[改稿版]奴隷落ち予定の令嬢は公爵家に飼われました

茗裡

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第一部第一章

5 婚約破棄

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「婚約を破棄する!」

 凛とした、よく通る声が夜会の会場に響き渡った。

 華やかな音楽も、ざわめきも、その瞬間だけは止まったかのように静まり返る。

 視線が一斉に集まる。

 その中心に立つのは──

 ルナリアだった。

 パトリス殿下が手にした書面には、彼女の罪状が並べられている。

 アメリーへの嫌がらせ。
 陰湿な言動。
 数々の悪行。

 突き付けられるその文字を、ルナリアはただ静かに見つめていた。

 言い訳はしない。

 だって──無駄だから。

「ルナリア。何か言うことはあるか」

 パトリスの声が落ちる。

 それは、おそらく最後の情けだった。

 もし冤罪を晴らすなら、ここしかない。

 この場で弁明すれば、まだ状況は変わるかもしれない。

 だが。

 ルナリアは分かっていた。

 自分がしてきたことの多くは、事実だということを。

 命に関わるような行為はしていない。

 だが、それ以外の嫌がらせをしてきたのは紛れもない事実だった。

 だから。

 言い逃れをするつもりはなかった。

「では……お言葉に甘えて」

 ルナリアはゆっくりと口を開いた。

「アメリー嬢には、心から申し訳なく思っておりますわ」

 会場の空気がわずかに揺れる。

「許されないこととは承知しておりますが……辛い思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます」

 そう言って。

 ルナリアはアメリーへ向かって、深く頭を下げた。

 その瞬間。

 会場のあちこちから、ざわめきが広がる。

 それも無理はない。

 これまで高飛車で、気丈に振る舞っていたルナリアが。

 自ら頭を下げたのだから。

(そりゃあ……驚くわよね)

 ルナリアは心の中で小さく笑った。

 まるで他人事のように。

「それと……パトリス様」

 ルナリアは静かに顔を上げた。

「わたくしは、貴方様のことを心よりお慕い申しておりました」

 会場が一瞬、息を呑む。

「今となっては叶わぬ夢……。どうか、アメリー嬢とお幸せに」

 そう言って、ルナリアは微笑んだ。

 潤みかけた瞳を誤魔化すように、そっと双眸を細める。

 ──さよなら。

 私の初恋。

 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。

 だが、それもこれで終わりだ。

 これまでずっと、胸を引き裂くように苦しめてきた想い。

 その鎖から、ようやく解放される。

 ルナリアは背筋を伸ばした。

 そして、呆然とする観衆たちを残したまま、静かに会場を後にする。

 ◇

「……ふっ……うっ……」

 会場の扉を抜けた瞬間。

 張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

「うぅ……」

 堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。

 恋が、こんなにも苦しいものだなんて。

 知らなかった。

 知りたくもなかった。

 前世では、恋も知らないまま人生を終えた。

 だから。

 こんなに痛い想いをするくらいなら──

 知らないままの方が、きっと幸せだった。

 そのとき。

 パチパチパチ

 静まり返った回廊に、場違いな拍手が響いた。

 ルナリアははっと顔を上げる。

「うん。やっぱり、素敵だわ」

 柔らかな声だった。

 そこに立っていたのは、一人の女性。

 ふわりと揺れる亜麻色の髪。

 そして、淡い水色の瞳。

 優しげな雰囲気を纏った女性が、微笑みながらルナリアを見ていた。

「はあ……やっと、この時が来た。長かったわ」

 安堵したような、どこか満足げな声だった。

「アネット……様?」

 ルナリアは戸惑いながらその名を呼ぶ。

 目の前に立っていたのは──アネット・グラニエ。

 ディオンの姉にあたる人物だ。

 ルナリアはディオンと幼馴染であるため、彼女とも面識がある。

 だが、どこか様子が違った。

 そもそも、アネットは滅多に王都へ戻らないはずの人物だ。

 彼女は数々の異例の業績を残し、若くして領地経営まで任されている才女。

 そのため、普段は領地に引き籠っていると聞いていた。

 それなのに、なぜここに──。

「ああ、やっぱりルナリアちゃん最高」

 うっとりとした声が落ちる。

「ねぇ……貴方、転生者でしょ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 ルナリアの目が大きく見開かれた。

 心臓が跳ね上がる。

「安心して」

 アネットはくすりと笑った。

「私も転生者なのよ」

 さらりと言ってのける。

「私ね、前世からルナリアちゃんが大好きなの」

 その言葉に、ルナリアの思考が一瞬止まった。

「アメジストの髪に、緑の宝玉みたいな瞳。悪役令嬢としての気の強さ。……何より、一途なところ」

 アネットの表情は、どこか恍惚としていた。

 まるで宝物を見つけたかのような顔。

 その手が、そっとルナリアの髪を掬い上げる。

 紫水晶の髪が、指の間からさらりと零れた。

「うぇっ!? え、えっと……あの……」

 ルナリアは言葉を失う。

 驚きすぎて、何を言えばいいのか分からない。

(アネット様も……転生者!?)

