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第四章 澄幻国編
潮風の邂逅
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「カイ、起きろ」
ルゥナとティアの後を追って滝壺へ飛び込んだカイとレイは、二人に追いつくことなく濁流に呑まれ、気を失った。
一足先に目を覚ましたレイが、砂浜に打ち上げられていたカイの肩を揺すり、強めに叩いた。
「……レ、イ……?ここは……」
意識を取り戻したカイは、湿った砂の感触と潮の匂いに気付く。体を起こすと、そこは波打ち際の海岸であった。
夜の海は黒々と広がり、月明かりが水面を銀色に照らしている。
「ティアとルゥナは!?あの二人は!?」
カイは飛び起き、必死に周囲を見回した。しかし、暗闇の砂浜に並ぶのは自分とレイ、二人きりの影。
「……ここに流されたのは俺たちだけだ」
レイが静かに告げる。
その現実を突きつけられ、カイは奥歯を噛み締め、濡れた前髪を苛立たしげにかきあげた。
「ちくしょう……!」
吐き捨てるように声を漏らす。
「だが、滝壺に落ちて共に流されたんだ。そう遠くには流されていないはずだ。せいぜい、ここから離れた浜か……対岸に打ち上げられている可能性が高い」
レイは冷静に分析を口にする。
「そう……だな。二人が心配だ。すぐ探しに行くぞ!」
カイは砂を払い、勢いよく立ち上がる。だが足元がまだおぼつかず、体がふらりと傾いた。レイがすぐに支える。
「落ち着け。日も暮れて夜は深い。すぐ近くに洞穴を見つけた。まずはそこで休んで夜を明かし、夜明けと同時に探せばいい」
「ダメだ!そんな悠長なことをしていたら、二人に何かあったらどうする!」
カイはレイの腕を乱暴に振り払った。
その声には焦燥と苛立ちが滲み、普段の冷静さはどこにもなかった。
「ティアとルゥナの身を案じる気持ちは俺も同じだ。だが、俺はお前のお目付け役でもある。今ここがどこかも分からない状況で、闇雲に夜の海岸を歩き回れば、お前の身まで危険に晒すことになる!」
「お前は……ティアとルゥナがどうなってもいいって言うのか!」
「そうじゃない!」
レイは声を強めた。
「だが、こんな暗闇で探したところで何の成果も得られん!無駄に体力を消耗するだけだと言ってるんだ!」
「……もし、見つけるのが遅かったら?もし二人が今、この瞬間にも危険に晒されていたら?」
カイの問いは震えていた。
その瞳には恐れと焦りが渦巻いている。
「俺は……怖いんだ」
カイは濡れた前髪を掴み、力いっぱいに引き乱した。
「また……大切な人が、俺の前からいなくなることが。必要な時に傍にいられず、護れないことが……怖くてたまらないんだ!」
吐き出すように言ったその声は、夜の波音にかき消されそうに震えていた。
「おやおや……こんな所に人がいるとは」
突如、背後から嗄れた声が響き、カイとレイはビクリと肩を揺らした。
気配などまるで感じなかった。振り返った先、暗闇の中から月明かりに浮かび上がるように、一人の老婆が姿を現した。
「漂流者かね」
老婆が問いかける。しかし二人は答えず、警戒した眼差しを向けるだけだった。
「まあえぇ。夜は冷えるからねぇ。この先にオイの小屋があるでな、そこで休んで行きんさい」
無言のカイとレイに、老婆は特に気にする様子もなく、しゃりしゃりと砂を踏みしめ歩き出した。
「貴方は……こんな夜更けに、何故浜辺を?どうして見ず知らずの俺たちに声をかけるのです?」
レイが一歩踏み出しながら問いかける。
「見廻りさね。この浜辺はのう、あんたらみたいに漂流者がよう打ち上げられるんだわ」
老婆は足を止めることなく、問答を交わしながらしっかりとした足取りで砂浜を進む。
