天使の報い

忍野木しか

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第二章

桃色の天使

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 静かだった。
 沈黙の白。凍えた空気。白髪の天使の歩く廊下。
 動く者の少ない学校は冷え切っていた。ただ、ジッと待ち続ける者たちばかりが凍えた校舎に不平を言う。
 教育改革に勤しむ教員たちの姿はない。学業や部活動に勤しむ生徒たちの姿もない。
 静観する天使の瞳はない。忙しく駆け回る天使の瞳もない。
 白い影の報いの場。学校は雪に埋もれた野原のように静かだった。
 

 臼田勝郎に挨拶を返す生徒はいない。ウルフカットのカツラを笑う者もいない。
 冷え切った教室を暖めようと満面の笑みを浮かべる勝郎。警戒と軽蔑の瞳で勝郎を見返す生徒たち。
 生徒たちは勝郎を見定めていた。薄毛が気にならない程に大柄な教師。かつての恐怖の対象。その変容はちょうど教員の一斉異動が始まった頃である。生徒たちは、道化を装う勝郎を疑っていた。新任教員側についたのではなかろうか、と。
 感受性の豊かな思春期の生徒たち。些細な変化に敏感な青年期の子供たち。津波が如く学校を変容させた教育改革が彼らに与えたストレスは計り知れない。
 学校を守る為に、自分たちの信じる小さな世界を守る為に、生徒たちは徒党を組んだ。世界を脅かす教員には決して従うまいと、奴等をこの世界から追い出そうと、生徒たちは抵抗した。
 彼らが考えついた答えではない。誰かが導いた結果でもない。
 それらは一種の流れであった。生徒たちは自らの意思で流れに逆らっているかのように動きながら、その実、決して流れには逆らうまいと同じ方向に進んでいたのである。
 短絡。浅慮。盲信。
 学校には流されるなという流れには逆らうな。疑うことを疑うな。
 廊下を歩く白髪の天使。端に避ける生徒たち。
 報いの対象である。
 

 ショートボブの天使。田中愛は教導した。
 善行には幸福を、悪行には厄災を。
 天に向けられた人差し指。冬の街で赤い服の後輩に報いの術を教授するショートボブの天使。トラックのクラクションが寒空に鳴り響く。
 赤信号を渡ろうとする田中愛に、藤野桜は慌てて飛び付いた。突風に乱れる短い黒髪。目を丸くする先輩の天使と目を吊り上げる後輩の天使。藤野桜の警告に田中愛はシュンと肩を落とした。
 私立Y高校。広い校舎を流れる静寂。ショートボブの天使の新たな職場、否、教導の場。
 ほんのりと雪の積もった校庭に二つの存在が足を踏み入れる。暖かな静けさに包まれた新学期の校舎。昨年の秋に田中愛が偶然訪れた私立高校。
 初めての環境に何処か不安げな赤い服の天使。藤野桜は先輩の温かな手にそっと触れた。桃色に染まる頬。
 後輩の小さな手をギュッと握り返した田中愛はキョロキョロと、明るいオレンジの校舎を見渡した。規律ある私立高校に漂う落ち着いた空気。それほど忙しくはない職場。取り敢えず、ミルキーをくれた女生徒でも探そうかなと、田中愛は赤い服の後輩の手を引いた。
 玄関前のベンチに座る一つの存在。くわえタバコに黒いジャケット。長い足を組んで新聞紙を広げる天使。顔を上げた岸本美咲は目を細めた。また来たのかという表情。仕事を手伝いに来たのだとショートボブの天使は胸を張る。
 田中愛の短い黒髪に隠れるようにして肩を縮こめる小さな天使。藤野桜はジッと、岸本美咲の口元から浮かび上がる白い煙を見つめた。
 新聞紙をゆっくりと閉じて立ち上がる白い煙の天使。二つの存在の前にしゃがみ込んだ岸本美咲は、赤い服を着た幼い天使の頭を撫でた。何処か寂しそうな笑顔。タバコは体に悪いと注意するショートボブの天使。
 背筋を伸ばして立ち上がった岸本美咲は、田中愛の艶やかな黒髪を撫でると、あまり暴れないでおくれよと二つの存在に注意した。フッと空中に霧散する白い煙。忙しい時期なのだそうだ。
 コクリと頷く藤野桜。暴れたことなどないと眉を顰める田中愛。
 静かに微笑んだ岸本美咲はベンチに座って新聞紙を広げた。やれやれと腕を組むショートボブの天使。職務怠慢を注意した田中愛は、天使の白い煙に背を向けると校舎に足を踏み入れた。サッと頭を下げた藤野桜もその後に続く。
 湿度の保たれた暖かな空間。綺麗に磨かれた青い廊下。肩を丸めて広い校舎を見渡す赤い服の天使。
 緊張した面持ちの幼い天使に微笑んだ田中愛は、その柔らかな黒い髪をヨシヨシと撫でた。先ずは私の仕事を見ていなさい、と。
 ダッと廊下を駆け出す田中愛。善行には幸福を、悪行には厄災を、私立高校の生徒たちに報いを……。急に廊下を走り出した先輩の天使に、藤野桜は注意の視線を送った。
 授業の終わりのチャイムが暖かな空気を揺らす。ふと、田中愛の頭によぎる白い影。何か大事なことを忘れてしまっているかのような感覚。田中愛は廊下を走りながら窓の外を見た。曇り空。雪の影。あっと手を叩くショートボブの天使。校舎裏の白い猫の存在を忘れていたのである。
 衝撃。悲鳴。美術室から出てきた男子生徒とぶつかって転がるショートボブの天使。突然の衝撃によろけた男子生徒は、後ろにいた女生徒の胸元にしがみついた。サッと頬を赤く染める女生徒。平手打ちに倒れる男子生徒の満更でもない表情。
 藤野桜はコロコロと廊下を転がる先輩の天使に慌てて駆け寄った。目をクルクルと回す田中愛。世話のかかる先輩の天使を抱きかかえる後輩の天使。田中愛は、藤野桜の桃色の頬を見上げた。何処かで見たような色。藤野桜の輝く瞳に誰かの笑顔を思い出すショートボブの天使。
 注意。浮かんでは消える白い煙。いつの間にかそこに居た岸本美咲は、暴れるなと伝えただろうと、田中愛を見下ろした。
 田中愛の代わりに頭を下げる藤野桜。しょんぼり肩を落として立ち上がるショートボブの天使。今の失敗は忘れ物を思い出したからだと、田中愛は明後日の方向に言い訳を始める。
 警告。漂う煙の香。そこにはもう近付くなと警告する白い煙の天使。
 首を傾げた田中愛は腰に手を当てた。F高校は自分の職場であるのだ、と。
 勧告。ならば来年の春まではここにいなさいと岸本美咲は白い息を吐いた。
 困惑したように細い眉を捻る田中愛。早く帰れとうるさかった前回とは真逆の対応である。
 ニャー、という幻聴。否、誰かの着信音。
 取り敢えずコクリと頷いてみせた田中愛は廊下を駆け出した。ひもじい思いをしているであろう白猫に早く餌をあげねばと焦るショートボブの天使。慌てて先輩の背中を追いかける後輩の天使。
 白いフィルターをグッと噛み締めた岸本美咲は鋭い警告の視線を飛ばした。
 
 
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