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一章 ベイロンドの魔女
第一話
しおりを挟むその時皆の私を見る眼を一生忘れられないだろうと思った。それくらいに街の人々の眼は冷たく、恐怖に濁っていた。
アバンテも同様に、私をただ恐怖の眼で見ている。
私は息苦しさを感じると、魔女の書をぎゅっと握り締めて眼を伏せてかたかたと震えた。今すぐにここから逃げたしたいのに、脚が全く動かなかった。
やがて誰かの声と風を切る音が聞こえて、守るように私の肩に手が回された。びくりとする私の心を鎮めて優しい感触のその手は、一瞬にして私の赤毛の頭を抱え込んだ。
長く美しい黒髪、白い肌、端整な顔立ち、そして深く、憂いを宿した眼―――。
リィディだった。
「リィ…ディ――…」
リィディの顔を見るとこらえきれず涙があふれた。涙でぐしょぐしょの視界の中、だけどリィディは深く頷いて素早く私をほうきの後に乗せた。
リィディの背中越しに飛翔の言葉が聞こえる。ほうきはまるで意志を持ったかのようにふわりと浮かぶと、すさまじい速度で舞い上がった。人々の声が遠くなる。私はリィディの背中に額を押し当てると、強く、強く腕を回した。
リィディは――何も言わない。
暗く星満ちる夏の夜の、生暖かい風が頬をさらっていく。とめどなく流れる涙が風に流れて消えていっては、また流れていった。
私のこの気持ちも流れていって、かき消えてしまえばいいのに―――。
一章・ベイロンドの魔女
1
「ラン、さっさと掃除を済ませておしまいよ!あんたの部屋は汚いったらありゃしないんだから!」
コリネロスのしわがれた、しかしよく通る声が階下から響いた。ねぼすけな天井裏のねずみもこの声を聞いては寝てはいられまい。
「今すぐやるわよーっ!そう何度も何度も言わなくてもわかってるわよ」
私は部屋の入り口から首を出してコリネロスに叫んだ。もう、コリネロスったら同じ事を繰り返し言う時がある。おばあちゃんって、ああいうものなんだろうか。
しかしまあ…そう言ったものの私はバケツと雑巾を手に持ったまま、部屋を見て途方にくれていた。
木製の机の上に今にも崩れそうなほどたまった分厚い本、作りかけの何本ものほうき、調合台には何やら怪しげな秘薬が山積みになっている。唯一割合綺麗なベットの上にも読みかけの本と脱ぎ捨てた本が置かれていた。
「………」
どこから手をつけたらよいのやら見当がつかない程散らかっている。しかしこれは私の部屋だ。自分でもだらしない性格だとは自覚しているつもりだったけど、こういう状況になって改めてそう思った。
とりあえず散らばっている魔法の本から掃除しようと、私は床や机の本を拾い集めだした。
「お、重い…」
この分厚い本、本当に重いんだから。
三冊を持ち上げて棚に持っていこうとした時、またもコリネロスの声が響いた。
「リィディ、リィーディー!ランの部屋の掃除手伝っとくれ。あたしゃ今釜から手が離せないんじゃっ」
「はいはい、行きますよ」
コリネロスの大声とはうって変わったしとやかな声が聞こえる。私はどきっとして危うく本を取り落とす所だった。
「リィーディー私一人で掃除できるから、来なくてもだいじょ―――ぶよ!」
私はまたも叫んだ。リィディにこの部屋のありさまを見られてはかなわない。
しかし無情にも階段をのぼる音は段々と近づいてくる。私は一刻も早く部屋を綺麗にしなければならず、焦った。
「ラン、あなた何なのこの部屋のありさまは!」
入り口に立って腕組みをしながら大きな声をあげたのはお姉さん役のリィディだ。
「まだ掃除始めたばかりの所なの!今から片付けようと思ってたんだからー」
「今からってあなたねぇ…大体なんでこんなに汚くなるまでほおっておくの?」
「いいじゃないこの方が物がすぐ取れて便利な事もあるのよ」
「もういいわけを言って…私も手伝ってあげるから早く終わらせましょ」
「えぇ―――大丈夫だって言ってるのに」
「いいから」
そう言ってリィディは長くて綺麗なストレートの黒髪を紐で一つに結んだ。
言っておくがリィディの綺麗なのは髪だけではない。端整なつくりの顔、すらっとしたたたずまい、そして優しい眼。
