レッド ルーム

輪念 希

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11.

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◆竹山 海

深夜零時。
ジムのバイトを終え、スタッフ用のシャワー室前で身体を拭いて着替えているとドアが開いた。
「お!海。お疲れー」
「お疲れ様です、新尾さん」
「お前は相変わらず締まってんなー!」
思いっきり尻を叩かれる。
「だあ!痛えっす!」
「細いくせによー」
「俺、今日ショート勤務だったのに菊さん来てたんでパンパンなんっすよ脚」
「わお!俺休筋日で良かったあ!プール最高。やっぱ、言われた?」
「勿論っすよ!菊さんの、やる?が恐怖っすよホント、ははは!!」
菊さんとは、菊池さんというこのジムの顧客で、五十代後半でムッキムキのデッドリフト狂だ。
「何でか断れないよなーアレさ」
「何でなんすかね?ははは!」
「けどマジであの人について行こうなんてすんなよ?壊れるぞ?若けりゃ良いってもんじゃないんだから」
「大丈夫っすよ、まず無理っすもん」
社員の新尾さんは、フード管理のトレーナーと一緒に、顧客に合わせてダイエットや軽度なスポーツ目的の比較的ライトなトレーニングのメニューを組み、俺のようなアルバイトはそれを行う利用客の横に付いてマシーンの使い方や休憩のタイミング指示などの細かなサポートをする役目だ。
ハードなトレーニングには専門の屈強なトレーナーがいるのだが、この菊さんは自身の休憩中に手が空いているスタッフと目が合えば、誰でも地下にあるハードな空間へ誘ってしまうというスタッフ間では名物のような人なのだ。
お陰様で俺の身体は下半身を中心に背中も胸も、筋肉がまだ熱を持っている。
新尾さんがシャワー室に入り、俺は帰り支度を済ませてベンチで待つ。
(今日、めっちゃ寝みーな…)
帰宅後はmimikoneで生配信をする予定だ。時間もリスナーに知らせてしまっている為、帰って直ぐに寝る訳にもいかない。
「着替え持って入んの忘れてたっ」
「ちょー!!またっすか!ははは!!」
「俺のフルチンも見慣れただろ」
「そーっすけどね!?」
俺は笑ってスマホでmimikoneの様子を見ながら、急に開けられないようにドアの前に立つ。
「OK、履いた」
「はい」
下着姿の新尾さんは、身長以外は俺より全体的に大きい。
「あれ?またデカくなりました?」
「分かるか?どうよ」
ボディービルダーのポージングをする新尾さん。と言っても、大会に出るような仕上がりではなく、程よくマッチョ、程度だ。それでも仕事の合間に少しずつトレーニングをしているらしく、特に太腿と脹脛が変わったように感じる。
「ははは!しっかり地下通ってるじゃないっすか!」
「どうよ。ほら」
「すげー!そんなデカくなるんすね!」
「腕も見てくれ、二週間でユニフォームの袖キツイ。育ってるって実感する」
「ははは!ねえ、どこ目指すんすか?」
俺が新尾さんの成長記録の為に、自分のスマホのカメラで新尾さんの身体を動画撮影し始めると、新尾さんは自ら撮っておいて欲しい筋肉をカメラの前に持ってくる。
「そりゃ…菊さん?」
「あっははははは!!」
「またおたふくにゴリラって言われるな」
「っすね!!一年後にこの動画見るの楽しみっすよ!!」
新尾さんの帰り支度も済んで、深夜組にそろっと挨拶をしながらジムを出る。
「あ、YUJIのサインもうすぐ用意できるんで」
「お、おお!ありがとな!急ぐのは…社長の分だから、俺のは別にそんな…」
途端に車のキーも二度押しするし、ゴニョゴニョ言い出した新尾さんだ。
「どんだけ動揺する気なんすか!鍵閉めちゃってますって!分かってますよ無理しなくても。ちゃんとゴリラさんへって書いてもらうように伝えてますから。ははは!」
「あ、ありがとう」
「ゴリラでいいんすか!?ははは!!」
「うっせーなー!!」
毎度笑わされる新尾さんの独特な引き笑いが駐車場に響き渡る。
「ちょっ!息吐かないと死にますよ!?」
縺れる足で運転席に倒れ込みながらも、俺のツッコミに更に笑う新尾さんには俺の方が先に酸欠になりそうだ。
新尾さんは、仕事中でもよく些細な事で床に両手をついて笑っていて、先に笑いの波を超えた顧客に本気で心配されてしまう程だ。
「俺よりも笑い上戸っすよね!新尾さんって!」
必死にシートベルトを引っ張るのを見届けてから、俺も自分の車のドアを開ける。
「あーあ!ホントだな!別に酔ってねーけどな!お互い笑いのツボが安くて困るな!」
「マジそれっすよ!では!お気をつけて!」
「お疲れさん!」
「お疲れ様でした!」
窓を開けて手を上げながら俺の前を徐行して行った新尾さんだが、その顔はもう既に笑いを振り返していた。
「家着くまでやってるな、あれ」
新尾さんは特に自分自身の事で突っ込まれると一生笑っている。
「あー、面白かったー」
しかしながら、今日一日分の体力の残りを、この駐車場で一気にゼロまで持っていかれた気分だ。
エンジンを掛けた後、俺は暫くぼーっと座っていた。
「寒…」
だだっ広い夜の野外駐車場には、車種は様々、沢山の車が停まっているが、人の姿は一つも無い。
俺はあの赤い箱から三条さんの部屋の鍵を出すと、ハンドルに両腕を乗せて両手の指でくるくると回す。
時折、何処かの明かりを反射して鈍い銀色に光る。

