用具を片付けていた泰斗の前に、これでもかと顔を赤くした女の子が立ち声をかけていた。

 彼女の首には革で出来ているだろうチョーカーがつけられていて。

“Ωだ”

 キラリと留め具が反射したのを見て、無意識に何も装着されていない自分の首を撫でる。

 ヒートが来なくなった俺には必要がないそのチョーカーは、Ωである彼女を守り……そして、同時にちゃんとしたΩであることを証明していて。

“俺とは違い、子供が産める――”


 ざわ、と心が騒ぎノートを乱雑に鞄へと詰め込んだ俺は、そのまま泰斗に背を向けて廊下へと飛び出した。


「……ははっ、何してんだろ」

 泰斗はαだ。
 何でも出来て、誰からも好かれる。
 こんなこと日常茶飯事。

 相手が女でも、Ωでも自由に選べて。

“俺はΩだけど不完全で、男で”


「違う、何考えてんだ俺は」

 もやもやと燻るように纏わりついたその思考を無理やり頭を振って追い払った俺は、いつもより早足で大学前の坂道を下る。

 目指すのはあの赤い縁台がある、和処なごみだ。


「泰斗は友達でっ、αとかΩとか関係なく対等に接してくれていてっ、そんで俺は、俺が好きなのは」

“俺が、好きなのは――”


「わっ、びっくりした。今日もお疲れ様、平野くん」
「生垣さん……」

 飛び込むように店内へ入ると、いつものホッとする穏やかな笑みが出迎えてくれる。

 その温かさに波立った心が凪いでいった。
 ふぅ、とゆっくり息を吐き呼吸を整えた俺は、最早日課になっているお饅頭をひとつ購入しようとレジに向かって。

“あれ”

 いつも笑顔でレジをしてくれていた生垣さんの奥さんがいないことに気付き首を傾げた。


「あ、ごめんね! すぐレジするね」
「いえ、別にそれは全然いいんですけど……えっと、もしかして体調とか崩されてるんでしょうか?」

 わたわたとレジに駆け寄ってきた生垣さんにふとそう聞くと、いつものあの穏やかな笑顔をさらにふにゃりと緩めて笑った生垣さんは。


「実は、妻の妊娠がわかってね」 
“妊娠!”

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 結婚してるんだ、子供だって出来るだろう。
 だって彼らは愛し合う夫婦で。

“動揺するな、動揺するようなことじゃない”

 ひゅっと喉が鳴るが、それを誤魔化すように俺をにこりと口角を上げる。

「そ……うなんですか! おめでとうございます、えっと、奥さんってΩだったんですね」
「あはは、違うよ。ウチは夫婦共にβの平凡な家庭だよ」
「あ、あぁ! そっか、女性ですもんね! ははっ、俺何を言ってるんだろ」


 無理やり笑いながら財布から小銭を取り出すが、指先が震えて上手く掴めず、チャリンと音を立てて地面に転がった。

「わっ、大丈夫?」
「すみません、大丈夫です、すぐに拾いますからっ」

 慌ててしゃがみ小銭に手を伸ばすがカチカチと震える指先のせいでなかなか上手く掴めず焦りだけが募る。

“なんでこんなに動揺してんだよ、俺”

 動揺するほどのことなんて何もなかったじゃないか。


 結婚している夫婦が子供を授かることも。

“俺だって、Ωなのに”


 ――あぁ、そういや泰斗に声をかけていたあの子は俺と同じΩで、そしてそれ以上に女性で――

「ヒートがなくても、授かれる……」


 別に今子供が欲しいという願望がある訳ではない。
 だって俺は、俺たちは大学生で、でもいつかの先を考えたら

「……違う、そもそも俺たちは対等な友達で」
「平野くん?」
「俺が好きなのは、ヒートが来なくなるくらいショックだったのは」
「ちょ、え? あれ、βの僕でもわかるほどのこれって……」


