天使の報い

忍野木しか

文字の大きさ
上 下
14 / 56
第二章

流浪の天使

しおりを挟む

 1945年、春。
 曇り空の下で幼い天使が目を開いた。煙と砂埃の舞う街。駅前の悪臭。ゴミに埋め尽くされた海辺に漂うかのような腐った魚の臭い。否、もんぺ姿の幼い天使は海を知らない。ただ、天使はそれが不快な臭いだと混濁する感情の渦の中で受け止めた。
 生まれたばかりの天使に記憶は無い。視界に映る全てが天使の中に収まった初めての記憶である。だが、啓示か本能か、はたまた別の理由か、幼い天使は己の使命を理解していた。
 幸福と厄災を。人の行いに報いを。
 そして、天使は自分の名前を知っていた。
 新実和子。
 前歯の欠けたおかっぱ頭の天使は赤い防災頭巾を深く被り直す。煙と砂埃の混じる春風。澱んだ空を飛び回る無数の蝿。纏わり付く黒い羽虫に小さな手を振った新実和子は体を丸めた。吹き付ける冷たい春風が幼い身体には堪えたのである。
 駅の前では幼い天使と同じくらいの年の子供たちが膝を抱えて座っていた。梅の枝ほどに痩せ細った手足。垢と泥に濁った黒い肌。
 身寄りの無い少年少女は、ただ、ジッと待っていた。居なくなった家族を待っていた。誰かの声を待っていた。温かな何かを待っていた。
 幼い天使に気が付いた者はいない。それは、天使が人の認知から遠く離れた存在だからだという訳ではない。地面に座る子供たちが他への関心を失っていたからである。道を歩く大人たちが彼らへの関心を失っていたのと同じように。
 干涸びた蛙のように頬のこけた少年。その隣に蹲る幼い天使。風が止んだら動き出そうと、新実和子は目を瞑った。少しずつ薄れていく感情の渦。焦げ臭いもんぺ服。
 声がした。少年の咽び泣くような声が。
 顔を上げた新実和子は立ち上がった。薄れていく感情を揺さぶる声。幼い天使は小さな手をギュッと握り締めると歩き出した。音と臭いの溢れる世界を。人と天使が入り交じった時代を。
 膝をついて嗚咽する少年の背中。その隣で仰向けに倒れる幼い少女。
 もんぺ姿の少女の死体に首を傾げる幼い天使。赤い防災頭巾から覗くおかっぱ頭。光の無い瞳を這う蝿。水気の無い口元に見える欠けた前歯。
 少年は泣き続けた。意識を向ける人のいない涙。昼も夜も、少年は嗚咽を続けた。泣き疲れると倒れ込むようにして意識を失う少年。目を覚ました少年は、また、涙を流す。
 幾日か後、少年の涙は止まった。骨と皮ばかりの手足。虚ろな瞳。
 もんぺ服の少女の顔をジッと見つめ続けていた少年は、少女の頬を這う蛆虫を一匹拾い上げると口に入れた。弱々しく歯を動かす少年。やがてペースト状となった蛆虫を吐き出した少年は、腐臭の漂う少女の口にそれを押し込んだ。少女の顎に手を添えて何とかその口を動かしてあげようとする少年。蛆虫の液体が少女の口の奥に消えた事を確認した少年は僅かに頬を緩めると、ゆっくりと地面に倒れた。浅い呼吸。光の消えていく瞳。
 新実和子は走り出した。風を切る短い手足。荒廃した街を駆け抜ける幼い天使。
 街の隅の小さな闇市にごった返す人々。怒声と嘆き。
 人を縫うようにして市場を駆け回った新実和子は、砂の混じった塩と小さな芋を二つ盗んだ。激しく鼓動する胸を抑えながら。哀れな少年を救う為に。


 ショートボブの天使。田中愛はガラスの向こうに過ぎ去る街並みにワクワクとした興奮を覚えた。初めて乗る車。何処か懐かしい心地。
 白い軽自動車を運転する白髪の天使。新見和子はハンドルを切って大通りを右折すると、溝川沿いの細い坂道に車を走らせる。やがて見えてくる広いグラウンド。色付き始めたイチョウ並木の側に白髪の天使は車を止めた。
 新実和子が車を降りると田中愛は後に続く。乾いた風に乗る笑い声。正門前ではしゃぐランドセルを背負った子供たち。
 田中愛のショートボブを見下ろす白髪の天使。新実和子に付いて正門を潜った田中愛は訝しげに辺りを見渡した。長閑な小学校の風景。善意、悪意の薄い区域。
 何故、自分をこんな所に連れて来たのか。田中愛は首を捻って白髪の天使を見上げた。
 赤いランドセルを背負った二人の女の子が校舎から正門に向かって歩いて来る。秋空に笑う眩しい笑顔。幼い輝きに微笑む感情を持った天使。
 スッと片腕を上げた白髪の天使は己の認知の距離を女の子たちに近づけた。そのまま二人の女の子の前に立ち塞がった新実和子は、キョトンとした表情で立ち止まった丸顔の女の子の頭を撫でると、田中愛を振り返る。こちらに来いという視線。首を傾げて女の子たちの隣に立つショートボブの天使。
 横に並んだ二人と一。小学生の少女と高校生の天使を見比べて腕を組む白髪の老婆。秋の風にイチョウの葉が揺れて舞う。
 組んだ腕を外した新実和子は、女の子二人の頭を撫でると認知の距離を遠ざけた。キョトンとした表情のまま顔を見合わせる二人の少女。訳が分からず立ち竦む田中愛。
 白髪の天使に促されて小学校を後にした田中愛は、また、白の軽自動車に乗り込んだ。荒いエンジン音。秋の西日がゆっくりと空の向こうへと落ちていく。
 夕暮れが街を赤く染める頃、中学校の正門前に辿り着いた二つの存在は車を降りた。また、認知の距離を人に近づける白髪の天使。
 少し猫背の女の子を止めた新実和子は、ショートボブの天使と中学生の女の子を見比べてコクコクと頷いた。田中愛に鋭い視線を向ける白髪の老女。くわっと顔を上げて腰に手を当てるショートボブの天使。
 忠告。年齢にそぐわない判断能力。行動。容姿。体格。
 中学生からやり直すよう諭す白髪の天使に憤慨する田中愛。
 警告。腕を組む白髪の天使。
 キッとその鋭い一重を睨み返した田中愛は走り出した。中学校の正門を抜けて、街に駆け出すショートボブの天使。本来の活動拠点である高校を目指して。
 遠ざかる田中愛の背中を見つめる白髪の天使。猫背の女の子の頭を撫でた新実和子は己の認知の距離を人から遠ざけると車に戻った。沈む夕日。ショートボブの天使の姿は何処にも見当たらない。
 実の所、新見和子は容姿が幼く仕事の出来ない田中愛の存在にそれほど関心が無かった。白髪の天使の関心は別にある。
 長い黒髪の天使。否、天使だった存在。
 人に落ちた天使は完全な人とはならない。意思で動く器。感情の人形。
 人に落ちた天使は長くは生きられない。脆弱な器。ガラス細工の人形。
 だが長い黒髪の女生徒は、その体を汚しながらもまだ生きていた。
 万が一にも、長い黒髪の女生徒が再度天使に落ちる前に。
 新実和子は車を走らせた。激しく鼓動する胸の音を聞きながら。哀れな存在を始末する為に。
 
 
 







 
 
しおりを挟む

処理中です...