その髪は白というよりも銀色に近く、月明かりを浴びるたび、糸のようにきらめいた。その姿はどこかティアを思わせ、二人の警戒心をわずかに揺らした。結局、二人は老婆の後を追うことにした。
「俺たちの他に──十八、九歳くらいの女性と獣人の少女を見ませんでしたか!?」
漂流者をよく目にしているならばと、レイは食い下がるように尋ねる。
「いや、残念ながら……今日この浜辺に上がったのは、あんたらだけだわ」
「そうか……」
返答に、カイとレイは肩を落とした。
「おめぇさんらの格好を見るに、異国の出じゃろ」
老婆は横目でちらりと二人を見やる。
「はい。今日、澄幻国に入国したばかりなのですが……亀駕籠から滝壺に落ちてしまって」
「ほぉ~。そりゃ難儀したのう。……して、その嬢さん方も一緒に流されたってわけかい」
「ご婦人。もし知っていたら教えてほしい。滝壺に落ちた者は、皆この浜辺に流れ着くのか?」
カイの問いに、老婆はゆっくりと首を振った。
「滝壺の流れは一本じゃない。いくつも枝分かれしとる。ここは澄幻国の最下層──幽渓郡だぎゃ。……もしその嬢さん方がこの浜辺におらんのなら、別の郡か、あるいは地表まで流されちまったかもしれないね」
そう語るうち、老婆の小屋へとたどり着いた。木の板で粗末に組まれた小屋は、潮風に晒され黒ずんでいる。
老婆はきぃと戸口を開き、振り返りざまに言い放った。
「──地表まで流されたんなら、もう諦めな。生き残ることなんざ、まず不可能さね」
最悪の想像をして押し黙ってしまったカイとレイを見かねて、老婆は再び口を開いた。
「おめぇさんらと一緒に流されたんなら、対岸か近くの郡──龍泉郡あたりに流れ着いとる可能性もある」
カイとレイは老婆をじっと見つめた。
「幽渓郡に流れ着いた者は皆、ある場所に向かう。もしかしたら、探してる嬢さん方も、既にそこにおるかもしれん」
「ある場所……って?」
老婆は小屋の戸口に手をかけ、砂浜の月光に照らされる二人を見下ろした。
「幽渓郡の唯一の街、港町でもあるんだわ。以前は貧民街みてぇな場所で、住んどる者たちの顔には生気もなく、死人のような表情ばかりだった」
その目には、長年の悲哀と変化への期待が交錯しているようだった。
「けど、将軍が代わってから、この街も変わった。コロシアムが出来て、腕自慢たちが力を磨き、将軍の兵になるチャンスを得るようになったんだわ」
老婆の言葉に、カイとレイは息を飲む。
「腕自慢どもで賑わっておるし、街の空気も以前より活気が戻ったんだ」
老婆は少し笑みを漏らす。
「花街として名高い夜華郡とは比べるべくもないが、コロシアムの近くには小さな花街もある。女たちはそこで働き、街に彩りを添えておる」
老婆は二人を見やり、声色を変えずに続けた。
「漂流者はな、港に無事着ける者もおれば、そうでねぇ者もおる」
「どういう……ことですか?」
カイとレイは思わず身を固くした。
「男はコロシアムに、女は花街に。それぞれの道が待っとるんだわ」
老婆は砂を踏む音に合わせて軽く首を振る。
「出会う人次第では、騙されることもある。人を信じすぎるんじゃねぇぞ」
忠告の声は穏やかだが、二人の胸には重く響いた。
「……でも、ここまで赤裸々に話す人が、悪い人には見えませんね」
レイが小さく呟くと、老婆はひゃっひゃっと笑った。
「そう見えるだろうよ。だがな、油断させ、コロシアムに売り払うかもしれん……ひゃっひゃっ……」
カイとレイは冗談なのか本気なのか分からず、思わず身構えた。
「まあ、今夜は心配することはねぇ。とりあえず小屋の中に入って休みなさい。明日になれば、港も街も、もう少し落ち着いて見えるはずだ」
老婆はそう言って、二人を小屋の中へと通した。