 始まる前から終わった恋に傷付いた?
 それはつまり。



 ――始まらなければ、終わらないということで。


「楓ッ!」

 ぐるぐると濁流のように駆け巡る思考から、無理やり引っ張り上げるような鋭い声にビクリと肩が跳ねる。

 浅く乱れた呼吸を繰り返しながらお店の扉の方を見上げると、そこには汗を滲ませ焦った様子の泰斗がいて。

「な、んで……あの、子は」

 あの子はどうしたんだ、という俺の言葉を遮るようにバサリと上着が頭から被せられ視界が塞がれる。


「!?」
「すみません、今日はこれで」
「あ、あぁ……」

 そのままぐいっと抱え上げられた感覚に愕然としていると、そのまま泰斗が走り出したことに気付いた。

“なんで”

 なんでこんなに体が熱いんだろう。
 なんでこんなに息が苦しいんだろう。
 
 なんでこんなに――泰斗は、必死になってくれるんだろう。


 答えの出ない『なんで』が重なり胸が締め付けられる。
 けれど、それは“軋み”とは違っていて。



 ガチャン、と乱暴に鍵が開けられ部屋に飛び込む。
 大学からの帰り道、和処なごみへ寄ってそのまま何度も通ったからこそここが泰斗の一人暮らししている部屋だと、見なくても俺にはわかってしまって。


「……っ」

 あんなに鍵を開けるのは乱暴だったのに、泰斗は俺の背中に腕を差し込んだまま壊れ物のようにそっとベッドへ横たわらせる。

 普段泰斗が使っているこのベッドから、ふわりと彼の香りが鼻腔を擽り下腹部がきゅうっと熱を孕んだ。


「え、なに……?」

 こんな状況なのに、いや、こんな状況こそがわからずぽかんとしたままそう問うと、ぎしりとベッドに泰斗も上がってきて。


「ヒート、起こしてる」

“ヒート?”

 二年前から起こさなくなったヒート。
 信頼している泰斗の言葉だと言うのに、にわかには信じがたくて唖然としていると、俺の顔の横に泰斗が手をついた。

 はっ、と吐く彼の浅い息にバクバクと鼓動が速くなる。

“ずっとヒートなんてなかったのに?”

 だがもしこれがヒートだとすれば、この体の熱さも呼吸の苦しさも下腹部の疼きも理解できる。
 そしてもし本当にヒートを起こしているのなら――


「た、たい……と、ダメだ、こんな」

“Ωのフェロモンにαは抗えない――……!”

 すぐにそう気付きザアッと血の気が引いた。
 
 体中が泰斗を求めすがり付きたい衝動に駆られるのと同時に、こんな自分の身勝手な誘惑で大事な友人を傷付けたくなんかない。

 今まで対等でいてくれたのに。
 今まで友人でいてくれたのに。


「なんで、辛いだろ?」
「ひんっ」

 腕をついてない方の手のひらが俺の頬にそっと触れると、俺の口から裏返ったようなはしたない声が溢れ出た。

“だめだ、こんなの、巻き込んだら……!”

 じわりと視界が滲む。
 このままでは大事な友人を失ってしまう、不完全な俺もちゃんと『俺』として変わらず接してくれていたこの友人を。

 その事実が怖くて、擦り切れそうな理性でなんとか頬に触れる泰斗の手のひらから顔を背けて横を向く。
 
 
 ヒートなんてないままで良かったのに。
(――ヒートが来たなら、俺はαと番える)

 俺が好きなのは生垣さんだっただろ。
(――始まりもしないことが怖くて臆病になっていた本当の相手は誰だ)


 その時俺の頬に、ぱた、と水滴が落ちてきたことに気が付いた。


「……泰、斗……?」


 甘いものが苦手な俺が食べれるのは、甘すぎないあのあんこのお饅頭の半分だけで。
(――俺が本当に求める甘いものは)


「泣いてる、のか?」

 そっと顔を向け視線を上げると、いつもどこか呆れたように細められていた泰斗のその瞳が潤み、ぱたぱたと水滴を溜めていた。


「なんで」
「それはこっちのセリフだ」
「え……、んっ!」
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