インディアン・サマー

月波結

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第7話 雨脚が強い日

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 僕にとっての本当の夏休みは、ハルと過ごしたあの日一日だった。
 プラネタを出て、しばらくハルのウインドーショッピングに付き合って、ハンバーガーを食べたところで彼女はスマホの画面を見た。腕時計はしていなかった。
「あー、これ食べたら帰る。ごめん、いきなりで」
 心無しか憂鬱そうな顔をして、ハルはそう言った。ギュッと閉じた口を開いたら、ため息が出てきそうに見えた。
 だからと言って、なんと言って引き留めたらいいのか、引き留めていいのかわからなかった。
「今日はいっぱい気をつかってくれてありがとう。これだけエスコート上手ならアキはいつ彼女ができても安心だね」
「またすぐそういうことを。いないって知ってるくせに」
 僕の好きな人が誰なのか知らないくせに。
「――女の子は、なんでも知ってるんだぞ」
 じゃあ、ほんとごめんと言って彼女はトレイを持ち上げると颯爽と店から立ち去って行った。
 狭いテーブルの向かい側に確かに彼女がいたことを、テーブルの丁度半分が空いたことが示していた。
 どうしたんだろう? 楽しそうに見えたのになぁ。それは僕の勘違いだったんだろうか。

 帰りの電車に乗っていると通知が入って、開いてみたらハルからの送信だった。
『ありがとう』。
 癒し系ネコのスタンプ。ハルからのメッセージはそれだけだった。
 僕はなんだかすっかりフラれたような気分になり、揺れる電車の頼りない吊革に、もたれるようにぶら下がった。
 また会いたいと言ったら、どんな返事が来るんだろう? 予行練習の続きだとうそぶいてみようか。
 そんなのは悪趣味だ。
 欲しいのは、ほんとの気持ちだ。
 会える回数より、深いところにあるその気持ちが欲しい。

 いつから僕はそんなことを考えるようになったんだろう?
 いつでもハルに会えると思っていたあの頃は、いつ消えたんだろう?
 ――早く会いたい。

 募る気持ちはもどかしいまま、二学期は九月になったのに気温も下がらないまま惰性に任せて過ぎて行った。
 今年同じクラスになった元野球部の唐澤が、なにかを言いたげにしていることに僕は気付いていた。
 唐澤の方は僕と直接的な接点がないことから、声をかけるのを躊躇っているようだった。
 例えば世界史の時間、ふと振り返ると、その日に焼けた黒い顔がこっちを見ていて微妙な気持ちになる。アイツとなにか特別なことがあったかな、と記憶を探るけどなにも出て来ない。
 まるでインドアな僕と彼の間に接点を見つけるのは難しかった。

 難しいことは考えるのをやめて、黒板に目を戻す。
 世界史の授業は板書がとにかく多い。
 昔の人がどんなことを考え、実行し、その積み重ねに今があることに興味があった。
 でもそれは授業じゃなくても、自分で選んだ史料の中で学べるのも知っていた。
 多少、脚色はされていても、本やドラマや映画。そう思うとやはり心はどこかに浮かんで、教室の温い空調に眠気を誘われる。
 先生の声はいつでもいい子守唄に聴こえた。

 件の唐澤が話しかけてきたのは九月も終わろうとする頃だった。
 まとまった雨が降って、行きだけで靴の中までびしょ濡れだった。カバンの中から、母さんが持たせてくれたタオルを出して、教わった通り、叩くように制服に着いた水気を拭っていた。
「小石川」と、変な勢いをつけて唐澤は話しかけてきた。勿論、僕はなにも考えず、その時が来たことに応じた。
「おはよう」
「おはよう、酷い雨だな」
 少し早口に彼は言った。なにが彼をそうさせるのか皆目見当がつかなかったし、それほど興味も持たなかった。
「あのさ、後でちょっと話があるんだけど」
「構わないけど」
「じゃあ······放課後、教室でもいいか?」
 放課後の教室。
 なんだかますます微妙だ。しかし断る理由もない。僕は頷いた。
「別に構わないよ」
「ありがとう、助かるよ」
 唐澤はそこだけ雨が止んだかのような晴れやかな笑顔で、彼の席に戻って行った。
『雨、大丈夫?』とハルに送ると『警報出れば休校だよ』と返信が来た。
 警報が出るほど雨が降ったら徒歩のハルはどうやって帰るんだろう、という疑問が頭を占有した。

