天使の報い

忍野木しか

文字の大きさ
19 / 56
第二章

後見の天使

しおりを挟む

 もんぺ服の天使。新実和子が初めて殺した人は痩せた男だった。
 ボロを纏った男。痩せ細った少年が靴磨きで稼いだ僅かな財産と衣服を盗んだ男。
 当然の報いである筈だった。だが、新実和子は人に落ちた。幸か不幸か、人として死にかけたもんぺ服の少女は再び天使に落ちる。
 戦後の食えない時代は罪と厄災が横行した。新実和子は数多くの人に報いを与え、罪の罰としてその命を償わせた。
 五度、人に落ち、五度、天使に落ちた頃、新実和子はある事に気が付いた。他の天使とは違い、体が成長していたのである。かつてのもんぺ服の天使は、気が付けば、背の高い妙齢の天使へと変わっていた。
 時代の移り変わり。経済の急成長に沸き上がる人々。
 かつての哀れな少年もまた恰幅の良い健康な青年へと成長していた。目付きの鋭い青年。高い鷲鼻に硬く結ばれた唇。だが、その心は誰よりも清く美しい。幸を与えるべき人であると、自分が目を掛けてきた人であると、新実和子は片時も青年の側を離れなかった。
 やがて青年は子供を授かる。三郎。可愛らしい赤子であった。その水を弾くたおやかな白い肌を撫でた新実和子は、また、ある事に気が付いた。認知の距離が人に近づいていたのである。自分を見つめて笑う赤子。自分の指を握る赤子。新実和子は青年を振り返った。青年は何事も無いかのように開けた窓の向こうの青空を見つめている。或いは、青年は既に新実和子の存在に気付いていたのかも知れない。だが、彼はそんな素振りをほんの僅かにも見せることがなかった。
 新実和子は認知の距離を遠ざける術を学ぶ。小学校に上がる頃になってやっと三郎は、部屋の隅を見つめて笑うという奇行を止めた。
 既に数え切れない程の人を殺し、五度人に落ちていた天使。人と天使の境が分かるようになった新実和子は、幼き頃のように人に落ちる事がなくなった。孤独だった青年とその家族を見守る天使。愚かな罪を犯さぬよう。愚かな罪に巻き込まれぬよう。
 青年とその家族に厄災を与えた事はない。
 可愛らしい赤子だった三郎は立派な青年へと成長した。父の子供時代を憐んでいた三郎。子供に夢を与えられる大人になろうと教師になった三郎は、県立F高校に勤める事となる。
 三郎についてF高校に舞い降りた天使は、そこで報いを遂行するようになった。悪行に厄災を。罪に罰を。
 だが、F高校においての新実和子の報いは長くは続かなかった。とある天使が、新実和子を再び人に落としたのである。


「アンタ、幽霊だろ?」
 声が震えた。
 ダークブロンドの女生徒。吉沢由里は白い髪の老女を見上げる。感情のない鋭い一重。異様に高く反り上がった鷲鼻。硬く結ばれた唇に生気はない。
「なぁ、もうここから出ていってくれよ」
 声の震えを抑えようと、由里は手をギュッと握り締めた。寒々とした校舎に流れる静寂。白髪の天使の瞳に言葉はない。
 由里は恐怖を感じていた。彷徨う何かを見るのは初めてではない。学校を彷徨う老女の存在も知っていた。だが、由里はこの白髪の老女が恐ろしく、今まで見て見ぬふりを続けてきたのだった。人に対して何の感情も抱いていないかのような瞳。その奥に漂う憎しみと怒りの黒。人殺しの目だと、由里は本能で怯えた。
 新実和子は驚いていた。認知の距離をどれだけ遠ざけても、ダークブロンドの女生徒は視線を逸らさないのである。
 見てはいけないものを見るのもまた罪であろうか。新実和子はダークブロンドの女生徒をどう始末しようか考えた。高鳴る白髪の天使の心音。濃くなっていく白髪の老女の存在に震えながら後ずさる由里。
「由里! だから髪染めとけって言ったんだぞ!」
 静寂を突き破る大声。ビクリと肩を震わせた由里は後ろを振り返った。廊下を走る大柄の男。その後ろで息を切らすショートボブの女生徒。立ち止まった太田翔吾は短い髪を掻きながらため息をついた。
「その金髪、今は不味いだろ。マジで退学になっちまうぞ?」
 無言。髪を乱した由里は、微かに震え続ける体を抑えようと胸を抱くようにして両肩に手を当てた。再び後ろを振り返るのが怖かったのだ。
 翔吾は訝しげに首を捻る。ショートボブの天使。田中愛は廊下の奥を見つめた。
「どうした? 何かあったか?」
 由里の微かに開いた唇から見える白い歯。言葉は無い。
「おい、どうしたんだよ? ……まさか、また、日野の奴か!」
 慌てて由里に近づいた翔吾は、彼女の指ごと、その折れそうな細い肩を掴んだ。翔吾の顔を見上げる由里。田中愛はワクワクと、顔を近づけ合う二人の男女を見つめた。
 はっと、由里は目を丸める。ショートボブの女生徒の好奇心の籠った輝く瞳に気が付いた由里は、カッと頬を赤らめると翔吾の股間を蹴り上げた。ダウンする翔吾。ショートボブの天使はやれやれと肩をすくめた。
「テメェ、馴れ馴れしく触れてんじゃねーよ!」
「お、お、おま、そ、そこはやべーって……」
 蹲る翔吾の背中を踏みつけるダークブロンドの女生徒。既に白髪の老女の姿は何処にも見当たらない。田中愛はまた廊下の向こうを見つめた。


