姉ちゃんの失恋

月波結

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第2話 熱中症――ツバキ

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 暑い……。やってらんない。
 こんなに暑い中、がんばって・・・・・ちょっと遠くて、ちょっとだけ程度のいい予備校に行って勉強しても何もかもムダな気がする。
 喉がカラカラで、体は萎びて倒れそうだ。外気に溶けて蒸発しそう。仕方が無いので体を意識が引きずって家路を急ぐ。

「ただいまぁ」
「あ、姉ちゃん、おかえり」
 ……こいつ、また女の子連れ込んだなと思う。
 わからないはずはない。気を利かせたつもりか、キッチンの水切りには洗われたグラスが二つ。しかもカエデからはボディーソープのシトラスのいい香りがした。
「あんたもボヤボヤしてるとすぐに受験生だからね」
「わかってるよ」
「ふん、3年になるまでは誰だってそう思うんだよ」
 リビングの中は快適な温度だった。体の芯にこもった汗がすーっと引いていくように感じて、わたしはソファにどさっと座り込んだ。そうしたら、上半身もソファに沈み込んだ。
「姉ちゃん? どうしたの? ツバキ?」
「……うっさい、ツバキとか呼び捨てにすんな。ちょっと頭、痛いだけだってば……」
 のそのそとカエデがわたしのところにやって来て、怒られないかと怯えた顔をしてわたしの額に冷たい指を当てる。ぺたり、とついた手のひらが熱を吸収する。
「熱ある?」
「体温計、持ってきてやろうか? 熱中症かもしれないから水分と……」
「冷たいタオルちょうだい」
 うん、と頷いてカエデは体温計を取りに立ち上がった。カエデは普段、わたしに従順だ。
 両親が共働きだから、二人きりで家にいることが多い。カエデの半分はわたしが育てたのかもしれない。だからわたしに逆らうことはまずなかった。
 それどころか、わたしに何かあるとすぐに不安そうにする。わたしを失うのが怖いんだな、と直感的に思う。
 ピピピッ……と頼りない電子音が鳴って、そばについていたカエデが、わたしが重い腕を上げるより早く体温計を手に取る。わたしの胸のボタンを3つ外した脇からそっと。
「37度。平熱じゃないじゃん。少し体から熱が取れるまで動いちゃダメだよ」
 うん。
「今、アイスノン持ってくるから。冷えピタ大丈夫だったよね?」
 うん。貼る時ちょっと冷たすぎるけどね。
「飲み物とりあえず飲もう」
 ……それは。
「あんたさぁ」
 顔の上に腕を乗せたまま、カエデの姿を目にせずに一息に喋る。変な誤解は招きたくない。断じてそういうつもりではないのだから。
「それ、今日女の子と飲んだでしょう? そこのグラスで」
「……でもさ、冷たい麦茶だよ、飲んだ方が」
 ムカッと来てしまう。カエデの言うことは正論で、そしてわたしは看護されている。言うことは静かに素直に聞くべきなのだ。
 だけどこの子は言い訳一つしない。ちょっとはかわいく否定して見せてもいいのに。
「ヤッた後に飲んだお茶なんか、飲みたくないなぁ」
 思ったより大きな声になってしまった。かわいげも何もない。ただのヒステリックな女だ。
 体中から水分が抜けているはずなのに、悔しいことに涙が滲んできた。違う、悔しいから泣けてくるんだ。
「ツバキ、僕が悪かった。でも、お茶は飲んで? 体に悪いよ」
 ううん。
「ワガママ言わないで、お願い聞いてよ」
 ううん。
「だったらどうしたらいい? 他の飲み物、買ってくる? 何が欲しい?」
 甘やかして欲しい。ただ、それだけでいい。甘やかして欲しい。たった一つ年上なだけでお姉さんとか、そういうつまんないことじゃなくて。
「……なくて」
 あ、口に出しちゃった。全部、聞こえてる?
「うん、わかってるよ。ツバキはツバキだよ」
 カエデはわたしの頬をゆっくり撫でた。冷房の設定を強風に変えてくれたお陰で、体も少し落ち着いている。
「口移しで飲ませて」
「いいよ」
 お前、そんなに簡単でいいのかよ。これは人生を左右する大きな決断だ。どこに自分の姉に口移しで麦茶を飲ませる弟がいるんだ。
 水切りから1つのグラスを手に取って、氷がまずそこに注意深く入れられる。それから麦茶がとくとくとく、と涼し気な音で注がれる。
 それはどっちのグラス?
 カエデの?
 それともあの女の子の?
「ツバキ、気をつけてね」
 やわらかくて冷たい感触を唇に感じる。カエデには躊躇いがない。カエデの体温も、その茶色い液体が奪ってしまった。そして、ゆっくりカエデの唇が開く。
 ああ、喉が乾いていたんだっけ。
 イライラの原因を思い出した気になってほっとする。麦茶を飲み下そうとする度、口の端からすーっとそれは垂れていく。カエデは慎重に事を進める。わたしは薄らと瞼を開ける。
 キレイ……。
 この子は本当にキレイな子だ。男の子なのにまつ毛が長い。切れ長の目に影を落とすようにまつ毛が縁どっている。日に焼けない白い肌と、絹糸のように黒くてさらさらの髪。
 そっと手を伸ばす。
 もうカエデの口の中に麦茶はなかった。なんでわかったかって? それはカエデの口の中まできちんと確認したから。一滴残さず、わたしが飲み干した。
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