 雨脚が弱まることのないまま、放課後を迎える。
 先生たちはなるべく早く帰宅するようにと口々に告げた。警報はまだ出ていない。
 幸い母さんが車で迎えに来てくれることになっていたので、話が早く進むことだけを考えた。
 雨のお陰と言っていいのか、HRが終わると皆、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。
 すぐに僕たちは二人きりになった。

「それでどんな話かな?」
 なにか悪い噂でも流れていて、とばっちりを食らったらどうしようと考えていた。
 相手はよく鍛えられた体をしている。一方、僕は体育の成績はマイペースという感じだ。
 もし襟元を掴まれるようなことになったらどうしたらいいのか、何事にも詳しい友人、佐野にでも聞いておくべきだった。
 でもそんなことを聞いたら佐野のことだ、どういう事情があるのか探ってくるに違いない。そして情報屋らしくあとこちに漏らすに違いない。
 だから僕は今回の件を、佐野には黙っていたんだ。物事をより一層ややこしくしたい人間は一定数いる。それがアイツだ。

 唐澤はガランとした教室で所在なさげに、僕を見て立っていた。
 仕方がないので、荷物は席に置いて、相手の方に歩み寄った。まったくそんなに神経が過敏になる話とはどんな話なんだろう。
 聞かずに済むならさっさと帰りたい。雨脚は弱まらない。道路が浸水したらアウトだ。
「まさかこんなに雨が降ると思わなかったんだけど、とにかく残ってくれてありがとう」
 礼儀正しく律儀な男だ。
 僕は返事はせずに、軽く頷いた。
「あのさ、実は俺も早く話を終わらせたいんだ。だから単刀直入に聞くけど、今、彼女はいる?」
 ――拍子抜けだった。
 ここ数日の緊張はなんだったんだ。たかがそれを知りたくて、ずっとガン見してたのか?
「あの、気を悪くしたら申し訳ないんだけど、⋯⋯唐澤は僕が好きなの?」
 世の中にはいろんなことがある。
 これだけ躊躇い続けたんだ、あるかもしれない可能性を口にした。
「違う。それはない。俺は女の子が好きだ」
 だよな、という両者間の意思の疎通がなされて、空気が少し軽くなる。
「答えはノーだよ。見栄を張ってみたいところだけど、今日はとにかく早く帰りたいし」
「理由は聞かなくていいのか?」
「聞いた方がいいのなら」
 彼は難しそうな顔をした。一体誰がこんなよくある質問を、よりによってあまり適役とは思えない寡黙な唐澤にさせたんだろう。
 心の底から気の毒だった。
 第一、僕の恋愛事情なんて放っておいてほしいのが現状だ。
「菊池、わかる?」
「わかるよ、同じクラスだろう」
「その菊池なんだけど、その、いわゆる幼馴染ってやつでさ」
「ああ」
「聞いてほしいって頼まれたんだ。――いや、俺は自分で聞くことを勧めたんだけど、どうしてもって頼まれちゃって」
「大変だね」
 つい口から出た言葉は他人事といった乾いたものだった。
 唐澤はその一言で逆に重い荷物を下ろすことができたかのように、ふうっと大きく息を吐いてその大きな体躯で近くの机に腰かけた。
「本当はもっと深く聞かなくちゃいけないのかもしれないけど、俺もお前もこの天気で早く帰りたいし、この話は一応これで終わらせよう」
 それには賛成だった。
 母さんは気が長い方だけど、車の運転は怪しい。技術はあるくせに気を配りすぎてテンパることも多い。
 この雨量に怯えてるかもしれない。
「じゃあお言葉に甘えて僕は帰るよ。車で迎えに来てもらってるんだ。菊池さんのことは聞かなかったことにしておく。じゃあまた明日」
「ありがとう、恩に着る」
 どこまでも律儀な男だと思うと少し哀れだった。
 あんな役目は誰だってごめんだろう。余程、仲がいいのかもしれない。僕とハルのように。
 しかし、もし同じことをハルから頼まれたら僕はもうお終いだ。とても耐えられそうにない。唐澤の役は演じられないかもしれない。
 ハルは無事に帰れたんだろうかと思いつつ、傘を開いた。
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