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第三章
彷徨う者
しおりを挟む私は悲しかった。
父の悲しむ顔が悲しかった。父の流す涙が悲しかった。だから私は微笑んだ。悲しませたくなかったからだ。母が死んだ日から私は微笑むようになった。どんな時でも微笑みを絶やさなかった。母に似ていると、ベットの上で父が私を抱きしめた時も、私は決して微笑みを絶やさなかった。
ただ、妹には触れて欲しくなかった。だから私は妹を側に置いた。痩せていた母に似せないようにと、お菓子を沢山与えた。
私は嬉しかった。
私に寄り添う妹の存在が嬉しかった。お菓子を与えると笑い、絵を褒めると喜んだ。妹をイジメる幼稚な人たちを追い払うと、妹はさらに私に寄り添うようになった。だから私は幼稚な人たちの存在も嬉しかった。
ただ、度が過ぎるのは嬉しくない。私は妹に暴力を振るうようになった父をいらないと思った。
私は戸惑った。
花壇の手入れを手伝ってくれと頼まれたのだ。背の高い青年だった。私は、私に指示をしてくる存在に戸惑った。
青年にも寄り添う者がいた。青年の母だったのだろうか。もんぺ服の女性は人ではなかった。人ではない女性が甲斐甲斐しく青年の世話を焼いているのだ。私は誰にも聞こえない声で「お母さん」と呼んでみた。返事はなかった。代わりに、もんぺ服の女性が私の服に付いた土を払った。
私は羨ましかった。
青年が羨ましかった。青年の側に居る女性が羨ましかった。青年の微笑みが羨ましかった。青年の側で黄金色の花を見つめる女性が羨ましかった。
だから私は青年を誘惑した。青年と女性の間に入りたかったのだ。誘惑すれば手に入ると思った。だが、手に入れられなかった。代わりに、私は耐えられない胸の痛みを与えられた。
私は悔しかった。
私が植えた花なのに、と悔しかった。青年と女性と私で作り上げた花壇なのに、と悔しかった。どうして何もしていない妹が褒められるのだと、どうして動くのはいつも私なのだと、私は悔しかった。
初めてだった。許さないと恨んだ。許せないと羨んだ。
だから私は懲らしめてやろうと思った。妹を戸惑わせてやろうと、悔しがらせてやろうと思った。そして、青年の目を引こうと装った。女性の手に触れようと微笑んだ。忙しかった。私の心は忙しかった。
私は後悔した。
怒った妹の顔に後悔した。悲しむ妹の涙に後悔した。
私は青年の怒った顔を思い出した。青年の言葉を思い出した。
後悔した。絵を破り捨てたことを後悔した。「ごめんなさい」と私は言った。その言葉は届いたのだろうか。
空が青かった。風が心地良かった。
私は黄金色の花を想った。
宮野鈴は警告した。
憎しみに縛られた天使への警告。人を殺す天使への警告。
知りたかった。理解してあげたかった。何を恨んでいるのか。何を求めているのか。宮野鈴は知ってあげたかった。
宮野鈴は待った。天使が育てていた黄金色の花を見守りながら、宮野鈴は待ち続けた。だが、いつまで経っても天使は帰って来なかった。
宮野鈴は尋ねた。
不思議な天使だった。傍観者でありながら、その天使は歩き続けていた。
見送る行為にどんな意味があるのかと宮野鈴は問う。丸メガネの天使は答えた。考えたことがないと。ただ、見送りたいから見送っているのだと、丸メガネの天使は微笑んだ。
悪行の末の死はどう考えるのかと問うと、悲しい、と丸メガネの天使は寂しそうに微笑んだ。幸福な末路はどう考えるのかと問うと、嬉しい、と丸メガネの天使は朗らかに微笑んだ。
報いは与えないのかと宮野鈴は首を傾げる。丸メガネの天使は首を横に振った。そんなものは無いと、丸メガネの天使の微笑みは眩しかった。
善行も悪行も存在しないのだと、悲しみも喜びも、生も死も、全ては自然なことなのだと、丸メガネの天使の瞳は何処までも澄み切っていた。
宮野鈴は手を伸ばした。
それは対極の存在だった。人の性を悪と考える天使に対して、その天使は善と信じて疑わなかった。奇妙な存在だった。ショートボブの少女は何処までも純粋だった。
人に落ちた天使は長くは生きられない。それは不完全な人だからというわけでも、身寄りが無いからというわけでもない。溢れ出る感情が生を拒絶するからだ。望んだ結果の死なのである。人はこの世を彷徨う苦しみに耐えられない。歪な意思を例外に、人に落ちた天使は人知れず死んでいく。