──翌朝。
老婆はすでにおにぎりを作って小屋の中に置いていた。ほのかに温かく、塩の香りが漂っている。
「朝だ。腹ごしらえしてから行くといい」
「ありがとうございます」
カイとレイは礼を言い、簡単に朝食をとると、出立の準備を整えた。身支度を済ませ、荷物を肩に掛け、老婆に別れを告げる。
「おい、待ちなさいよ。街まで行くんだろう?オイも連れて行け」
老婆はにやりと笑った。
「街に行くには森を抜けねばならんぞ」
「それでも構わん。連れて行け」
一宿一飯の恩もあり、カイとレイは仕方なく老婆を同行させることにした。
山道に差し掛かると、カイが老婆を背負い、槍で足元を支えながら慎重に進む。険しい道だったが、老婆は重さに動じることもなく、軽やかに後ろで口を開いた。
「ところでだな。おめぇさんたちが探している娘は、仲間なのか?」
カイが即座に答える。
「ああ。大切な仲間だ」
「ほーう。昨夜、亀駕籠から落ちたと言っていたが、その娘たちが原因か?」
その問いに思わずカイとレイは押し黙る。しかし無言は、肯定と同じだった。
「大方、魚の群れにでも気を取られて結界から手を出してしまったってところか。馬鹿な娘たちじゃ。そんな大馬鹿者、放っておけば良かったものを」
老婆は鼻で笑った。
「おめぇさんら、囲炉裏の火の消し方や戸口の閉め方を知っているところをみると、澄幻国は初めてではないだろう」
老婆は続けた。
「亀駕籠の移動中に結界の外に出るなど自殺行為だ。その娘たちは命を投げ打ってでも助けるほど、大切な人なのか?」
「大切だ。考えるよりも先に身体が動いてしまう程に。俺の全てをもって、アイツを護りたい」
今度は、即答するカイ。その瞳には強い意志が宿っていた。
「ここまで他人に想ってもらえる娘は、幸せ者じゃな」
老婆は一瞬だけ目を見開いた後、穏やかな口調で呟いた。それから、静かに前を向いた。
「そこの者、止まれ」
前方から歩いてきた隻眼の浪人が、突如刀を抜き、カイたちに刃先を向けた。
予期せぬ動きにカイは身を強張らせ、即座にレイがカイの前に飛び出した。
「貴様、何を背負っている」
隻眼の浪人はカイに背負われた老婆を警戒し、殺気を顕に放った。肌が粟立つほどの殺気に、カイとレイも思わず臨戦態勢を取る。
「俺たちはこの老婆を街まで連れて行くだけだ。その、物騒な刀を納めてくれないか」
カイが懸命に言うが、浪人は一向に刀を鞘に納める気配を見せない。
「それが老婆だと?本当に、そいつがただの老婆に見えるのか?」
カイとレイは言葉の意味が分からず老婆を見た。
老婆は俯き、口元に微かな笑みを浮かべる。そして、しわしわだった肌は瑞々しく張りのある肌へと変わり、一回り大きく、凛とした女性の姿へと変貌した。
「あーあ、まさかこんな所で斑影の一人に遭遇するとはな。それも、一番顔も見たくない奴だなんて」
老婆は軽やかに笑い、カイとレイの驚きをよそに、カイの背中から飛び降り、近くの木の枝へと跳んだ。
「やはり、翠琴殿か。今日こそ主郡へ連れ帰りますぞ」
浪人はそう言うと、刀を両手で握り、振るう構えを取った。刃先は空を切るだけだったが、斬撃は翠琴に向かって飛んでいく。
「あははっ!連れ帰る?拉致するのは間違いでしょ!あんな場所、帰る場所なわけないじゃん。私の帰る場所は、朧雅のいるところただ一つよ!」
翠琴の声と共に、浪人の斬撃は周囲の木々を切り裂き、空気を震わせる。
翠琴は周囲の水を集めて球状に形成し、その上に立って浪人を見下ろした。
「殿は翠琴殿を案じ、心を痛めておいでだ。悪鬼に誑かされたのだと理解しておられる。今、戻ればお咎めもないだろう。それとも、母君と同じ末路を辿りたいのか!」
「貴様が!母を裏切った貴様が言うなっ!」
