天使の報い

忍野木しか

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第三章

縋る者

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「やぁ、山本先生、梅雨晴れのいい天気だね」
 焼けた校舎の窓から目を逸らした新実三郎は、花壇の前で熱心に絵を描き続ける中年女性に微笑みかけた。巻層雲の白いベールに包まれた青空。花壇では青い雑草が水無月の風に揺れている。
 チラリと三郎に視線を向けた山本恵美は、特に気にした様子もなくクレパスを握り直すと、ノートに視線を戻した。白い紙を埋める赤い花。青いクレパスを手に取った恵美は花々を見下ろす空を描いていく。
「おお、これはまた、素晴らしい絵だ。花が踊っているようだよ。皆んなをワクワクさせる絵だね、これは」
「……もう、先生、そればっかですわ」
 呆れ顔で視線を上げた恵美は思わず笑ってしまった。一人ぼっちだった学生の頃、まだ水の滴る青年だった三郎が、毎日のように自分に掛けてくれた声を思い出したのだ。
「はっは、僕は昔から思った事を口に出してしまう男なんだ。山本先生の絵は昔と変わらず素晴らしいってことさ」
「あら、失礼な男。それって、ワタクシの絵が昔から成長していないって意味でしょう?」
「いやいや、はっは、いやいや、僕はね、絵に貴賎はないと思っているんだよ。絵に大切なのは技術ではなく心さ。山本先生の心は昔と変わらず純粋で美しい。そういう意味を僕は言葉に込めているんだ」
「もう……」
 昔と変わらぬ男の調子のいい言葉。ため息をついた恵美はノートに視線を戻した。青い空をなぞる白い線。梅雨晴れの空が赤い花を見下ろす景色。
「少し遅れてしまったが、せっかくこんな素晴らしい花壇があるんだ、花を植えなければ損だね」
「いいですわ、別に。手入れが面倒ですもの」
「そんな事を憂う必要はないさ。花はね、本当に人の心を晴れやかにするんだ。僕も手伝うから、一緒に花を植えましょう、山本先生」
「……先生、昼休みが終わってしまいますけど、学校に戻らなくても宜しくて?」
 恵美の言葉に慌てて腕時計を見た三郎は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「いやいや、これは遅刻だね。また叱られてしまいそうだ」
「先生、別に毎日ここに来る必要はありませんことよ?」
「何を言っているんだい、山本先生。ここは僕の母校だからね、こうしてここに立っているだけで気分が落ち着くんだよ。本当なら、一日中でもここに居たいくらいさ」
「もう、先生、生徒たちが待ちくたびれてしまいますわよ?」
「おっと、いかんいかん。はっは、じゃあまた来るよ、山本先生」
 背を向ける初老の男。その後ろ姿を見送った恵美はゆっくりと立ち上がった。ノートとクレパスの箱を手提げに仕舞った恵美は、焼けた校舎を見ないように視線を下げて玄関へと向かう。微かに鼻につく炭の臭い。それは街から漂ってくるものであろうか。息を止めた恵美は校舎の中に駆け込んだ。