少女も苦しんでいた。ただ、他の存在にあるような絶望の嘆きは感じられない。どうにも、もどかしそうだった。何かを忘れているのだと、人に落ちたショートボブの少女は焦れったそうに震えていた。
宮野鈴は驚いた。人に落ちてなお、少女は自らの存在の意義に目を凝らしていたのだ。仕事を思い出した少女は再び天使へと舞い落ちる。それは無償の愛だった。
宮野鈴は目を瞑った。
結局、分かり合うことは出来なかった。失敗したと宮野鈴は目を瞑った。難しい問題なのだと、いつかの誰かの言葉が頭に思い浮かぶ。
終わりにしようと宮野鈴は思った。終わらせてあげようと宮野鈴は目を開いた。彷徨う者。憎悪の天使。知ってあげたかったと、知ってほしかったと、宮野鈴は心の中で俯いた。悲しませぬようにと、無邪気な笑みを浮かべてみせた。
観察する天使の視線。果ての無い旅路の先。
ゆらり、ゆらりと彷徨う長い黒髪が揺れて流れる。
[Y市教育委員会緊急記者会見]
テレビに映るテロップ。身なりの良いスーツ姿の老人。やたらめったらと並べられたマイクの前で老人は悲痛そうな表情を浮かべていた。
警察署内は騒がしかった。善と悪の混濁。罪と罰の喧騒。表情の険しい人がいれば、柔和な笑みを浮かべている人もいる。
それぞれなんだと、船江美久は思った。それぞれがそれぞれの道を歩んでいるのだと、彼女は壁に掛かったテレビを横目に見た。
恰幅の良い警察官の案内に従って留置管理課へと向かう。予想に反して留置場は上の階にあった。暗い地下室を想像していた美久は、陽に照らされた白い階段に強烈な違和感を覚えた。美しさは生よりも死に近い。桃源郷は理想の中にこそ存在する。
美久は恐ろしいと思った。美しさが怖かったのだ。
この世は混濁している。現実は醜い。歪で下劣。それこそが生なのだと美久は思った。そして、そんな現実が愛おしいと感じた。愛していたのだと美久は気が付いた。美久はこの醜い世界を愛していた。
アクリル板の向こう側。窓が隔てた二つの空間。醜さは変わらない。愛おしさも変わらない。
「こんにちは」
ニッコリと微笑んだ美久の唇は鈍い赤色だった。化粧をして来なかったのだ。それでいいと思った。醜さに気が付いて欲しかったのだ。
「こんにち……」
消え入りそうな声だった。大柄の男に似合わぬ繊細な音。そんな歪さがまた愛おしい。
「お久しぶりです。先生、少し痩せましたね。ちゃんとご飯を食べなきゃダメですよ?」
「……」
「今日はお仕事のお話をしに来ました」
「……」
「先生はリハビリコーチングのお話、覚えていますか?」
「私は人を殺した」
はっきりとした口調だった。練習を繰り返した劇団員が発するような聞かせる為の声。嘘だと美久は確信した。だが、理由を問いただそうとは思わない。
「……えへへ、実は私、もうすでにオンラインで始めてるんです。結構忙しいんですよ? 予定していた顔合わせでの面談依頼はまだ無いんですが、チャットでの相談は多くて、もうてんてこ舞いなんです」
「私は人を殺した」
「これからどんどん忙しくなっていくだろうし、ああ、早く先生の助けが欲しいなって毎日思ってます」
「私は人を殺したんだ」
「先生、早く私を助けてください。先生が私を助けてくれたら、今度は私が先生を助けます。ね、いいでしょ?」
「人を殺したんだ、人を、私は人を殺したんだ」
「お互いに助け合って、前に進んで。でも、頑張り過ぎるのもよくないんです。たまには休まないと」
「いい加減にしたまえ!」
顔を上げた勝郎の声が大きくなる。感情の混雑により赤くなった頬。白よりも醜い色。目を細めた美久は鈍い赤に光る唇を横に開いた。
「もう君とは関われないんだ!」
「どうしてですか?」
「人を殺したのだぞ? 私は人を殺したんだ!」
「それって私とは関係の無い話ですよね?」
「なに?」
「私は未来の話をしに来たんです。関係の無い話は止めてください」
「み、未来だと? 未来などと……人の未来を奪った私が話せる事などない……」
勝郎は俯いた。美しく変わっていく肌の色。美久は眉を顰めた。
「何をカッコつけてるんですか、先生」
「……は?」
「もしかして、諦めに美しさでも感じてるんですか? 似合わないことはやめて下さいよ」
「なんだと?」
「先生の過去に何があったのかは知りませんが、未来を語る乙女の前で過去を背負った男を気取るの、止めて貰えませんか? すっごくダサいです」