「臼田先生、今日は付き合って貰って悪かったね」
「いえいえ、私の方こそ、飲みに誘って頂いて有難うございます」
「一杯やる約束だったからね。あれから随分と時間が経ってしまったが」
 新実三郎は白いお猪口に揺れる酒を舌で味わった。和やかな喧騒の溢れる居酒屋。臼田勝郎は豪快にビールを飲み干すと、空になった三郎のお猪口に熱燗を注いだ。
「学校の方は随分と、大変なようだね」
「ええ、ですが新実先生、ご安心ください。私が何とかして見せます!」
 勝朗は、ドンッと空になったジョッキをテーブルに叩き付けた。ウルフカットのカツラが僅かにズレる。勝郎の頭を見上げた三郎は、フッと笑みを漏らす。
「難儀だねぇ」
「いえいえ、ははっ」
「生徒は笑ってくれるかい?」
「ええ、やはり面白いようで、今ではイタズラしてくれた奴に感謝していますよ」
 カツラの位置を戻す勝郎。
「そうか、そうか、それは良かった」
「ええ!」
「でもね、臼田先生、あまり頑張り過ぎるのも良くないよ。少しは肩の力を抜いた方がいい」
「もちろんですとも、こうやって酒を楽しむ事で、肩の力を抜いてるんです」
「そういう事じゃあ、無いんだよ。先生、貴方も人なんだ、たまには学校の事を忘れてしまって、別の事に精を出すのもいいんじゃ無いかね」
「別の事とは?」
「例えば、そうだね、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか?」
「それは……」
 勝郎の頭に浮かぶ若い女性の姿。思わず、船江美久との結婚生活を想像してしまった勝郎は強く頭を振った。カツラが大きくズレる。
「い、いえいえ、この私が結婚などと……」
「勝郎先生、貴方もいい歳だろう? 所帯を持ち、子を育てる事は教師としての成長にも繋がるだろうと、僕は考えているよ」
「……いえ、やはり、私には」
「何故かね、貴方にも想い人の一人や二人いるだろう? 何なら僕がセッティングをしてあげよう。僕はね、家族の中で笑う先生の姿が見たいんだ」
 三郎はグイッとお猪口を傾ける。勝郎は苦渋に顔を歪めながら、お猪口にお酒を注いだ。
「私は……私は……愛する生徒を不幸にしてしまった。そんな私が結婚などと……」
「先生、勝郎先生、その気持ちは忘れてはいけない。僕はね、後悔に苦しむのを止めなさいなどと言っているわけでは無いんだ」
「ですが……」
「僕もね、ずっと後悔し続けている事があるんだよ」
 杯が進む。空になったお猪口に注がれる酒。水面に浮かぶ蛍光灯のオレンジ。
「新実先生ほどのお方が、後悔ですか?」
「はっは、僕など、貴方の足元にも及ばないよ」
「そ、そんな事は……」
「僕もね、生徒を一人、いや二人、不幸にしてしまっているんだ」
 動きを止める勝朗。和やかな喧騒は遠くに離れ、三郎の声のみが勝郎の鼓膜を強く揺らした。
「まだ、F高校に勤め始めたばかりの頃だよ。僕は子供が好きでね、本当に皆んな可愛かった。だからね、子供同士が歪み合うなんて事を想像もしたく無かったんだ」
 コクリと頷く勝郎。
「長い黒髪が綺麗な生徒だった。活発で、聡明で、皆んなを引っ張っていくような、誰からも愛される生徒がいたんだ」
「……はい」
「いい子だったよ、こんなに完璧な子供がいるものかと、僕も思わず贔屓してしまいそうになったくらいだ。……ただね、その子には妹がいたんだが、その妹は、あまりこう言っては何だが、不器用な子でね。笑うと可愛らしいんだが、やはり姉だったその子と比べると容姿に自信が無いようだった」
「……その、姉妹が?」
「……初めは、初めは妹の方が酷いイジメにあっていたそうだ。それを止めようとした姉が次のイジメの標的となってしまったらしい。僕は、僕は、何も知らなかったんだ」
「それは……」
「それは、知らなかったでは、済まないと……? そんな事は当然僕も分かっているさ!」
 突然の大声に振り返る他の客たち。勝郎は息を呑んだ。
「……イジメの事実が発覚した頃、時既に遅く、活発で聡明で壮麗だった僕の自慢の生徒は、自らの儚く尊い命を絶ってしまっていた。笑顔の可愛らしかった妹は、失意のもとに学校を去った。それが、僕の後悔だ」
「新実先生……」
「勝郎くん」
 お猪口をテーブルに置いた三郎は勝郎の目を見つめた。それはかつての担任の瞳だった。学生時代を思い出した勝郎は、慌てて姿勢を正す。
「山本先生を頼むよ」
「……は?」
「山本恵美先生だ。貴方の力で彼女を導いてやって欲しい」
「山本先生……? ですが、あの人は……」
「頼みます、先生」
 バッと頭を下げる初老の男。勝郎は慌てて立ち上がると深々と腰を追って頭を下げ返した。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写と他もすべて架空です。

処理中です...