(今、何してるんだろ)

明日また会えると分かっているのに、何故か落ち着かない。
それも、うきうきするでも無く、じっとりと重い気分だ。

(誰かと、居るのか…?)

徐々にモヤモヤと嫌な想像ばかりが膨らんで、俺はやっと、今日は本当に自分が疲れているのだと気付くとシートに凭れる。
少し冷えた空気の中で目を閉じて、身体の力を抜いた。

休みたい願望に素直な脳は、今から通る自分のアパートまでの道のりをナビゲートしていて、此処からの帰りに毎度目にする信号や看板を思い起こし、ゴール前に必ず立ち寄る近所のコンビニまで辿り着きながら、
同時に、それとは全く別の場所で、三条さんの事を考えている。

(ああ…何となく…)

あの店の、高価過ぎて買えないあのライダースジャケットを見ているのと同じだ。
自分に何かが足りなくて、手に入らないもの。
無理してでも欲しいと思いながら、ショーケースの前で見ているだけだ。

自分が買っても、それが喜ばない気がして。

(今日は朗読にしようか…)

とにかく家に帰らなければどうにもならないので、身体を起こして水のペットボトルをカバンから出すが、目覚ましに新しい茶でも買おうと思い、車を出た。
一番近くの自販機の前に立ってホットの緑茶を買って取り出すと、

「あの…」

突然、斜め後ろから声を掛けられた。
「はい」
ジムの利用者かと振り返ると、そこにはやたらと大きな荷物を持った小柄な女が立っていた。俺より若く見える。
「KAI君…ですか?」
「あ…」
俺だと分かっていて話し掛けて来たようだ。
学生かとも思ったが、コートの手首にシンプルな腕時計の薄いベージュのベルトが少し見えて、社会人だろうと勝手に予測した。
「あ、ごめんなさい。もしかしてって、思って」
「いや、全然。え?何してるの?通ってる?」
俺はジムの建物を指差して尋ねるが、女は首を振る。
「違うくって…」
恥ずかしそうに笑うのを見て察しが付いた。
「あ!待ってた?ははは!」
「その…ごめん、KAI君」
今までにも何度かリスナーが会いに来た事はあったが、いつもグループで来てくれる為こちらも対応がし易かったのだが。
(女一人って、どうすりゃいいんだろ)
「ううん!全然いいけど。気付くんだ?俺だって」
荷物の感じから見て近場から来た感じではない気がする。
「だって髪…」
女はくすくすと笑う。
そんな真っ赤な髪して何言ってんだと言われているらしい。
「あははは!そっかそっか!ありがとな、声掛けてくれて。え!?時間遅くね!?」
時刻は零時半過ぎ。
「あ…あの、向こうに。お父さんが連れて来てくれて」
女は駐車場の何処か遠くをさっと指差して言った。
「そうなんだ。なら大丈夫か。お父さんか、俺一言挨拶しようかな」
「いい!大丈夫!」
手を頻りに振って笑っている。
「名前は?mimikoneのリスナーだよな?」
「いい!なんか抜け駆けだし…」
「抜け駆け…か」

