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第三章
振り返らぬ者
しおりを挟む明かりは無い。
閉じられた窓。部屋は暗かった。
声は無い。
人のいない空間。部屋は静かだった。
広い庭の向こう側。平日の午後を歩く者たち。
暗い部屋を意識する人はいない。歩く者たちはその広い家の外観に侮蔑と嘲笑の視線を送った。
人のいない部屋を動くものがあった。
影だ。
ぶらん、ぶらんと影が動いた。
影は宙に浮いていた。影は天井と繋がっていた。天井の柱から伸びる太い紐。結ばれた影。乱れた髪が紐に絡まる。首の長い女の影。
ぶらん、ぶらんと影が揺れる。
だらりと垂れた手足。ぽたりと垂れる汁。音も光も無い世界で影は左右に揺れ続けた。
人ではない者の瞳。首の長い女の見開かれた目。影は下を見ていた。低い机の上に置かれた写真を見ていた。
写真に映る家族。不貞腐れたように口を紡ぐ少年。厳格そうな男。首の長くない女。
日野富美子の影が揺れた。誰もいない部屋で影は揺れ続けた。
音の無い部屋。光の無い世界。
やがて影は動きを止める。ゆっくりと、ひっそりと。
部屋に残ったものは何も無い。
「黙祷」
三嶋楓の涼やかな声がアパートの一室に響いて消えた。窓の外の晴天。爽やかな青い日差しが部屋に集まった男女の頬に降り注ぐ。
「黙祷」
夢乃美琴は静かに手を合わせる。最後のいたみに少女は黙祷を捧げた。
聖母の表情。優しげな瞳。奥田恭子は静かに祈る子供たちに微笑みを与え続けた。耳の聞こえない老女もまた心の中で黙祷を捧げる。待っててね、と聖母は微笑みを崩さない。
「黙祷」
声が合わさると、集まった者たちは微笑み合った。照れ臭そうに頬を赤らめて、満足したように肩を落とした。
「黙祷」
錠剤を九つ、口に含んだ少女の耳に林檎を叩き潰したような不快な響きが伝わる。夢乃美琴は何時迄も消えることのない指先の感触に耐えきれず親指を噛み潰した。溢れ出る血が錠剤に味を与える。痛みが悼みを消す。あは、と息を吐いた美琴はコップに入った水道水を口に含んだ。
三嶋楓は誰も思い出さない。親の顔も友達の顔も思い出せない。孤独の寒さ震えながら少女は袋を被った。
奥田恭子は首を傾げた。袋を上手く被れていない男の子がいたのだ。男の子は袋を頭に乗せたままパタパタと手足を振っていた。
大丈夫よ、と聖母は口を動かした。男の子の側に寄った聖母はその頭に袋を被せてあげる。輪ゴムが無いことに気が付いた聖母は電気コードを男の子の首に巻いた。大丈夫よ、と聖母の微笑みは眩しい。
小鳥の鳴き声。窓の向こうの喧騒。最後に空を見上げた聖母は錠剤を飲むと袋を被った。
「黙祷」
いたみが消えていく。
「黙祷」
光が消えていく。
「黙祷」
誰かの声が消えていく。
「黙祷」
「黙祷」
「黙祷」
──。
三嶋楓は目を覚ました。薄暗い部屋。窓の向こうの青黒い光。
救われなかった……。
三嶋楓は絶望した。異臭が悼みを呼ぶ。暗闇が痛みを呼ぶ。
は、は、と少女は浅く息を吐いた。孤独を恐れる少女。彷徨う者は終わらぬ寒さに震え続けた。
音を聞いた。少女は消えゆく光の中を舞う誰かの声を聞いた。
顔を上げた三嶋楓は薄暗闇の中で嗚咽する男の子の涙を見た。救われなかった者。哀れな存在。
救わなくちゃ……。
三嶋楓の瞳に光が宿る。それは哀れむ者の慈愛の光だった。
ふらふらと立ち上がった三嶋楓は、部屋の隅の机に転がる黄色いカッターナイフを手に取った。錆びついた刃。青黒い薄暗闇に灯る光。
救わなくちゃ……。
男の子は泣いていた。いたみに怯えていた。恐怖に震えていた。
「黙祷」
三嶋楓の涼やかな声が暗闇に響いて消える。男の子の頬に手を当てる少女。錆びた刃を近付けると男の子は暴れ始めた。哀れむ者。怯える者。男の子の言葉は三嶋楓に届かない。
三嶋楓がカッターを横に引くと、救いの光が暗闇に飛び散った。
温かい、と少女の頬を涙が伝う。救いはこれほど近くにあったのだ。
少女は手首に刃を当てた。溢れ出る救いの光。温かな水。手首を舐めた少女は自分の体を刻み始めた。救いを求めて。温かな水を求めて。
首を切った三嶋楓は力無く床に横たわる。徐々に凍えていく世界。少女は初めて恐怖を覚えた。
助けて……助けて……。
少女は誰かの顔を思い出した。
だが、救いはやって来なかった。
山本恵美は口を縦に動かした。そして、横に動かす。感謝の言葉を伝えたかったのだ。だが、声は出てこない。