 それだけでも衝撃なのに。

 なぜ、自分が転生者だと分かったのか。

 疑問が次々と浮かび、思考が追いつかない。

 そのとき。

「アネットお嬢様。ルナリア様がお困りです」

 静かな声が割って入った。

 アネットの侍女だった。

 主の様子を見かねて、助け舟を出したのだろう。

 ルナリアは、ほっと息をついた。

「あらやだ。ごめんなさいね。ルナリアちゃんが手に入ると思うと嬉しくって」

 アネットは無邪気に笑った。

 その言葉に、ルナリアは小さく首を傾げる。

 ──手に入る?

 どこか引っかかる言い回しだった。

「誰が……誰を?」
「私が、貴女を」

 さらりと言い放つ。

 アネットは、惚れ惚れするような笑みを浮かべていた。

 まるで芸術品でも眺めるかのような目だ。

「私ね、気が強い子とか、美しい子が大好きなの」

 うっとりとした声が続く。

「このままだとルナリアちゃん、奴隷になっちゃうでしょ? それなら私が貰ってもいいよね?」

 ルナリアの思考が、数秒ほど停止した。

(……誰だ。この方を氷の女王なんて呼んだのは。)

 頬をほんのり赤く染め、恍惚とした表情を浮かべている姿は、とても冷徹な女王とは思えない。

 むしろ──

 かなり怪しい。

「お嬢様。馬鹿丸出しですよ」

 隣から、冷静な声が入った。

 アネットの侍女、クロエだった。

「クロエひどおい」

 アネットは頬を膨らませる。

 ぷんぷんとでも音がつきそうな怒り方だ。

 呆然と立ち尽くすルナリアを見て、アネットはようやく事情を説明し始めた。

 まず明かされたのは、クロエの存在だった。

 クロエはグラニエ家に仕える者の中でも、影のような役割を持つ存在だという。

 そして彼女は、これまでずっとルナリアを見張っていたらしい。

 ──まったく気付かなかった。

 そのため、ルナリアが倒れたあの日から人格が変わったことにも、すぐに気付いたのだという。

 だが。

 それ以上に衝撃的だったのは、次に告げられた話だった。

 ルナリアが奴隷に落ちる未来。

 それは偶然ではなく──

 ルナリアの父の企みだった。

「貴女を人商人に売って、奴隷として売れた貴女の売上の四割を受け取る手筈だったのよ」

 アネットは、包み隠さずそう告げた。

 ルナリアは言葉を失う。

 だが。

 否定する気にはなれなかった。

 あの父親なら──やりかねない。

 昔から家庭よりも、権力や地位、そして金に執着する人だった。

 娘よりも利益を優先するなど、十分にあり得る話だ。

「そこでね」

 アネットはにっこり笑う。

「貴女が奴隷になってしまう前に、私が貴女を貰い受けようって魂胆なの」

 ルナリアは小さく息を吐いた。

 奴隷になるのは、もちろん嫌だ。

「ルナリアちゃんだって、知らない人に飼われるより私に飼われる方がいいでしょ?」

 軽い調子で言う。

 だが、その言葉にはどこか本気が混じっていた。

 確かに。

 見知らぬ誰かに買われるよりは──

 同じ転生者であるアネットの元へ行った方が、まだましかもしれない。

 ルナリアはゆっくりと頷いた。

「よろしくお願いいたします。アネットお嬢様」

 一瞬の沈黙。

 そして。

「やったあ!」

 アネットが満面の笑みを浮かべた。

「じゃあ決まりね。これからよろしく、ルナリアちゃん」

 差し出された手。

 ルナリアはその手を、しっかりと握り返した。

 後から聞いた話によると、侍女のクロエもまた、アネットに買われた身なのだという。

 元々は盗賊団のリーダーだったらしい。

 だが、ある日アネットに出会い──

「赤い瞳が綺麗だから」

 という理由で、しつこく口説かれ続けた末、半ば押し切られる形でアネットの元に来ることになったのだとか。

 その話を聞いたとき、ルナリアは言葉を失った。

 ……どうやら、アネットの“収集癖”は本物らしい。

 強くて、美しくて、気の強い女性。

 そういう人物を見つけると、どうしても手元に置きたくなるのだという。

 そして今回、その対象に選ばれたのが──

 ルナリアだった。

 本当に。

 自分の人生は、これでよかったのだろうか。

 そう思わずには、いられなかった。
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