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第20話 にじいろのさかな――カエデ
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何やってんだよアイツ。
何でツバキを傷つけるんだよ。傷つけるなら僕にしろよ。……違う、ツバキが僕の前に飛び込んだんだ。
カッターの刃が、チチチ……と音を立てて長く出された時、その時にもう僕は怯んだ。逃げ腰になって、竦んでしまった。
アオイの目は普通じゃなかった。顔色は何故か青ざめ、カッターの刃をじっと見つめて口を半開きにしていた。
刺される! そう思った。どうやって自分を守ればいいのかさえわからなかった。
その時、部屋にツバキが飛び込んできて、僕の前に滑り込んだ。
それは一瞬だった。アオイのかざした刃が曲線を描く。ツバキは自分を守らずに僕を庇おうと手を広げた。がら空きだったツバキの頬に、その刃は傷をつけた。
情けなかった。
ツバキは何も言わず、静かに頬に手を当てた。手を広げると、まるでドラマの血糊のように嘘みたいに鮮血が広がっていた。僕はその時やっと何かが繋がって、救急箱へ向かった。
救急車をアオイに呼ぶように言った。
僕の頭の中はツバキを傷つけたことへの反省と、アオイに対する憎しみがいがみ合っていた。好きでもない女とずっと関係を持ち続けたことのこれがその顛末なのかと思った。ツバキにはとても合わせる顔がなかった。
救急車を待つ間、あの柳先輩が突然やって来て、動揺している僕なんかよりよっぽど手際良く作業を進めた。
ツバキの傷を見て、抱きしめて安心させてやり、ツバキの指示通りに保険証や現金の用意をした。そうして僕に親に連絡するように言って、床に落ちていた例のカッターの刃をしまった。それはカタンと小さな音を立てて僕の机の上へ置かれた。
「大丈夫?」
と先輩はアオイに声をかけた。アオイは壊れた人形のように首を縦に数回振った。そして彼女にも手を洗ってくるように指示した。
ツバキは先輩に笑って、状況証拠なんかいらないから血が落ちてたら拭いちゃって、と頼んだ。
二人はずっと前から寄り添い合っていたように親密だった。僕は床に膝を抱えて座り込んだ。救急車はなかなか来なかった。先輩が僕の背中をポンと叩いた。
本当は僕がああやって動くはずだった。
僕の場所はなかった。最初から、先輩の場所だったんだ。
何となくわかっていた。
抱いちゃおうと思った時、ツバキの抵抗は必死ではなかった。初めてではないんだな、とぼんやり思った。初めての相手が僕ならいいのに、と思った。
ツバキの初めての相手はおそらく先輩なんだろう。ツバキの体のすべてを晒した相手は先輩なんだろう。ツバキは先輩に組み敷かれてその体の下で血を流した。
「あ、来たみたい」
「一人で歩けるの?」
「待って、とりあえずドア開けなきゃ」
ツバキは玄関のドアを開けて救急隊員を迎えた。いくつか質問を受ける。
何で切ったのか?
どんなものか?
などなど。
ツバキはどんな質問にもハキハキと無難な答えを返していた。
「じゃあ、一応病院に行きましょう。入院はないでしょうから、保険証とお金を持ってください。付き添いの方、一緒にどうぞ」
当たり前のようにツバキの手を引いて先輩が救急車に乗り込んだ。血縁だから、と言って乗せてもらい、アオイは家に帰した。
初めて乗った救急車は静けさに満ちていて、淀んだ湖の底を走る銀色の魚のようだった。サイレンを鳴らすと、みんなはすっと逃げていく。昔読んだ絵本の「にじいろのさかな」を思い出す。
僕が深い湖の底にいる間中ずっと、ツバキの手は先輩と繋がっていた。あんなに怖い思いをしたのに、顔に微笑みをたたえていた。二人の仲にもう入れないのは明白だった。
帰ってきた両親は大騒ぎだった。
どうせ切られるならカエデにすれば良かったのに、と何度言われたかわからない。でも僕だってそう思うから仕方がない。
その場にまだいた先輩は、ツバキを助けてくれたボーイフレンドとして紹介された。母は、
「こんなに破天荒な娘ですけどよろしくお願いします」
と挨拶した。
するとツバキが突然、素っ頓狂なことを言い出した。
「ママ、わたしW大、記念受験してもいい?」
「ツバキ、あんた、そんな難関校受かるの?」
「……柳くんの大学と近い大学に通いたいの。一人暮らししたら大変だってわかってるし、第一志望は国立にするから」
「……!」
柳先輩は絶句していた。
驚天動地、といった具合で、口に手を当てて素っ頓狂な声が出ないよう押さえているようだった。私立有数のW大と国立に受かったら誰もがツバキを称えるだろう。
「ツバキ、オレは国立に行くから。何としても行くよ。だから、オレのことでもうこれ以上、志望校を変えようだなんて思わないでくれ」
父さんも母さんも、何も言わなかった。ソファにゆったり座らされていたツバキはにかっと笑って、
「あんたがそう言うならそれでもいいけど。でもわたしの譲歩はここまでだよ」
と言った。
「にじいろのさかな」は自らのにじいろのうろこをみんなに分け与えて友だちを作る。自分が最も大切なものを人に譲る。