翠琴の瞳が怒りで燃え、水の刃が周囲に複数現れ、回転しながら今にも浪人へ飛び出そうとする。
「おかしな事を言う。裏切ったのは巫女の立場でありながら、悪鬼の子を孕んだ貴殿の母君の方だろう」
「はっ!その悪鬼の子を何度も殺そうとしておきながら、巫女の才があると分かるや手の平返しとは、随分と都合がいいものだな!」
翠琴は挑発的に言い放った。
「そうだ。本来、悪鬼の子などこの世に存在してはならぬ。だが、貴殿は許されたのだ。何故、慈悲深きことだと理解できぬのか」
浪人の声は、まるで駄々を捏ねる幼子に諭すかのように、静かに響いた。
翠琴の表情が憎々しげに歪む。その瞬間、翠琴のすぐ側に、とてつもない大きさの魔力が現れた。
口を挟む間もなく、二人のやり取りを眺めるしかなかったカイとレイも思わず警戒する。
ここ数日で似た魔力に何度か晒された経験から、それが魔族特有のものであることが即座に分かった。
「朝になっても戻られないので、お迎えに来てみれば……これは、どんなカオスですか?」
「朧雅!」
先ほどまで殺伐とした殺気を放っていた翠琴の表情が、一瞬にしてぱっと華やいだ。
黒い着物姿の魔族、朧雅が姿を現したのだ。
朧雅はまずカイとレイに目を向け、次に浪人へ視線を移す。
その視線には、ただの敵対心だけではない、計り知れない威厳と力が宿っていた。
ルゥナとティアの後を追って滝壺へ飛び込んだカイとレイは、二人に追いつくことなく濁流に呑まれ、気を失った。
一足先に目を覚ましたレイが、砂浜に打ち上げられていたカイの肩を揺すり、強めに叩いた。
「……レ、イ……?ここは……」
意識を取り戻したカイは、湿った砂の感触と潮の匂いに気付く。体を起こすと、そこは波打ち際の海岸であった。
夜の海は黒々と広がり、月明かりが水面を銀色に照らしている。
「ティアとルゥナは!?あの二人は!?」
カイは飛び起き、必死に周囲を見回した。しかし、暗闇の砂浜に並ぶのは自分とレイ、二人きりの影。
「……ここに流されたのは俺たちだけだ」
レイが静かに告げる。
その現実を突きつけられ、カイは奥歯を噛み締め、濡れた前髪を苛立たしげにかきあげた。
「ちくしょう……!」
吐き捨てるように声を漏らす。
「だが、滝壺に落ちて共に流されたんだ。そう遠くには流されていないはずだ。せいぜい、ここから離れた浜か……対岸に打ち上げられている可能性が高い」
レイは冷静に分析を口にする。
「そう……だな。二人が心配だ。すぐ探しに行くぞ!」
カイは砂を払い、勢いよく立ち上がる。だが足元がまだおぼつかず、体がふらりと傾いた。レイがすぐに支える。
「落ち着け。日も暮れて夜は深い。すぐ近くに洞穴を見つけた。まずはそこで休んで夜を明かし、夜明けと同時に探せばいい」
「ダメだ!そんな悠長なことをしていたら、二人に何かあったらどうする!」
カイはレイの腕を乱暴に振り払った。
その声には焦燥と苛立ちが滲み、普段の冷静さはどこにもなかった。
「ティアとルゥナの身を案じる気持ちは俺も同じだ。だが、俺はお前のお目付け役でもある。今ここがどこかも分からない状況で、闇雲に夜の海岸を歩き回れば、お前の身まで危険に晒すことになる!」
「お前は……ティアとルゥナがどうなってもいいって言うのか!」
「そうじゃない!」
レイは声を強めた。
「だが、こんな暗闇で探したところで何の成果も得られん!無駄に体力を消耗するだけだと言ってるんだ!」
「……もし、見つけるのが遅かったら?もし二人が今、この瞬間にも危険に晒されていたら?」
カイの問いは震えていた。
その瞳には恐れと焦りが渦巻いている。
「俺は……怖いんだ」
カイは濡れた前髪を掴み、力いっぱいに引き乱した。
「また……大切な人が、俺の前からいなくなることが。必要な時に傍にいられず、護れないことが……怖くてたまらないんだ!」