「いいってことよ」
白髪の老人。大場浩二はニッと笑った。その隣で新実三郎も寂しそうな笑みを見せる。
封鎖された学校に入る三人。浩二は体育館前に立つ警官らしき中背の男に片手を上げた。
「山本先生、大丈夫かい?」
三郎は不安げに首を傾げた。恵美は口を横に広げたまま力強く顎を縦に動かす。日差しに照らされる弛んだ頬。優しげに目を細めた三郎は頷き返した。
「僕はそこで花壇の手入れをしているからね。ノートを見つけたら、すぐに戻ってくるんだよ?」
子供に向けられるような声色である。大丈夫ですわ、とため息をついて背を向けた恵美は、窓に映る青空を見上げながら誰もいない校舎に足を踏み入れた。
校舎に音はない。心地の良い静寂だった。夏の廊下の乾いた空気。恵美はワクワクとした興奮を覚えた。夏休みの学校を訪れた子供のような、非日常に躍動する手足。
恵美は大きく口を開いた。お姉ちゃん、と心の中で叫ぶ中年女性。変わらない静寂。肩を落として笑った恵美は、のそり、のそりと静かな階段を上がっていった。
四階の窓。校舎を照らす夏空が眩しい。
恵美は廊下に目を凝らした。だが、ノートは落ちていない。
この辺りで落とした筈なのだけれど……。
首を傾げた恵美はウロウロと四階の廊下を彷徨い歩いた。湧き上がる記憶の水。確かに出会えた筈の姉。恵美は唇を動かした。ありがとう、と。
お姉ちゃんは成仏したのだろうか……。
それとも、まだ彷徨っているのだろうか……。
恵美は廊下を振り返った。誰の影もない静寂。キョロキョロと空き教室を見渡していった恵美は、薄暗い階段の前でピタリと足を止めた。屋上へと続く階段。パンドラの箱。
恐怖はない。心に浮かび上がったのは好奇心だった。
何があるのだろうか、という好奇心。ノートがあるかもしれないと、もしかしたら姉が待っているかもしれないと、恵美は湧き上がる好奇心を抑えられなかった。
一段、足を踏み出す。
二段、上を見上げる。
三段──。
恵美は不思議な感覚を味わった。失われた記憶に添って歩いているかのような、昔に戻っていくかのような、懐かしい心地。
あの日、何があったのだろう……。
恵美は姉の笑顔を思い出した。姉の温かな熱を思い出した。
あの日、お姉ちゃんと私は何を話したのだろう……。
一歩、思い出すかつての日々。
一歩、虚ろに戻っていく心。
平穏だった。恵美は思い出した。かつての日々は平穏だったのだ。感情も行動も必要なかった。いつも姉が何も出来ない自分を導いてくれていた。
屋上の扉の鍵は壊れていた。何故、鍵が壊れているのか、恵美に興味はない。扉を開けた恵美は何処までも広がる青い空と、夏風に揺れる黄色いロープを見た。
一歩、恵美は青空を見上げる。
一歩、恵美は姉の姿を探す。
風が心地良い。虚ろが心地良い。
何も考える必要はなかった。ただ、信じるだけで良かった。恵美は姉の存在を信じていた。
一歩、黄金色の花を思い出す。
一歩、少女の怒りを思い出す。
姉は怒っていた。姉は自分に怒りを見せていた。
そうだ、天使にだって感情はあるのだ。姉はあの時やっと自分に心の内を見せてくれたのだ。
夏の風が黄色いロープを揺らす。それは信じる行為の妨げとはならない。
一歩、一歩と恵美は前に進んだ。何処までも青い夏の空。純白の入道雲が空をより青く見せる。
お姉ちゃんは何を見たのかな……。
恵美は微笑んだ。屋上の下には何があるのか。姉は最後に何を見たのか。
一歩、校庭が眩しい。
一歩、木々の青葉が風に揺れる。
マリーゴールドだ……。
ふっと恵美の瞳に黄金色の光が映る。
お姉ちゃんは最後に花を見たんだ……。
恵美は嬉しくなった。
一歩、その先は無い。
青い空が彼女の体を包み込んだ。
恵美は口を開いた。最後に姉の名を呼ぼう、と。
「わっ」
突風だった。
怒ったような真夏の風が恵美の頬にぶつかった。
グッと恵美の体が後ろに引っ張られる。肩に掛かる痛み。自分を引っ張る誰かの腕。恵美は力強い温もりに戸惑った。
ドサッと屋上の端に尻餅をつく中年女性。恵美は慌てて後ろを振り返った。
「お姉ちゃん!」
そこには誰もいなかった。代わりに、ノートが一冊、青い夏の風に吹かれて靡く。
黄金色の花々。
クレパスのマリーゴールドが夏の終わりの空に揺れた。
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