抜け駆けという言葉に耳が痛いのは、声優マニアの自分が三条司の部屋の鍵を持っているからかも知れない。

「じゃあ、握手だけして欲しいな」
「いいよ。しよ!はい」
手を出して女の手を取るがやけに冷たい。

(はい。嘘)

「お父さん」は、この駐車場の何処にも居ないのだろう。
「やった。ありがとう」
モジモジとしながらも嬉しそうだが、置いては行けない。
「駅まで送るよ。歩こっか」
「え、大丈夫だよ。ありがとう」
「いや、駄目だし。この駐車場広いから周りめっちゃ暗いんだよ。時間も遅いし危ないって」
俺は歩き出すが、ついて来ない。
「お父さんいるから」
何故か必死に言うので笑ってしまう。
「いねーし!はははは!!」
「え!なんで!?すごーい!!」
「バレバレ」
俺が笑うと女も少し素を出した。
「うそー!練習したのにな」
照れながらも小さな手で口元を隠して笑う様子を見ていると、少し気力が戻ってくる。

心地良い音がする寒そうな高めのヒールのパンプスと、長くも短くもないスカート。
時々風になびく長い髪。
(久しぶりに美音以外の女と歩いたな…)
男と歩く時とは違う、妙な気構え。
「駅つったけど、どこから来たの?」
「北海道」
「へー、北海道か…」
男の俺にとって、女の声というのはやはり高くて心地良い。
「は!?」
「なに?」
女は二、三歩ふらつくように笑って言う。
「北海道!?え!?じゃあ絶対帰れないじゃん!」
「うん、そう」
「はははは!!どーいう事!?」
「んー、なんとかなるかなって。ふふふ!」
口元を隠して笑う目を見て、本能にピンとくる。
「マジか…」
「え?なにが?KAI君」
「めっちゃ試されてんじゃん俺」
「え、なんでなんで?」
二人して『当たり』だったかも知れない何かを笑う。
「ホテル探そ」
「え!?」
女はぴたっと止まり俺の上着の袖を摘んだ。
「違う違う違う違う!あっはははは!大丈夫大丈夫!始発まで泊まれるところ!ビジネスホテル!」
「なんだ…」
「え!?」
「も!違うってば!KAI君ひどいんだけど!」
女の方も、別に変な気があった訳じゃないのだろうが、初対面のせいか妙なノリで気恥ずかしい墓穴を掘り合う。
「あはははは!今のは俺が悪かったよな、ごめん!はは!けど、一瞬ビビってた?」
「喜んだかもよ?違うけど」
互いに冷やかし合うだけ、今隣に居るのが女なのだと、知る。

暫くは深くも浅くも無い会話をしながら歩き、
「せっかく来てくれたのにごめんな、気の利いた事とか何も出来なくて」
駅の近く、通り掛かりにそのネットカフェでいいと言う女と暫し立ち止まる。
俺がしてやれた事と言えば、温かい飲み物を買って、毎日使っているという手鏡に唯一サインをしたくらいのものだ。
「ううん!あのね、私、ネットで見たの。KAI君があそこのスタッフじゃないかって噂」
徐々に空気を澄ます女が、本音を言うのを見守る俺。
こんな時の「それじゃあまたね」と、さっきの新尾さんとのようには別れられない、何か気持ちにひと段落つけるような空気には、きっともうこうして会う事は無いに等しいのだと感じるものだ。
「…それで私…」
それで、右も左も分からない土地にたった一人で来て、深夜に俺の前に立っている。
「ありがとな。遠くまで来てくれて。喋って笑って歩いてたら、疲れどっか行ったよ」
「うん!私、待っててよかった。KAI君に会えてよかった」
「俺も。会えて嬉しかった。あのさ、今日の配信さ、恋愛もの朗読するから。聴いてくれよ?」
「勿論!最後まで聴くよ?当たりまえ。KAI君の恋愛ものかあ、珍しいなー」
「珍しいっけ?」
「うん、だっていつもイイ所でちょっとふざけるからさ。グリズリーチャム美味しいとか言って」
「あっはははは!!古っ!そんな事も知ってんだ!?俺もそのワード以外は忘れてたのに!すげーな!ありがとな!」
一年前くらいの、本当の本当にくだらない配信回のネタだ。
「知ってるよ?だから恋愛もの苦手なのかなーって、思ってた。でもじゃあ、今日は真面目に読んでね?んーそうだなー、切ない系が良いな…」
「切ない系か、うん。そうしよっか。分かった!空気出るか分かんねーけど頑張る。いつもありがとな」
「こちらこそです。私、KAI君のこと大好きだよ。声も、生き方も」