吐き出すように言ったその声は、夜の波音にかき消されそうに震えていた。
「おやおや……こんな所に人がいるとは」
突如、背後から嗄れた声が響き、カイとレイはビクリと肩を揺らした。
気配などまるで感じなかった。振り返った先、暗闇の中から月明かりに浮かび上がるように、一人の老婆が姿を現した。
「漂流者かね」
老婆が問いかける。しかし二人は答えず、警戒した眼差しを向けるだけだった。
「まあえぇ。夜は冷えるからねぇ。この先にオイの小屋があるでな、そこで休んで行きんさい」
無言のカイとレイに、老婆は特に気にする様子もなく、しゃりしゃりと砂を踏みしめ歩き出した。
「貴方は……こんな夜更けに、何故浜辺を?どうして見ず知らずの俺たちに声をかけるのです?」
レイが一歩踏み出しながら問いかける。
「見廻りさね。この浜辺はのう、あんたらみたいに漂流者がよう打ち上げられるんだわ」
老婆は足を止めることなく、問答を交わしながらしっかりとした足取りで砂浜を進む。
その髪は白というよりも銀色に近く、月明かりを浴びるたび、糸のようにきらめいた。その姿はどこかティアを思わせ、二人の警戒心をわずかに揺らした。結局、二人は老婆の後を追うことにした。
「俺たちの他に──十八、九歳くらいの女性と獣人の少女を見ませんでしたか!?」
漂流者をよく目にしているならばと、レイは食い下がるように尋ねる。
「いや、残念ながら……今日この浜辺に上がったのは、あんたらだけだわ」
「そうか……」
返答に、カイとレイは肩を落とした。
「おめぇさんらの格好を見るに、異国の出じゃろ」
老婆は横目でちらりと二人を見やる。
「はい。今日、澄幻国に入国したばかりなのですが……亀駕籠から滝壺に落ちてしまって」
「ほぉ~。そりゃ難儀したのう。……して、その嬢さん方も一緒に流されたってわけかい」
「ご婦人。もし知っていたら教えてほしい。滝壺に落ちた者は、皆この浜辺に流れ着くのか?」
カイの問いに、老婆はゆっくりと首を振った。
「滝壺の流れは一本じゃない。いくつも枝分かれしとる。ここは澄幻国の最下層──幽渓郡だぎゃ。……もしその嬢さん方がこの浜辺におらんのなら、別の郡か、あるいは地表まで流されちまったかもしれないね」
そう語るうち、老婆の小屋へとたどり着いた。木の板で粗末に組まれた小屋は、潮風に晒され黒ずんでいる。
老婆はきぃと戸口を開き、振り返りざまに言い放った。
「──地表まで流されたんなら、もう諦めな。生き残ることなんざ、まず不可能さね」
最悪の想像をして押し黙ってしまったカイとレイを見かねて、老婆は再び口を開いた。
「おめぇさんらと一緒に流されたんなら、対岸か近くの郡──龍泉郡あたりに流れ着いとる可能性もある」
カイとレイは老婆をじっと見つめた。
「幽渓郡に流れ着いた者は皆、ある場所に向かう。もしかしたら、探してる嬢さん方も、既にそこにおるかもしれん」
「ある場所……って?」
老婆は小屋の戸口に手をかけ、砂浜の月光に照らされる二人を見下ろした。
「幽渓郡の唯一の街、港町でもあるんだわ。以前は貧民街みてぇな場所で、住んどる者たちの顔には生気もなく、死人のような表情ばかりだった」
その目には、長年の悲哀と変化への期待が交錯しているようだった。
「けど、将軍が代わってから、この街も変わった。コロシアムが出来て、腕自慢たちが力を磨き、将軍の兵になるチャンスを得るようになったんだわ」
老婆の言葉に、カイとレイは息を飲む。
「腕自慢どもで賑わっておるし、街の空気も以前より活気が戻ったんだ」
老婆は少し笑みを漏らす。
「花街として名高い夜華郡とは比べるべくもないが、コロシアムの近くには小さな花街もある。女たちはそこで働き、街に彩りを添えておる」