べっと舌を出す乙女。勝郎の顔色がサッと変わる。
「き、き、貴様は……貴様は……こ、事の重大さを分かっていないのか? 人を殺す、という行為がいったいどういうものなのか、誰かの尊い命を奪う、という行為がどれほど恐ろしいことなのか、貴様は、分かっておらんのか?」
人を殺した相手に向けられるような声色である。あべこべだと、美久は、勝郎のその人間臭さを可愛らしく思った。
「あ、もしかして先生、これから誰かを殺すおつもりなんですか?」
「するわけなかろうがっ!」
「なら、いいじゃないですか。未来に向かう先生はもう過ちを犯しません。それで、いいじゃないですか」
「いいわけがない! 私には人を殺した罪がある! その罰を受けねばならないんだ!」
……ああ、誰かを庇っているんだ。
美久は理解した。
……だから、一歩も引けないんだ。
胸の鼓動が微かに美久の唇を震わせた。
「えへへ……。罪って……罰って……」
「いいかね、船江さん。もちろん、私だって殺したくて殺したわけじゃない。何というか、衝動だったんだ。あの時は激情を止められなかった。だからこそ、今は反省したいと思っている。さぁ、もう帰りなさい」
「えへへ……」
「さぁ、頼むから帰りなさい。貴方は忙しいのでしょう?」
「何だか、繰り返してるみたい……」
流さないと決めていた涙が頬を伝う。唇を濡らす鼻水をそのままに乙女はギュッと手を握りしめる。勝郎はあっと息を飲んだ。気まずい沈黙がほんの僅かな時間を流れる。
「その……」
「私の涙、汚いですか?」
「い、いえ……」
「えへへ、ずるいかって意味じゃないです。単純に綺麗か汚いかを聞いているんです」
「き、汚くなどは……」
「汚いですよ」
美久は笑った。涙と鼻水の混じった光が顎を伝う。
「汚いんです。だって老廃物ですよ?」
「い、いや、そんな事は……」
「汚いって、悪いこと何ですか?」
美久は首を傾げた。勝郎は太い首を横に振る。
「悪くなど、決して悪くなどはない」
「ですよね、悪くなんて無いですよ、むしろ愛おしいです」
「愛おしい?」
「人って弱いんですよ。だからこそ強くあろうとするんです」
「は?」
「強さは理想です。人の弱さこそが現実なんです」
「現実……」
「理想とは美しさです。理想の中はいっつも綺麗なんです。いつも、何時迄も綺麗なまま、変わらない美しさが理想なんです。でも現実は醜い。汚い事ばかり、醜いことばかりなんですよ、現実は……。でも、だからこそ、愛おしくなるんじゃないかなって、私、思うんです」
「……」
「美しいって怖い。綺麗なだけなんて恐ろしい。だって現実は汚くって醜いから、だから、だからこそ、求めるんです。美しさに手を伸ばすんです。もしも初めから美しかったら、手を伸ばさなくてもいいでしょ? 美しさが手に入ったら、前に進むのを止めてもいいでしょ? 怖いです。美しさに未来なんてない。汚くって醜いからこそ私たちは前に進むんです。未来を見つめられるんです。だから私は醜さが愛おしい」
「……」
「私って孤児だったんです。親の顔も覚えていない。気が付いたら一人で立っていた、空っぽな子供だったんです」
「……え?」
「覚えてるのは名前だけ。寒い、寒い。誰も私を見てくれない。誰も私を助けてくれない。早く楽になりたいって、ただそう願い続けるだけ、それだけの存在だったんです」
「そ、それは……」
「私って醜いですか?」
「いや! そんな事は断じてない!」
「あはは、先生、よく見て下さいよ。私って醜いんですよ」
ぎこちない乙女のウィンク。勝郎を頬を赤くして唾を飲み込んだ。
「い、いや、貴方は……」
「あはは、先生だって醜いですよ?」
「む?」
「皆んな醜いんです。だからこそ理想を目指して前に進めるんです」
「ま、前に……」
「どうか、美しくあろうとしないでください。醜い自分を認めて、醜い私と歩む未来を見つめて下さい。先生、どうか……」
「船江さん……」
「先生、また来ますね」
時間だった。立ち上がった美久はペコリと頭を下げる。
天使のようだ……。
勝郎は思った。その美しさに見惚れてしまった彼は苦渋に満ちた表情で俯く。未来という言葉の意味を考えながら、勝郎は、物欲しそうに自分の頭に手を伸ばした。
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