 校舎に人の気配はない。生徒たちは「いたみの会」の最中である。
 恵美は「いたみの会」に参加しなかった。孤独感は人に囲まれる事で強まるのである。そして、何より生徒たちの存在が怖かった。死者を嘆く彼らの瞳の奥に、その握り締められた拳に、恵美は激しい憎悪の炎を感じてしまうのだ。
 最悪の放火事件は山本恵美が学校を取り仕切った結果に起こった惨事ではあるまいか。
 山本恵美の存在さえ無ければ、これまで通りの平穏な生活が続いていたのではあるまいか。
 あの醜く太った陰気な女が、聡明で活発で美しい姉の代わりに死んでいれば、世界はもっと明るいものとなっていたのではあるまいか。
 恵美は孤独だった。かつての平穏な孤独とは違う、恐れと憂いに満ちた孤独。そんな恵美に明るく声を掛けてくれる三郎の存在は大きかった。だが、その三郎もまた恵美の不安を駆り立てるのだ。後ろめたさに伴う不安感。哀しみに近い罪悪感。何故、そんな感情が湧いてくるのか、恵美には理解出来なかった。
 孤独な中年となった恵美が想うのは優しかった姉の存在である。小学生の頃の記憶。姉であった宮野鈴はまだ幼かった恵美に何でも与えてくれた。大好きだったお菓子を毎日のように親に内緒で届けてくれる姉は、恵美にとっては天使のような存在であった。
 絵を描くのを勧めてくれたのも姉だった。精一杯描いた花の絵を目一杯の笑顔で褒めてくれた姉。そんな姉の期待に応える為にも、恵美は、クラスメイトと遊ぶ時間を惜しんで絵を描き続けた。
 ただ、一つだけ嫌な事もあった。それは、孤独で太った少女にちょっかいを出すと、優しく美しい姉が助けに来るという事象だ。まだ幼かった男子生徒たちは、何とか宮野鈴の視界に入りたいが為に、その妹である恵美にちょっかいを出し続けた。そうして現れる宮野鈴に対して男子生徒たちは淫靡な情欲の視線を送るのだ。その時だけ恵美はほんの僅かに美しい姉の存在を疎ましく思った。
 一階の静かな空き教室。その教員用机に腰掛けた恵美は、ふうっと息を吐いた。手提げからノートを取り出した恵美は自分の描いた絵を眺めていく。最初のページは色とりどりの花畑。ページを捲ると広がる青い草原。オレンジ色の花とピンク色の桜。赤いクレパスのチューリップに恵美は微笑んだ。
 ふと、感じる違和感。まだ開かれていない筈の最後のページがやけに重い。おもむろに最後のページを開いた恵美は悲鳴を上げた。そのページは一面が黄色に覆われていたのだ。
 黄金色の花々。黄色いクレパスのマリーゴールド。恵美はその絵に見覚えがあった。
 黒く染まった記憶の絵。それと共に浮かび上がる怒りに歪んだ誰かの表情。
 慌ててノートを閉じた恵美は荒い呼吸を繰り返した。これもまたパンドラの箱なのであろうか。フラフラと立ち上がった恵美は空き教室を出ると、誰もいない保健室へと向かった。