老婆は二人を見やり、声色を変えずに続けた。
「漂流者はな、港に無事着ける者もおれば、そうでねぇ者もおる」
「どういう……ことですか?」
カイとレイは思わず身を固くした。
「男はコロシアムに、女は花街に。それぞれの道が待っとるんだわ」
老婆は砂を踏む音に合わせて軽く首を振る。
「出会う人次第では、騙されることもある。人を信じすぎるんじゃねぇぞ」
忠告の声は穏やかだが、二人の胸には重く響いた。
「……でも、ここまで赤裸々に話す人が、悪い人には見えませんね」
レイが小さく呟くと、老婆はひゃっひゃっと笑った。
「そう見えるだろうよ。だがな、油断させ、コロシアムに売り払うかもしれん……ひゃっひゃっ……」
カイとレイは冗談なのか本気なのか分からず、思わず身構えた。
「まあ、今夜は心配することはねぇ。とりあえず小屋の中に入って休みなさい。明日になれば、港も街も、もう少し落ち着いて見えるはずだ」
老婆はそう言って、二人を小屋の中へと通した。
──翌朝。
老婆はすでにおにぎりを作って小屋の中に置いていた。ほのかに温かく、塩の香りが漂っている。
「朝だ。腹ごしらえしてから行くといい」
「ありがとうございます」
カイとレイは礼を言い、簡単に朝食をとると、出立の準備を整えた。身支度を済ませ、荷物を肩に掛け、老婆に別れを告げる。
「おい、待ちなさいよ。街まで行くんだろう?オイも連れて行け」
老婆はにやりと笑った。
「街に行くには森を抜けねばならんぞ」
「それでも構わん。連れて行け」
一宿一飯の恩もあり、カイとレイは仕方なく老婆を同行させることにした。
山道に差し掛かると、カイが老婆を背負い、槍で足元を支えながら慎重に進む。険しい道だったが、老婆は重さに動じることもなく、軽やかに後ろで口を開いた。
「ところでだな。おめぇさんたちが探している娘は、仲間なのか?」
カイが即座に答える。
「ああ。大切な仲間だ」
「ほーう。昨夜、亀駕籠から落ちたと言っていたが、その娘たちが原因か?」
その問いに思わずカイとレイは押し黙る。しかし無言は、肯定と同じだった。
「大方、魚の群れにでも気を取られて結界から手を出してしまったってところか。馬鹿な娘たちじゃ。そんな大馬鹿者、放っておけば良かったものを」
老婆は鼻で笑った。
「おめぇさんら、囲炉裏の火の消し方や戸口の閉め方を知っているところをみると、澄幻国は初めてではないだろう」
老婆は続けた。
「亀駕籠の移動中に結界の外に出るなど自殺行為だ。その娘たちは命を投げ打ってでも助けるほど、大切な人なのか?」
「大切だ。考えるよりも先に身体が動いてしまう程に。俺の全てをもって、アイツを護りたい」
今度は、即答するカイ。その瞳には強い意志が宿っていた。
「ここまで他人に想ってもらえる娘は、幸せ者じゃな」
老婆は一瞬だけ目を見開いた後、穏やかな口調で呟いた。それから、静かに前を向いた。
「そこの者、止まれ」
前方から歩いてきた隻眼の浪人が、突如刀を抜き、カイたちに刃先を向けた。
予期せぬ動きにカイは身を強張らせ、即座にレイがカイの前に飛び出した。
「貴様、何を背負っている」
隻眼の浪人はカイに背負われた老婆を警戒し、殺気を顕に放った。肌が粟立つほどの殺気に、カイとレイも思わず臨戦態勢を取る。
「俺たちはこの老婆を街まで連れて行くだけだ。その、物騒な刀を納めてくれないか」
カイが懸命に言うが、浪人は一向に刀を鞘に納める気配を見せない。
「それが老婆だと?本当に、そいつがただの老婆に見えるのか?」
カイとレイは言葉の意味が分からず老婆を見た。
老婆は俯き、口元に微かな笑みを浮かべる。そして、しわしわだった肌は瑞々しく張りのある肌へと変わり、一回り大きく、凛とした女性の姿へと変貌した。
