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第三章
さすらう者
しおりを挟む白いカーテンが静かな教室を流れる。天使のショートボブが夏の風に靡く。
夏休みのY高校は賑やかだった。吹奏楽部の楽器の音色が校舎に響き渡ると、教室の窓辺で丸くなっていた白い猫の髭がピクリと動く。グラウンドで汗を煌めかせるサッカー部員。体育館で跳躍するバスケ部員の声が青い夏空を跳ねる。
ショートボブの天使。田中愛に休みはない。悪を懲らしめ善に微笑む天使の瞳。田中愛は学校を駆け回った。
赤いワンピースの天使。背の高い少女。藤野桜は田中愛の側を片時も離れなかった。不安げに目を見開き、怯えたように唇を震わせて、少女は先輩の背中を必死に追い続ける。
ショートボブの天使の視線の先。バスケ部の青いユニフォーム。坊主頭の男子生徒が自販機に手を伸ばすと、疲れ顔の男子生徒が頭を下げた。練習を終えた後輩にジュースを奢ろうとする先輩。
ふっと表情を和らげるショートボブの天使。おもむろに自販機に手を伸ばした田中愛はスッと返却レバーを下げた。返金されるお金。何をしてるんだ、と藤野桜は唖然とした。生徒たちも突然戻ってきた小銭に戸惑った様子である。
サッと背伸びをした田中愛は、ポカリの購入ボタンを連打した。こうすると当たるのだ、と田中愛の笑みは何処までも不敵である。
日が西に傾く。夏の暑さは止まない。生徒たちの声も止まない。
涼しい校舎の片隅。ゆらゆらと揺らめくグラウンドの光。ぼーっと窓の外を眺めていた藤野桜はあっと目を見開く。よく知った顔を目にしたのだ。
何故、と自販機の前で立ち竦む田中愛の肩を叩いた藤野桜は、ぴょんぴょんと廊下を飛び跳ねながら窓の外に指を向けた。目を丸めるショートボブの天使。校庭を歩く者。否、押される者。車椅子に乗った女生徒の存在を田中愛もよく知っている。
一階に下りた田中愛と藤野桜は職員室の隣の応接間に向かった。部屋に足を踏み入れる人々。そっと応接間を覗き込む天使たち。
二人の男子生徒と車椅子に座った女生徒が低い机を挟んで立つ初老の教員に頭を下げた。大柄の男子生徒は緊張の面持ちで背筋を伸ばし、痩せた男子生徒は首振り人形のようにキョロキョロと部屋を見渡している。車椅子の女生徒。吉沢由里の髪は黒い。田中愛と同じようなショートヘアの女生徒。
何かの気配を感じた車椅子の女生徒が廊下を振り返った。そして、驚いたように目を見開く。応接間を覗く二つの存在に気が付いたのだ。女生徒の瞳に浮かぶ喜びの光。藤野桜が手を振ろうとすると、田中愛は慌てて身を引かせた。人との過度な接触は禁物である。
何故、ここに来たのだろうか、と藤野桜の瞳にも喜びの光が浮かんだ。よく分からないのだ、と田中愛は首を振る。白い煙の天使曰く、解放されたからだそうだ。遠ざける存在がいなくなった事で、やっと世間の視線が哀れな生徒たちの元へと届いたのだと、白い煙の天使は語っていた。
彼らの他にもY高校を受け入れ先とする生徒の数は多いらしい。決して差別をしてはいけないぞ、と田中愛は背の高い少女の瞳をジッと覗き込んだ。重々しく顎を縦に動かす少女。田中愛は素直な後輩に微笑んだ。
チャイムが校庭に鳴り響く。まだ青い空。生徒たちの声は止まない。
田中愛は用事を思い出した。今日は学びの日だった、と藤野桜に視線を送った田中愛はサッと身を翻して学校を後にする。慌てて先輩を追いかける背の高い少女。
バスに乗り込む二つの存在。夏休みとはいえ平日のバスは人が少ない。最近、田中愛はバスに夢中だった。流れていく景色。ゆらりと揺れる座席の心地。意識が飛んでしまうので油断は禁物である。