僕の一番大切なツバキを、先輩に譲り渡したら僕にも他に得るものがあるんだろうか? ツバキを譲るなんてできるんだろうか? ツバキを……。
何でツバキを傷つけるんだよ。傷つけるなら僕にしろよ。……違う、ツバキが僕の前に飛び込んだんだ。
カッターの刃が、チチチ……と音を立てて長く出された時、その時にもう僕は怯んだ。逃げ腰になって、竦んでしまった。
アオイの目は普通じゃなかった。顔色は何故か青ざめ、カッターの刃をじっと見つめて口を半開きにしていた。
刺される! そう思った。どうやって自分を守ればいいのかさえわからなかった。
その時、部屋にツバキが飛び込んできて、僕の前に滑り込んだ。
それは一瞬だった。アオイのかざした刃が曲線を描く。ツバキは自分を守らずに僕を庇おうと手を広げた。がら空きだったツバキの頬に、その刃は傷をつけた。
情けなかった。
ツバキは何も言わず、静かに頬に手を当てた。手を広げると、まるでドラマの血糊のように嘘みたいに鮮血が広がっていた。僕はその時やっと何かが繋がって、救急箱へ向かった。
救急車をアオイに呼ぶように言った。
僕の頭の中はツバキを傷つけたことへの反省と、アオイに対する憎しみがいがみ合っていた。好きでもない女とずっと関係を持ち続けたことのこれがその顛末なのかと思った。ツバキにはとても合わせる顔がなかった。
救急車を待つ間、あの柳先輩が突然やって来て、動揺している僕なんかよりよっぽど手際良く作業を進めた。
ツバキの傷を見て、抱きしめて安心させてやり、ツバキの指示通りに保険証や現金の用意をした。そうして僕に親に連絡するように言って、床に落ちていた例のカッターの刃をしまった。それはカタンと小さな音を立てて僕の机の上へ置かれた。
「大丈夫?」
と先輩はアオイに声をかけた。アオイは壊れた人形のように首を縦に数回振った。そして彼女にも手を洗ってくるように指示した。
ツバキは先輩に笑って、状況証拠なんかいらないから血が落ちてたら拭いちゃって、と頼んだ。
二人はずっと前から寄り添い合っていたように親密だった。僕は床に膝を抱えて座り込んだ。救急車はなかなか来なかった。先輩が僕の背中をポンと叩いた。
本当は僕がああやって動くはずだった。
僕の場所はなかった。最初から、先輩の場所だったんだ。
何となくわかっていた。
抱いちゃおうと思った時、ツバキの抵抗は必死ではなかった。初めてではないんだな、とぼんやり思った。初めての相手が僕ならいいのに、と思った。
ツバキの初めての相手はおそらく先輩なんだろう。ツバキの体のすべてを晒した相手は先輩なんだろう。ツバキは先輩に組み敷かれてその体の下で血を流した。
「あ、来たみたい」
「一人で歩けるの?」
「待って、とりあえずドア開けなきゃ」
ツバキは玄関のドアを開けて救急隊員を迎えた。いくつか質問を受ける。
何で切ったのか?
どんなものか?
などなど。
ツバキはどんな質問にもハキハキと無難な答えを返していた。
「じゃあ、一応病院に行きましょう。入院はないでしょうから、保険証とお金を持ってください。付き添いの方、一緒にどうぞ」
当たり前のようにツバキの手を引いて先輩が救急車に乗り込んだ。血縁だから、と言って乗せてもらい、アオイは家に帰した。
初めて乗った救急車は静けさに満ちていて、淀んだ湖の底を走る銀色の魚のようだった。サイレンを鳴らすと、みんなはすっと逃げていく。昔読んだ絵本の「にじいろのさかな」を思い出す。
僕が深い湖の底にいる間中ずっと、ツバキの手は先輩と繋がっていた。あんなに怖い思いをしたのに、顔に微笑みをたたえていた。二人の仲にもう入れないのは明白だった。
帰ってきた両親は大騒ぎだった。
どうせ切られるならカエデにすれば良かったのに、と何度言われたかわからない。でも僕だってそう思うから仕方がない。
その場にまだいた先輩は、ツバキを助けてくれたボーイフレンドとして紹介された。母は、
「こんなに破天荒な娘ですけどよろしくお願いします」
と挨拶した。
するとツバキが突然、素っ頓狂なことを言い出した。
「ママ、わたしW大、記念受験してもいい?」
「ツバキ、あんた、そんな難関校受かるの?」
「……柳くんの大学と近い大学に通いたいの。一人暮らししたら大変だってわかってるし、第一志望は国立にするから」
「……!」
柳先輩は絶句していた。
驚天動地、といった具合で、口に手を当てて素っ頓狂な声が出ないよう押さえているようだった。私立有数のW大と国立に受かったら誰もがツバキを称えるだろう。
「ツバキ、オレは国立に行くから。何としても行くよ。だから、オレのことでもうこれ以上、志望校を変えようだなんて思わないでくれ」
父さんも母さんも、何も言わなかった。ソファにゆったり座らされていたツバキはにかっと笑って、
「あんたがそう言うならそれでもいいけど。でもわたしの譲歩はここまでだよ」
と言った。
「にじいろのさかな」は自らのにじいろのうろこをみんなに分け与えて友だちを作る。自分が最も大切なものを人に譲る。
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