「あーあ、まさかこんな所で斑影の一人に遭遇するとはな。それも、一番顔も見たくない奴だなんて」
老婆は軽やかに笑い、カイとレイの驚きをよそに、カイの背中から飛び降り、近くの木の枝へと跳んだ。
「やはり、翠琴殿か。今日こそ主郡へ連れ帰りますぞ」
浪人はそう言うと、刀を両手で握り、振るう構えを取った。刃先は空を切るだけだったが、斬撃は翠琴に向かって飛んでいく。
「あははっ!連れ帰る?拉致するのは間違いでしょ!あんな場所、帰る場所なわけないじゃん。私の帰る場所は、朧雅のいるところただ一つよ!」
翠琴の声と共に、浪人の斬撃は周囲の木々を切り裂き、空気を震わせる。
翠琴は周囲の水を集めて球状に形成し、その上に立って浪人を見下ろした。
「殿は翠琴殿を案じ、心を痛めておいでだ。悪鬼に誑かされたのだと理解しておられる。今、戻ればお咎めもないだろう。それとも、母君と同じ末路を辿りたいのか!」
「貴様が!母を裏切った貴様が言うなっ!」
翠琴の瞳が怒りで燃え、水の刃が周囲に複数現れ、回転しながら今にも浪人へ飛び出そうとする。
「おかしな事を言う。裏切ったのは巫女の立場でありながら、悪鬼の子を孕んだ貴殿の母君の方だろう」
「はっ!その悪鬼の子を何度も殺そうとしておきながら、巫女の才があると分かるや手の平返しとは、随分と都合がいいものだな!」
翠琴は挑発的に言い放った。
「そうだ。本来、悪鬼の子などこの世に存在してはならぬ。だが、貴殿は許されたのだ。何故、慈悲深きことだと理解できぬのか」
浪人の声は、まるで駄々を捏ねる幼子に諭すかのように、静かに響いた。
翠琴の表情が憎々しげに歪む。その瞬間、翠琴のすぐ側に、とてつもない大きさの魔力が現れた。
口を挟む間もなく、二人のやり取りを眺めるしかなかったカイとレイも思わず警戒する。
ここ数日で似た魔力に何度か晒された経験から、それが魔族特有のものであることが即座に分かった。
「朝になっても戻られないので、お迎えに来てみれば……これは、どんなカオスですか?」
「朧雅!」
先ほどまで殺伐とした殺気を放っていた翠琴の表情が、一瞬にしてぱっと華やいだ。
黒い着物姿の魔族、朧雅が姿を現したのだ。
朧雅はまずカイとレイに目を向け、次に浪人へ視線を移す。
その視線には、ただの敵対心だけではない、計り知れない威厳と力が宿っていた。
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そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
夫より強い妻は邪魔だそうです【第一部完】
小平ニコ
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「ソフィア、お前とは離縁する。書類はこちらで作っておいたから、サインだけしてくれ」
夫のアランはそう言って私に離婚届を突き付けた。名門剣術道場の師範代であるアランは女性蔑視的な傾向があり、女の私が自分より強いのが相当に気に入らなかったようだ。
この日を待ち望んでいた私は喜んで離婚届にサインし、美しき従者シエルと旅に出る。道中で遭遇する悪党どもを成敗しながら、シエルの故郷である魔法王国トアイトンに到達し、そこでのんびりとした日々を送る私。
そんな時、アランの父から手紙が届いた。手紙の内容は、アランからの一方的な離縁に対する謝罪と、もうひとつ。私がいなくなった後にアランと再婚した女性によって、道場が大変なことになっているから戻って来てくれないかという予想だにしないものだった……
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