運転手の勤勉の報いとしてリポビタンDを座席の残した田中愛はピョンとバスを降りた。夏真っ盛りの眩い日差し。青葉を動かす涼しい風。青い空と重なる広い建物。
田中愛は意気揚々と劇場に足を踏み入れた。入場料を払いホールへと向かう二つの存在。藤野桜は初めての空間に不安げである。
広いホール。人は疎らだった。中央のシートに腰を下ろす天使たち。ショートボブの天使の瞳は遠足前の小学生のような強い興奮の光を放っている。
静寂に包まれた広い空間。藤野桜は舞台の前に座り込んだ一つの存在に首を傾げた。薄い、限りなく白に近い存在が、ホールを見上げて微笑んでいる。
アレは何だ、と藤野桜は先輩に視線を送った。
よく分からない、と田中愛は首を振る。話し掛けても会話が成立しないのだそうだ。藤野桜は恐々と白い存在を見下ろした。
それは人ではなかった。だが、天使にしては気配が薄過ぎる。瞳は限りなく白に近いような水色で、髪の色は薄い灰色である。影は無く、音も無い。ふっと消えてしまいそうなその存在に、藤野桜はどうしようも無い恐怖を感じた。
劇が始まる。静寂を舞う声。感情の躍動。田中愛は魂を吸い取られたような表情で舞台の上の夢を見つめた。
藤野桜はもぞもぞと体を動かした。退屈だとは瞼が縦に裂けても言えない。そして、怖かった。舞台の上の声に合わせるように横座りの白い存在は弱々しく手を叩き続けていた。その様子がどうしようもなく寂しい。報われることのない存在。藍色の浴衣が白よりも薄い。
いったいアレは何なのか。藤野桜は隣に座る先輩の服をそっと掴んだ。すると前の席に座っていた女が振り返る。オールバックにタキシード。紅色の唇。異様に眼光の強い女は藤野桜に向かって天使の視線を送った。
アレは成れ果てだ、とタキシードの天使の唇が僅かに横に開いた。ゴクリと唾を飲む動作をする赤いワンピースの天使。静かにしろ、と田中愛は見つめ合う二つの存在に注意した。
成れ果て、と藤野桜は顎を震わせる。するとタキシードの天使は立ち上がった。
我々の末路は二つある、とタキシードの天使はオールバックの髪に手を添えて高天井を仰ぎ見た。
異形へと変わるか。
顎を上げたまま藤野桜を見下ろすタキシードの天使の瞳に冷たい光が揺らめく。
薄れ消えゆくか、だ。
舞台を振り返ったタキシードの天使は白い存在を哀れむように見下ろした。
藤野桜の瞳が言葉を失う。田中愛は警告した。静かにしろ、と警告するショートボブの天使。だが、タキシードの天使は止まらない。
消えゆく天使の瞳は黒から青へ、そして白へと変わっていく。髪は灰色に、やがてそれが完全な白となる時、天使はこの世から消える。
タキシードの天使は白いグローブを嵌めた手で顔を覆った。
藤野桜は、とある女生徒の存在を思い出した。その女生徒の瞳は青く、髪は濃い灰色であった。
アレは江戸の芸者だった、とタキシードの天使は目を細めた。何の因果か、いつの頃からか、この劇場を領域とするようになったのだ、とタキシードの天使は何を思ったか寂しそうに肩を下げた。
江戸……。
田中愛は首を傾げた。聞き覚えの無い地名だったのだ。
東京の辺りだよ、と藤野桜は唇を震わせながらも優しげに微笑んだ。
東京……。
田中愛はまた首を傾げた。藤野桜の表情が曇る。ショートボブの天使は地理に疎かった。
舞台の声は動き続ける。劇に視線を下ろしたタキシードの天使は、ジッと躍動する人々の演技を見つめると、人差し指の先で自分の額をトントンと叩き始めた。
