すべて、青

月波結

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 帰り道は湖西と上ってきたあの坂を、学校に向かって重いスーパーのカートを押しながら学校に戻った。
 妙な具合だった。

「……勝手にカート借りてきちゃってやっぱりまずくない?」
「だーかーらー、いまは非常時だからそういうのはいいんだよ、名璃子」
「名璃子はむかしから真面目だよな」
 綾乃とわたしはカートを押して、男子は保冷バッグを持っていた。
「今日はおいしいもの食べられるね。キャンプみたい」
 キャンプみたい。その言葉のあと、綾乃はふふっと笑った。
 わたしは坂道に飽きて額に汗をかいていた。

 スーパーでは生鮮食品がたくさん手に入ったけれど、それより思わぬ拾い物をしたのはコンビニだ。
 恥しいけど、替えのTシャツと下着を見つけられた。真新しいタオルも。
 例えばジャージはどうしようもなければ誰かのロッカーのものを借りるにしても、下着はちょっとそうはいかない。ブラジャーこそ手に入らなかったものの、大きな収穫。
 綾乃とふたりで分けることにした。

 誰もが留守、といった風情のスーパーは当たり前のように食べ物があふれていて、四人で集まってとりあえず食べたいのはカレー、ということになる。
 テッパン。
 どうせなら、と高い牛肉を贅沢に使うことにする。
 それから、次はいつになるかわからないので生野菜を仕入れる。手に取ったトマトのみずみずしい重さが心地よい。

 佳祐が突然、今日の気温にまいったのか豆腐が食べたいと言う。カレーに豆腐ってどうなの、という話になったけど、豆腐も日持ちしないので最後になるかも、とカゴに入れる。
 買い物は万事が万事そんな感じで、最初は楽しく始まったのに次第に心がさみしくなっていく。

 スーパーのカートは昇降口に置いて、重い荷物を口数少なく家庭科室に運ぶ。

「青山さん、お疲れ様。冷えてるうちになにか飲んだ方がいいよ、顔色が悪い」
 一往復終えたところで湖西に声をかけられる。ああ、確かに体がずっしり重さを増していた。
「ふたりに会えたからうれしくて興奮しすぎちゃったのかも。変に疲れちゃった」
 それを聞いた湖西は、わたしの目を見て首を傾げた。見透かされてしまう、と身構えたものの、いまは秘密を作る余裕もないので見られるものがあっても構わないことに気づく。
「あとは僕たちでやっておくから、ゆっくりひとりになっておいでよ。したいこととかしてほしいこと、ある?」
「ある。笑わないでね、歯磨きがしたいの」
 思った通り彼は口の端で笑って、じゃあとりあえず教室に行こうと言った。甘いものをたらふく食べて口の中が気持ち悪かった。
 湖西は「青山さん、ちょっと疲れちゃったみたいだから」と言って先にわたしに歯磨きをさせると、保健室に行って寝てくるように促した。
 わたしは保健室から出ていく彼の背中に「ありがとう」と言った。
 いいんだよ、と振り返らず彼は部屋を出た。

 ――こんにちは、名璃子ちゃん。わたしは〇〇、よろしくね。
 その女の人の手首には細い鎖のブレスレットが下がって揺れていた。両手で抱えていた大きなクマをがんばって片手で抱えて、やっとのことで握手をする。
 ――だからこういうの早いって言ったじゃない。名璃子ちゃん、警戒してすぐに握手してくれなかったもの。嫌われてるのかな? 名璃子ちゃんはパパ、好き?
 小さいわたしは人形のように、こくりとうなずいた。
 ――ほら、パパが好きなんですって! それじゃあわたしは好かれるわけないわよ。だって恋敵《ライバル》だもの。女の子ってそういうの、早いのよ。
 ――バカなこと言うなよ。この子は妻に似て感情表現があんまり豊かじゃないんだ。君が嫌いなわけじゃないさ。……さあ、名璃子、お部屋で少し遊んでいられる? いい子にしてたらまたぬいぐるみを買ってあげるよ。
 ――本当に?
 ――本当に。
 小さいわたしは引きずるようにクマを連れて部屋に帰る。わたしはあのひとを嫌ってるわけじゃない。でもあのひとはわたしを嫌ってる。
 そういうのは子供にも不思議と伝わるものなんだ。
 嫌われてるのはわたし。

 本当はぬいぐるみはひとつで十分だった。
 それ以外のぬいぐるみは、与えられる度に棚に飾られた。
 なにも知らないママは「パパはよっぽど名璃子がかわいいのね」と笑った。

