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第二章
慈愛の天使
しおりを挟む天使の丸メガネに映る曇り空。冷え切った空き教室。寂しい冬の静寂。
窓辺に佇む天使。久保玲は教室の端に座る二人の男を見つめた。異動を免れた、否、幸を与えられなかった若い男性教員。男性教員の視線に俯く小太りの男子生徒。
武藤健太は肩を丸めた。寒さからではない。言いようがない不快な感覚に胸の内が弾けそうな激しい吐き気を覚えたからだ。
何が、何故、いったい世界はどうなってしまったのか。彼の、まだ成長を終えていない子供の、ほんの小さな世界はいったい何処へ行ったのか。いなくなった父親も、病気に倒れた母親も、無くなった家も、全てが彼を取り巻く唯一の世界であった。
てんかんに引き攣る健太の頬。何処か苦しそうな、何処か間の抜けた丸い顔。若い男性教員は彼を哀れに思った。小太りで背の低い男子生徒。およそ友達と呼べる存在がいないであろう彼。イジメられる事こそあるとすれ、イジメる側に回るような事が果たしてあるのだろうか。
「なぁ、武藤。お前、どうなんだ?」
若い男性教員は出来るだけ表情を和らげると、ヒクヒクと痙攣を繰り返す健太の唇を見つめた。顔を上げた健太は悲哀とも喜悦とも取れるような曖昧な表情を浮かべて首を傾げる。先ほどから繰り返されている動作だった。
「武藤、お前、浜田と仲が良かったのか? お前らが一緒にいる所を見たって奴が沢山いるんだ」
健太はまた首を傾げる。
「お前、よく校舎裏に行ってたらしいな。いったいそこで何をしてたんだ?」
悲痛と歓喜を織り交ぜたような丸顔。返事は無い。
「おーい、武藤、聞いてるか? 先生は別に怒ってる訳じゃ無いんだぞ。ただ、事実を聞いているだけなんだ」
僅かに動く首と頬以外、動きの無い男子生徒。若い男性教員はイライラと揺れ始める膝の動きを止めようと深く息を吐いた。彼もまた焦っている。教育改革により新任教員ばかりとなったこの高校において、彼の肩身は狭い。若い男性教員は他から評価を極端に気にしていた。
イジメの事実は無い。それが学校側の見解だった。だが、それを許さない世間。イジメは確かにあったのだと叫ぶ生徒たち。若い男性教員もイジメの事実を知っている。だが、事実が表に出ることは無いだろうと、若い男性教員は考えていた。
犠牲が必要だった。世の信じる正義。その為の犠牲が。
武藤健太は何も喋らなかった。何も分からなかったからである。ただただ、健太は小さな世界が崩れる事を恐れていた。
ため息をついて腕を組む男性教員。足下から伝わる冷気に辟易し始めた頃、男性教員は無言で立ち上がった。ビクリと肩を震わせる健太。その丸い肩を見下ろした男性教員は空き教室を出て行った。
丸メガネの天使。久保玲は窓の外を見た。暗い雲に覆われた空。校庭の木々が乾いた風に揺れる。
健太は動かなかった。じっと肩を丸めて、世界が元通りになる事を祈った。
痙攣を続ける頬。小太りの男子生徒に近づく天使。
久保玲は白い両手でそっと、震え続ける健太の頬を包んだ。
校舎裏で白い猫を撫でるショートボブの天使。今日も現れない男子生徒。
シャー、という鳴き声。逆立つ白い毛並み。慌てて猫から手を離した田中愛は立ち上がった。地面に丸くなった白猫の横に転がるパン屑。寒さのせいか、白い猫は食欲が無いようだった。
もう一度撫でようと、しゃがみ込んだ天使に白い牙を見せる猫。諦めた田中愛は冷え切った両手に息を吹きかけると校舎に戻った。
冬休みの近い学校。昼休みの2年D組を包む重たい空気。
「うるさいんだよ、アンタら!」
カマキリのように痩せた男子生徒が怒鳴り声を上げると、太田翔吾はギロリと目を細めた。痩せた男子生徒に近づいた太田翔吾は、机で一人勉強に勤しむ彼の顔を覗き込むようにして睨み付ける。
「今、昼休みだぞ?」
「だ、だから何だよ! 僕は勉強してるんだ!」
「そうかよ、じゃあ勝手にやってろよ」
「ア、アンタらがうるさくて集中出来ないんだよ!」
「知るかよ、じゃあ、図書室にでも行けや」
「行く時間が勿体ないんだよ!」
「お前の勝手じゃねーか! このガリ勉ボッチ野郎が、ふざけてんじゃねーぞ、コラ」
首筋を赤く染めた翔吾は、痩せた男子生徒の胸ぐらを掴んで持ち上げた。慌てて翔吾に近づく女生徒たち。興味無さげに窓の外を見つめる中野翼。翔吾の太い腕に抱き付くショートボブの天使。吉沢由里の姿は無い。
「何をやっているの、貴方たち!」
騒ぎを聞き付けて2年D組を覗いた女性教員が悲鳴を上げた。チッと舌打ちをして手を離す翔吾。激しく咳を繰り返す痩せた男子生徒。痩せた男子生徒に駆け寄った女性教員は、キッと翔吾を睨み上げた。
「貴方、後で職員室に来なさい」
「うるせーな」
「何ですって!」
金切声を上げる女性教員。背中を向けた翔吾はポケットに手を突っ込むと教室を出ていった。ひっそりとその後に続くショートボブの天使。
廊下を大股で歩く翔吾はイライラと歯軋りをした。
つまらない学校。ムカつく教師たち。もう辞めてしまおうか、と翔吾は窓に映る曇り空を見つめた。
高い声が廊下の向こうから響いてくる。あっと、ポケットから手を出す翔吾。走り出した彼は階段を駆け上がった。
「由里、何やってんだ!」
階段を上がった先。新任の男性教員を睨み上げる吉沢由里。翔吾の短い髪を見上げた由里はチッと舌打ちをすると、男性教員に背を向けて歩き出した。慌てて一歩踏み出す翔吾。
「ちょっと君、彼女の友達?」
「はあ?」
「はあ、じゃ無いよ君。大人に対しての言葉遣いに気をつけようね」
「はぁ、何すか?」
「あのね、彼女の髪、君からも言って貰えないかな」
「髪? ああ、髪か」
「そ、あまり学生には相応しく無い色だってね」
「オッケーっす」
「任せたよ、それじゃあね」
軽く片手を上げる男性教員。ペコリと頭を下げた翔吾は、由里の後を追った。やっと階段を上がった天使もその後を追う。
静かな冬の校舎。ポケットに手を入れて歩くダークブロンドの女生徒。吉沢由里の瞳が、音も無く廊下を歩く白い影を捉える。
背の高い老女。白髪の天使。新実和子の鋭い一重を見上げた由里は、白い息を吐いて立ち止まった。
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