 新実三郎が清廉潔白な青年に育ったのは偶然ではない。
 白髪の天使、否、当時は黒い髪であった天使の存在がその人格形成に強い影響を及ぼしていた。生まれたその日から青年に至るまでの間ずっと、三郎は、人の罪を許さぬ天使の視線の元に過ごしてきたのだ。
 邪悪な姉の視線の元に過ごしてきた宮野恵美とは過程が違う。ただ姉の手によって導かれただけの醜い人形である山本恵美とは異なり、新実三郎はその目で見て、聞いて、感じた結果を自分の頭で熟考しながら成長していったのである。
 青年を見守る存在。感情を持つ天使。
 新実和子は喜んだ。自分が幸を与えた少年の息子。愛おしい赤子だった三郎が罪を嫌う美しい青年へと成長してくれたのである。その事が本当に嬉しかった。
 いつかこの青年を見送る事となる日。その日を自分という存在の最後にしようと新実和子は考えていた。
 罪に罰を。罪を背負った人々に厄災を。
 新実和子は疲れ果てていた。変わらぬ罪を見続ける行為に。終わらぬ報いを与え続ける日々に。
 美しく愛おしい青年。その最後を見送ることこそが、生まれた理由も分からぬ自分という存在への最初で最後の報いになるのだと、新実和子は本気で信じていた。そんな願いに縋り付いていた。
 長い黒髪の女生徒。邪悪な笑みを持つ魔性の少女。宮野鈴もまた、青年の清廉潔白な心に対して戸惑いつつも、激しく惹かれるものを感じていたようであった。
 決して生徒を差別しない青年。妖艶で機知に富む宮野鈴でさえも特別扱いをしない男。まるで人に幸を与える本物の天使であるかのように、新実三郎は、全ての生徒に対して平等な微笑みを与えていた。
 憂いを知らなかった怪物。その真っ白な心を塗り潰す赤紫色。
 宮野鈴は嫉妬に狂った。光を強調する為だけに作り上げた醜い人形。その人形が宮野鈴が想っても届かない青年と親しげに笑い合っているのである。クレパスを片手に、花壇に揺れる花々を眺めながら、二人の笑い声が青い空の向こうへと流れていく。
 宮野鈴は妹に対して激しい嫉妬心を抱いた。恵美へのイジメの嵐はその頃より起こったものである。
 やがて、新実和子の恐れていたことが起こった。
 恐怖で、情欲で、妬みで、憧れで。相手の心理を巧みに導き動かすことで、自分という存在への糧を得てきた女生徒。その魔性の少女が自ら動いたのである。
 抑えきれなかった感情は、欲望か、嫉妬か。まだ幼い悪魔は、空き教室に憧れの青年を呼び出すと、その純心を奪おうとした。欲望の糧として。嫉妬の代償として。
 新実和子は危うく人に落ちかけた。その場で、自らの手で、宮野鈴を殺そうとしてしまったのである。例えようがない程の激しい怒りだった。愛していたものを奪われた喪失。美しきものを汚された屈辱。宮野鈴という存在に対して抱く憎悪。
 宮野鈴の頬を叩く青年の手のひら。青年の怒鳴り声が空き教室の窓を揺らすと、新実和子はやっと自制心を取り戻せた。激しい胸の苦痛に唇を歪めながら、新実和子はやっと、変わらぬ青年の美しさに安堵することが出来た。
 宮野鈴もまた青年の怒りに自制心を取り戻していた。否、やっとその時、自制心の存在を知ったというべきか。恐怖の感情を知った宮野鈴は、怒りに乱れる青年を恐ろしいと思いながらも美しいと思った。自分に怒りの感情を向けた初めての青年。恐怖の涙を流しながらも、宮野鈴は、青年の言葉を胸に刻んでいった。
 それは、初夏の出来事である。
 美しい青年を汚そうとした邪悪な存在への報い。限りない罰を与えねばならぬと、その一生を厄災の炎に沈めねばならぬと、報いの為に動き出した天使の視線の先。宮野鈴は情緒不安定となっていた。
 まるで落ちた天使が、初めて味わう感情の渦に戸惑うかのような。初めて自らの感情を知った悪魔が、止まらぬ涙に嗚咽を続けるかのような。聡明で活発で妖艶だった女生徒は自分を見失っていた。
 宮野鈴がイジメられる自分を装うようになったのはこの頃だった。その他人の行動を捌く巧みな心理誘導は変わらない。ただ、その誘導の先を自分に降り掛かる厄災へと仕向けるようになったのだ。それは、青年の同情心を誘う為か、はたまた別の理由か。新実和子には理解の出来ない行動であった。
 無論、生徒たちも戸惑っていた。憧れ嫉妬し恐れた女生徒の奇行。心理誘導により動かされていたとて、その心の奥底より覗く恐怖や羨望の眼差しは消えない。生徒たちは戸惑い怯え震えながらも宮野鈴という存在に厄災を与えようと懸命な努力を試みた。ほんの些細な努力である。全校生徒に微笑みを配る新実三郎は中々その努力に気付いてやる事が出来なかった。或いは、もう少し時間が経てば気が付いたであろうか。だが、運命の時計の砂は残り僅かであった。
 宮野鈴に最も近い存在。醜い人形はすぐに異変に気が付いた。大好きな姉が、憧れ嫉妬し愛していた姉が、自分と同じようにイジメられているのである。山本恵美、否、宮野恵美はすぐに動いた。大好きな姉を守る為に。大好きな姉を慰める為に。
 怪物の心を激しく乱した次の感情。それは、怒りだった。
 醜い人形だった筈の妹が向ける同情の眼差し。哀れな弱者に向けるかのような視線。
 宮野鈴の胸に抑えようのない激しい怒りの感情が湧き上がった。憧れの青年と笑い続ける妹への嫉妬心は消えない。怒りの炎が全身を駆け回ると、やがてそれは憎しみへと変貌を遂げた。怪物が抱いた初めての憎悪である。
 ある晴れた日の一ページ。夏風が揺らすマリーゴールド。
 大好きな姉に呼び出された宮野恵美が、屋上へと続く階段を駆け上がったのは、夏の終わりの事であった。
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