男の人が見たら放っておかない…と思う。とにかく美人なのだ。そりゃあね、性格だってすごくいい。料理だって得意だし魔法も得意だ。
私の憧れるお姉さんだけど、世話焼きが高じて口うるさいって感じてしまう事もある。リィディの部屋は綺麗だし、リィディがこの部屋を見たら比較されるってわかっていたから見せたくなかった。
「さっ始めましょ」
「うん」
リィディが私の背中を軽く押して掃除を促す。さっき運ぼうとしてそのままだった本を棚に納めると、私は自分の髪を手で束ねる真似をしてみた。
私の赤毛もリィディ程長くないけど、肩くらいまではある。後ろ髪は両手で作ったわっかの中から十分なほど伸びていた。
ふと後に気配を感じると、リィディの手が私の後ろ髪を紐で結んだ。
「あなたも結んでみたら?楽だよ。ラン」
はっとした私に優しい笑顔をしてくれるリィディ。私はわざわざ手伝いに来てくれたリィディをうるさく感じた事を悪いと思った。
照れたように笑う私を見ながらリィディは、再度笑顔を浮かべるとこくんと頷いた。
二人でやる掃除はスムーズに進み、一時間後には部屋はみちがえるように片付いた。
「あーお腹減ったね」
「昼食の準備、しにいこう」
私達は笑い合うと、階段を降りていった。
2
コリネロスの薬の調合は終わったようだ。私の部屋から階段を降りた所にある大釜の間では大釜を煮立たせる火は消え、薬の臭いがわずかに部屋を包んでいた。
ドアがガチャリと開いてコリネロスが出てくる。薬の部屋に調合した薬をしまったらしい。
「遠見の薬を造っていたのね」
「ああ、造るのにたいそうな手間がかかる割には出来上がりは少ないものさ。本当疲れたよ」
コリネロスはそう言って自分の肩をとんとんと叩いた。
遠見の薬…というのは目薬だ。私は一度だけ使った事があるけれど、その目薬をつけると遥か遠くの景色がまるで近くのように見えるのだ。
様々な種類の大量の材料を使う割に魔法をかけて凝縮すると少量になる。コリネロスはこれが割に合わないとぼやいたわけだ。
「ラン、掃除は終わったのかい?」
コリネロスが思い出したように私を見て言った。
「ええ終わったわ。リィディが手伝ってくれたもの」
本当にリィディが手伝ってくれたお陰で随分早く終わったと思う。あの部屋を一人で綺麗にできた自信がない。
「ふん…そうかい」
コリネロスは親指と人差し指であごをこすると、探るようにリィディの方に片目を上げた。
「昼食にしましょうコリネロス。本でも読んで待ってて」
そう言ってリィディはぱたぱたと冷蔵庫の方へ走っていった。
「ランーッ!屋上に行って林檎を採ってきてー」
頼まれたものを採ってこようと、私はさっき降りてきた階段をまた上った。コリネロスはまだ何か言いたそうだったけど、そのまま席について本を読み出した。このままずっとここにいては、また小言を言われかねない。
階段を上りきると太陽が高くその顔を見せた。暗めの塔内から明るい日差しに急に出たので一瞬眼がくらむ。数秒して慣れた視界には夏の日差しを受けた鮮やかな緑が飛び込んで来た。
ここはベイロンドの森。
ピネレイ山脈に三方を囲まれたこの森は、古く巨大な常緑樹が生い茂り古代の自然が多く残っている。聖なる地か、魔力の働く地か、いずれにせよこの森は畏怖されている為人の手は伸びていない。
この広大な森の中に暮らす人間…は私達三人以外にはいない。私達はこの森の老木の一本の脇に建つ塔に住んでいるのだ。
普通の人間にはこの塔は見えない。コリネロスの魔法がかかっているからだ。しかしごくまれに、森に迷い込んでこの塔が見えてしまう普通の人間がいる。彼等は幻の塔を目の当たりにし、そこに住む人間を想像してこう言ったのだ。
ベイロンドの魔女、と。
塔の屋上には林檎の木が一本生えている。食事時に食べるものとして、またもう一つの使い道がある。
不思議な事にこの林檎の木、いくら実をもいでももいでも実がなくならないのだ。その日採った分は次の日には元通りになっている。
私は形の良さそうなのを二つばかり採って手に持つと、階段を降りた。
今日のお昼はリィディ特製のオムレツとサラダ、林檎だった。リィディのつくるオムレツは、おいしい。湯気の立つほかほかのオムレツを皿に盛ってテーブルに並べた。
「さあ、食べましょうか」
