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第二章
教導の天使
しおりを挟む武藤健太の自主退学が決まる。
病気で意識のない健太の母。代わりに現れた健太の叔母は、滲み出る影を濃い化粧で覆い隠したような陰気な女だった。書類の前に座った二人に注がれる冷たい視線。彼を守ろうとする者は誰もいない。
健太は、書類にペン先を叩き付ける叔母の汚い指を呆然と見つめた。崩壊していく彼の小さな世界。何が起こっているのか理解が追い付かない健太は目を瞑って羊を数え始める。悪い夢は羊を数えている内に覚めちゃうからね、という母の言葉を思い出す少年。
母の笑顔を頭の片隅に健太は羊を数え続ける。バシリと頭を叩かれた彼は慌てて顔を上げた。
「行くよ」
叔母の吊り上がった目尻。古くなった芳香剤の臭い。強く腕を引っ張られた健太は痛みに呻きながら立ち上がった。教員たちは無言で二人を見送る。冷たい視線。
健太に同情を寄せる者はいなかった。孤独な少年は一人下を向く。弱々しく握られた丸い拳。その手を包み込む温かな何か。
校舎を出ると冷たい風が健太の丸い顔を叩いた。肩を丸める少年。温かな右手。何処か夢見心地な白い世界。
あっと顔を上げた健太は走り出した。叔母の怒声が乾いた空気を切り裂いて健太の背中に届く。土の混じった雪。校舎裏に走る少年。
「ああ、よかった……」
健太は錆びた用具入れの前でしゃがみ込んだ。久しぶりの笑顔に痙攣の止まる頬。白い猫と黒い猫が健太の丸い顔を見つめた。
「元気でね」
二匹の猫の頭を撫でる少年。立ち上がった健太にコクリと頷く黒い猫。
健太は曇り空から舞い散る粉雪を見上げた。何時迄も温かな右手。足元に擦り寄る白い猫。
顔を上げた孤独な少年は一人歩き始める。
吉沢由里は白い顔を怒りで赤く染めた。波立つロングのダークブロンド。太田翔吾は慌てて両手を前に構える。
「お、落ち着けって」
「何でだよ、イジメてたのは日野の奴だぞ! 何で、何で関係ない奴が退学になってんだ!」
「由里、そんな事は皆んな分かってんだよ」
細い髪を乱すダークブロンドの女生徒。その瞳に浮かぶ涙に翔吾は動揺した。
「武藤健太くんは否定しなかったそうだ。ネットに顔写真をばら撒かれたにも拘らず被害届は出して無いようだし、何か弱みでも握られてるのかも」
カマキリのように痩せたクラスメイト。石田大樹は細い腕を組んだ。由里はギロリと目を細める。
「いや、お前誰だよ?」
「え、君のクラスメイトだけど……」
「そういう事じゃねーよ! 何でテメェが話に加わってんだ!」
「おい、待ってって由里、本気で日野の野郎を断罪する気なら、人数は多い方がいいだろ?」
由里に胸ぐらを掴まれる痩せた男子生徒。翔吾は二人の間に割り込もうと太い腕を伸ばす。
「そ、そうだよ吉沢さん、怒ってるだけじゃ日野龍弥は裁けないぞ」
「何だと!」
「ひ、日野龍弥を裁くには確かな証拠がいるんだ。それが無ければ永遠に奴を裁けない」
大樹は声を絞り出した。由里が手を離すと大樹は大きく咳をする。
「ゴホッ……。全く、どうして君たちはそうも人の胸ぐらを掴みたがるんだ……」
「うっせーよ、コイツと一緒にすんな」
「いや、誰がどう考えてもお前の方が掴んでるだろ」
互いに指を差し合う二人。大樹は乱れた制服の裾を引っ張りながら笑った。
「で、何だって?」
椅子に座り直した由里は足を組んだ。ほっそりとした白い太ももが露わになると、大樹はサッと視線を逸らす。
「しょ、証拠だよ、証拠。イジメてたっていう証拠さえあれば奴を裁くことが出来るんだ」
「へぇ、やるじゃん……佐藤クン?」
「石田だよ、石田大樹! ほんとにクラスメイトを覚えてないのか、君は」
「う、うっせーつの! で、その証拠は何処にあるんだよ?」
「うーん……」
「うーん?」
「うーん、と」
「何だよ?」
口を窄めた大樹は首を捻った。
「浜田圭太くんとそのご家族からの証言はもう得られない。彼がボイスレコーダーか何かでイジメの様子を録音、もしくは、詳細な日記を残していたのなら断罪の材料になったかもしれないけど、警察が動いてないって事はそれは無かったって事だろうし……」