 金色の時間。
 これから夕焼けがやって来て、空を闇の中に攫っていく。
 その前の奇跡的に短い、光が金色に輝く時間だった。

 寝る前に飲んだペットボトルのお茶はそのまま置かれていて、体重の重心を変えるとベッドがみしっというのに気を取られながら体を起こした。
 久しぶりに嫌な夢を見た。
 何度か会ったあのひとの顔は塗りつぶしたように忘れてしまっていた。
 いまならわかる。あのひとが嫌いだ。
 そして知ったのは、ひとを嫌いになるのにはすごくエネルギーが必要だということだ。

「名璃子、見てー! いない間にサラダ作ったの。お豆腐のサラダ」
「美味しそうじゃない」
 綾乃の作ったサラダは真っ赤なプチトマトがかわいく飾られていて、食欲をそそる配色だった。
「……あのね、ご飯前だけどおやつにしない?」
「え? どうせならみんなで」
「ちょっとつまむだけ、ちょっと。男子はこそこそどこかでなにかやってるみたいなの。なにが食べたい?」
「え……じゃあ、ビスケット」
 綾乃はお菓子ばかりが入った買い物かごから、青い箱に入ったビスケットを取り出した。
 そのビスケットはバターが効いていて甘かった。その甘さが香ばしさとともにやって来て、お腹に染み渡る。

「わたしねぇ、ほら、お兄ちゃんがふたりいるじゃない? 末っ子だから結局甘やかされるんだけどね、たまにはにされてみたいの。夕飯の支度もお兄ちゃんが手伝うの。『綾乃はなにもできないから、いつまでたってもなにも覚えられない』。だからこれはこんな時だけどいい機会だと思うんだ。……ほら、佳祐においしいもの食べさせたいじゃない?」

 なるほど、それで。
 ふわふわした笑みを浮かべる綾乃にわたしは「がんばったね」と言った。
「がんばったよー。あと、手伝う時に呼んで」
 と言ってどこかに消えてしまった。
 さしずめ佳祐を探しに行ったんだろう。
 わたしはとりあえず、四人で食べるには足りなさそうな豆腐サラダを不足分、作ることにした。
 豆腐の水切り、綾乃はしたのかな、と皿を傾けるとやっぱり底の方に水が溜まっていて、だからと言って解体しちゃうのはかわいそうなのでご飯前にもう一度、水を捨ててあげようと思う。

 綾乃は健気だ。ひたむきでまっすぐで、わたしを容易く撃ち抜く。
 こんなわたしがどうしてずっと綾乃の友だちでいるのか。
 わたしはいつでも思い知りたいのかもしれない。自分の心の真っ白ではない部分を。忘れたいけど忘れたくないのかもしれない。捨てられてしまう痛みを。

 佳祐はしあわせ者だ。
 綾乃といたら毎日がきっと明るくて楽しいに違いない。いっぱい、いっぱい楽しさに満ちていて、ふたりの間のまだほんのちょっと残っている距離もすぐに埋まっちゃうだろう。

 玉ねぎを切ると、どんなに工夫しても涙が出る。目が痛い。いつからか工夫するのをやめた。目の端に溜まった涙は玉ねぎの味がしないのかな、なんてバカなことを考える。
「手伝うよ。……玉ねぎ? うわ、青山さん、一度目を拭いた方がいいよ」
 なにを言われたのかわからなかった。
 玉ねぎを切れば涙が出るのは当然で、隠さなくちゃいけないことじゃないのに。
「痛そう。ほら、手を洗って。てっきりふたりでやってるのかと思った」
「綾乃はサラダを作ってくれたから」
「それで彼のところに来たわけだ」
「……付き合い始めたばかりなんだよ、ふたり。いつでも一緒にいたいんじゃないかな?」
 湖西は複雑な顔をした。
 顔をしかめたようにも見えたし、納得したようにも見えた。
 そしてわたしの代わりに玉ねぎをザクザク切り始めた。

「少なくとも、この状況が終わるまで四人は絶対一緒だよ。仲間はずれはなしだから、なんでも一緒にやろう」
 終わった、と彼は濡れた布巾で手を拭いた。
 そうだ、確かに『三』ではなくなった。
 不安定な『三』から『四』になった。『四』なら安心できる気がする。地に足がついている気がする。

「どの鍋で作るの?」と聞かれて自分が鍋を出し忘れたことに気がついた。かっこ悪い。恥ずかしくて慌ててしまう。
「あ」
 ガラガラ……。
 きれいに整頓されていた鍋が棚から躍り出た。
「なにも慌てなくていいのに。親も先生も見張ってないんだ。自分たちのペースでいいでしょう?」
「そうだね、ごめん、頭で考えすぎちゃった」
 向こう側から、「大丈夫?」という声が聞こえる。「大丈夫だよ」と答える。
 ふたりで顔を見合わせて、いまのできごとを思い出して笑う。そっか、焦らなくてもいいことがあるんだよな。
 ここにはなんの縛りもない。あるのは怖くなるくらいの手放しの自由だけだ。

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