憧れ、羨み、失望し、嫉妬し、絶望した男。神を信じた男。神を恨んだ男。
タキシードの天使は腕を広げた。
才能は与えられたものか、否か。神は平等か、否か。
手のひらを上に向けたタキシードの天使は、その視線だけを怯えた表情の少女に送る。
嫉妬に狂った男は信じた。才能は与えられたものだと信じた。
絶望に打ち拉がれた男は誓った。不平等な神への復讐を誓った。
そして、実行した。復讐を果たした男は満足げだった。自分の首に刃を向けた男は、神への復讐を果たした者としての栄光を信じていた。
タキシードの天使の視線の外。ゆっくりと立ち上がるショートボブの天使。
だが、男は死ねなかった。精神病院で目を覚ました男は語った。自分が神を殺したのだと。だが、誰も彼を信じない。失意の果てに男は一人生き続ける。忘れ去られた者として、誰にも語られることなく、男は一人生き続ける。
高天井を見上げるタキシードの天使。藤野桜は呆然と天使を見上げた。
いったい、何がいけなかったのだろうか。何が男を不幸としたのだろうか。
タキシードの天使は藤野桜を見下ろした。背の高い少女はふるふると首を横に振ることしか出来ない。
男を不幸にしたもの、否、人を不幸へと導くもの、その根源なるものとは……。
腰を曲げて両腕で自分の胸を抱くタキシードの天使。圧倒されたように身を後ろに逸らす赤いワンピースの天使。
それは、欲……。
うるさい、と田中愛のフィンガージャブがタキシードの天使の両眼を貫いた。目が、目が、と倒れて足をバタつかせるタキシードの天使。やれやれ、と椅子に座り直した田中愛は舞台に集中しようと目を見開いた。
夕刻を告げる鐘の音色。公演を終えた劇場は騒がしい。
田中愛は満足げである。集中し過ぎてメモ帳を開くことすら出来なかったショートボブの天使。また来よう、と田中愛は力強く頷いた。
藤野桜の表情は暗い。先ほどの出来事が頭から離れなかったのだ。視線を上げた背の高い少女は、ビクリと肩を震わせると、田中愛の腕をギュッと抱き締めた。劇場を出ようと歩く人々。出入り口の前に立つタキシードの女。
我々は解放せなばならない。
タキシードの天使は腕を組んだ。強い眼光。オールバックは男装のようである。
ショートボブの天使は下唇を突き出した。まさかコイツも、と眉を顰めた田中愛は拳を握り締める。
太古の時代、人は自然の奴隷であった。
タキシードの天使は語った。その異様に強い瞳の光に、藤野桜は体を震わせる。
中世、人は神の奴隷であった。
テクテクとタキシードの天使に歩み寄るショートボブの天使。
そして現代、いったい人は何の奴隷と落ちているのであろうか。人を不幸としているものは何なのだろうか。
タキシードの天使の力強い瞳。ショートボブの天使に引き摺られる赤いワンピースの天使。
これである、とタキシードの天使は指に挟んだ紙切れをピンッと叩いた。
欲望。果てのない欲望を生み出すもの。それこそが人を不幸へと導くのだ。
夏風に揺れる千円札。タキシードの天使はそれを破いて捨てる。
我々は解放せなばならない。囚われた哀れな人々を解放せなばならない。我々は天使として、人を、解放された先の幸へと導かねばならない。
タキシードの天使の視線の先。欲望に囚われた哀れな人々。
タキシードの天使は音の無い高笑いをした。得体の知れない恐怖に震える背の高い少女。やれやれとショートボブの天使は肩をすくめる。
直れ、と田中愛の拳がタキシードの天使の頰を貫いた。
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