リィディに促されて、コリネロスは眼鏡をずりあげて本を閉じた。そうだ、ここでコリネロスの説明もしてしまおう。
コリネロスはこの塔の塔主だ。私がここに来た時から塔主で、何でも随分昔からここに住んでいたらしい。こう言ってはなんだけどしわくちゃのおばあちゃん。綺麗に白くなった白髪を頭の上に結い上げているが、いつも黒の三角帽子をかぶっている。
眼があまりよくないので丸い眼鏡をかけているが、先程の怒鳴りっぷりからわかるように体の方はいたって健康なようだ。私は彼女から魔法を習っているのだが、覚えの悪い私はいつも怒られてばかりいる。生活の中でも私は彼女にとやかく怒られる事が多いので、私にとっては中々怖い存在なのであった。
「いただきます」
コリネロスは無言でオムレツを食べる。彼女が黙ってものを食べる時はそれがおいしい時だ。気に入らなかった時はぶつくさ文句を言いながら食べる。もっとも文句を言われるのは大抵私が料理番だったときの話なのだけど。
「あんた達、昼食を食べ終わったら湖の方に薬草を採りに行くんだよ。セイジ、クリチャンワート…後はバラの花をつんでおいで」
コリネロスはオムレツを口に運びながらこちらを見ないで言った。
「また薬をつくるのね。じゃあラン後で一緒に採りに行きましょう」
「はぁーい…」
湖まで結構歩くんだよね。少し面倒臭いけど…だけど塔の中で魔法の勉強をさせられているよりはましだ。こんなにいい天気の日に湖の方まで行けば気持ちはいいだろう。
窓の外から差し込む日を見ながら、私は外の暑さを想像した。セミが鳴いている―――。
3
私は日除けにつばの広い三角帽を部屋から持ち出した。外に一歩出た途端に魔女見習いの紺のワンピースの下にうっすら汗をかく。
「リィディーッ、行こうよぉー」
「はいはい、コリネロス、じゃあ行って来るわね」
入り口の頑丈な木の扉の奥からリィディが姿を現す。私と同じように幅広の三角帽をかぶって本格的な魔女の証である黒いワンピースを着ていた。
「さあ行きましょうか」
私達は塔を後にし湖の方へ歩き出した。目指す湖はエルアナ湖と言ってベイロンドの森の南側にある。森に点在する湖の中ではこの湖が一番大きい。色々な種類の魚が泳ぐ他に、湖の周りに魔女の薬の材料となる薬草や秘薬が生えているのだ。
湖は魔女の塔から歩いて小一時間ほどの所にある。ほうきで空を飛ぶ飛翔の魔法が使えればそれこそあっという間の距離なのだがあいにく私はまだこの魔法を使えない。リィディはもちろん使えるのだが、私と湖に行く時は歩きでつき合ってくれる。
夏の日差しは更に強さを増していた。私達は森の木陰に沿って歩いた。
「暑いわ」
「そうね…今年の夏は大気の精霊の動きが活発ね…ランもほら、わかる?」
リィディはそう言って森を見回すようにゆっくりと首を回した。
「……」
私は歩きながら呼吸を整え心を落ち着けると薄く眼を閉じた。まとわりつくような暖気の中に時折風が流れ込む。その大気の動きは私の精神世界ではただの風の音ではなく、声ともいえぬ声の協奏和音だった。
――その音は確かに去年の夏初めてこの音を聞いたときよりも騒々しく、力のある音だった。
大気の動き、火、水、土…この世の中のあらゆるものには精霊の働きが宿っている。彼等の活動がそれらの強弱を司っているのだ。もちろんそれは普通の人間には見えない。誰だって森を風が流れる事、料理の火はスイッチを押せば勝手につくものだと思っている。
だけどその事を知り、感じる事ができるのが我々、魔女だ。つまり魔女とは現実界にその身を置きながら現実界と並行に存在する精霊界――精霊達が活動し住んでいる世界――を知覚し見ることが出来る二つの世界の中間的な存在なのだ。
それに加えて古来の魔女の世代より伝わる秘伝の薬や魔法も使える。
日差しはまだまだ暑い。じんわりと頬を伝う汗をハンカチで拭うと遠くに森が開けるのが見える。エルアナ湖だ。
大きな湖面が雄大にその姿をたたえている。時折吹くささやかな風が湖面を僅かに波立たせる以外は極めて静かな光景だ。私達はまず脚を休めると喉の渇きを癒した。
応援ありがとうございます!
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