「ふざけんな! やっぱり日野の野郎をボコって吐かせるしかねーじゃねーか」
立ち上がるダークブロンドの女生徒。暖かな教室に揺れる長い髪。翔吾は慌てて由里を止めた。
「離せって! またアイツのせいで関係ない奴が不幸になったんだぞ!」
「方法が無いこともないんだ」
大樹の言葉に動きを止める二人。ふうっと息を吐いた大樹は椅子に座ったまま細い腕を組むと、由里の顔を見上げた。
「日野龍弥の取り巻きの誰かにイジメの証言をしてもらう、もしくは、日野龍弥に新たなイジメの標的を作らせればいい」
「イジメの標的?」
「うん、新たに日野龍弥が誰かをイジメて、それを表沙汰にするのが一番早いし確実だ」
「ふざけてんじゃねーぞ! もう誰もあの野郎の犠牲になんてさせねーよ!」
カッと赤くなる由里の頬。大樹は視線を逸らさない。
「取り巻きから証言を得るのは難しいんだ、彼らだって加害者な訳だからね」
「じゃあアイツのクラスメイトでも浜田の友達でも誰でもいい、絶対に証言させてやる!」
「浜田くんに友達はいなかったようだし、アイツのクラスメイトは無理だよ。大半が取り巻きだし、誰もアイツに逆らえない」
「じゃあ……」
「僕が標的になるよ。そして、僕が証言する」
大樹の言葉に唖然とする二人。よっと立ち上がる大樹。肩を落とした翔吾は不安げに目を細めた。
「お前……いいのか?」
「ああ、僕みたいなのが一番イジメの標的になりやすいんだよ。……まぁ、今の日野龍弥は乗ってこないかもしれないけど」
「でもよ、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃねーぞ?」
「いいよ別に、僕も彼を許せないんだ」
「……お前って、ただのガリ勉かと思ってたけどよ、すっげー熱い奴だったんだな」
「いや、別に……」
ガソリンで学校に火をつけようとしていた男子生徒。
もしも、あのまま実行していたら……。
翔吾との雪合戦で汗を流した後、冷静になった彼は、先ほどまで自分が行おうとしていた行為に対して全身の血が凍り付くほどの戦慄を覚えたのだった。大樹は、この大柄のクラスメイトに対して、地面に頭を擦り付けたい程の感謝の念を抱いている。
そして、もう一つ。
「石田……くん、いいの?」
「い、いいよ、いいさ! まぁ、成功するかは分かんないけどね」
「ありがと、本当にありがとね。絶対に、絶対に君の事は守るから、ごめんね、ありがと、石田くん」
由里は目に涙を浮かべて微笑んだ。その白い両手で腕を掴まれた大樹は全身の血が沸騰するかのような鼓動の高鳴りを覚える。高笑いして手を取り合う二人に抱き付く翔吾。翔吾の鼻に掌底を入れる由里。血の繋がった二人に軽い嫉妬を覚える大樹。
三人は手を取り合って笑った。やっと日野龍弥を断罪出来ると。
ショートボブの天使は抵抗した。
また田中愛を小学校に連れて行くという白髪の老女。新実和子は、廊下に寝転がって手足を振るショートボブの天使を見下ろした。
説得。新米の天使への教導を頼みたいという白髪の老女。
顔を上げるショートボブの天使。白髪の老女は、田中愛に対してベテランの天使という言葉を使った。
やれやれと首を振って立ち上がるショートボブの天使。教導もまた天使の役目だろうと、田中愛は胸を張って白髪の天使に頷いた。
白の軽自動車が白い街を走る。田中愛はワクワクと窓の向こうに走り去る景色を眺めた。例年にない厳しい寒気に俯く人々。雪化粧。今年の冬は異様だった。
Y市N小学校の校門。雪に笑う子供たち。何処か寂しげに微笑む中年の女性。
車を降りた二つの存在は誰にも認知される事なく校庭に足を踏み入れた。踏み荒らされた雪化粧の跡。ブランコに揺れる一つの存在。
赤い服の天使。藤野桜は校庭を走る子供たちを見つめていた。
善悪の薄い小学校では与えるべき報いが少ない。赤い服の天使は生まれ落ちた日から今日までの間ずっと、ブランコに座って校庭を眺める日々を過ごしていた。
藤野桜に歩み寄るショートボブの天使。隣のブランコに座った田中愛は、新米の天使の冷え切った小さな手をギュッと握り締めた。
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