見つめられて、二人の間に風が吹く。
風は二人を同じように平等に撫でたのでは無く、間を通った。

(生き方…?)

それはまるで、俺の事を何でも知っていると言われているようだった。しかし、この女は俺の事をよく知らないはずだ。

だが、それでも、この女にとっての俺は『居る』のだろう。
例えば、俺にとっての三条司のように。

(そっか)

俺は嫌な気持ちには全くならなかった。
どちらかといえば、とても嬉しい。
「ありがとう…ホントに」
知らずにその冷たい手を取っていた。
「こちらこそ、です」
女が照れたように俯くと、また少し冷たい風が吹いて、真っ直ぐな髪が靡く。
舞い上がった毛先が俺に触れずに戻って行くと、急に切ない気分になった。

(何だろう…これ)

もし俺が、三条さんと会っていなかったなら。
この女と何か、人生の別のルートを行っていたような不思議な気持ちになった。

(だけど)

「それじゃ」
俺はふざけるようにぎゅっと握ってからその手を放した。
「うん。じゃあね」
女は自分の手を自分で握るようにして笑い掛けてくる。
その目に、何かを感じた気がした。
達成感やら、満足感のようなものに思えた。
「明日、気をつけて帰って」
「うん、ありがとう。バイバイKAI君。これからもずっとずっと応援してるからね」
名前も言わなかった女は、はにかむようにしてネットカフェの中に入って行った。

ジムの駐車場までの道を戻りながら、俺は自分の右手を見る。

(ホントに冷たかったな…)

一体どれだけの時間を待ったのか。
来のるか来ないのかも分からない相手を。

(あの重そうなバッグ、持ってやればよかった)

さっきの女に対して、何か運命的なものを感じるのは、疲れきった身体と脳に、突然憩いを与えられたせいだろうか。

(だけど、多分違ったんだ)

俺が会いたいと思う相手とは、やはり違っていたのだ。













◆三条 司

深夜一時半。
俺のスマホに通知が入った。
リビングのテーブルの上にあるタブレットには、YUJIの配信が終わったばかりの薄いピンク色の画面がある。
「………」
背凭れから身を起こしてmimikoneからの通知の内容を目を細くして見る。
予定通り、KAIの配信が始まるらしい。
トントンとタップして、トップページに戻すと、一番上にKAIのサムネイルが表示されていた。

「…バカ」

俺は紅茶を入れ直す事を言い訳にして、キッチンに向かう。
茶器を温めていると、急にどうしようもなく面倒になって、湯を捨てた。

「俺の配信も見てくださいって言えよ…」

ワイングラスを取ろうとしてやめ、ブランデーグラスを取ろうとしてやめ、冷蔵庫から夕方に買って来ていた冷えた缶ビールを取って、それと一緒に買ったコンビニおつまみのししゃものパックを口に咥えてキッチンの照明を消す。
テーブルに戻って、タブレットをチラ見するとKAIの画面をタップしようとしてやめ、ししゃものパックを開封し、一匹を頭から囓る。
「参観日に母親呼びたくないタイプか?」
ビールを開け、喉に流し込んだ。
一息ついてから頬杖を付き、画面を見ているが見ていない気持ちでタブレットを手元に引っ張り、
そして、見る。
こんな時間だが、KAIの配信のリスナー数は現在配信中のメンバーの中ではダントツでトップだ。
「君がそう言わないと、俺が覗き見してるみたいじゃないか」
バカ、と、また呟いてからサムネイルのKAIの鼻を小突く。
選択されました、とばかりに画面が切り替わる。

『今日?今日は真面目に朗読するよ。ははは!最近ちょっと配信遊び過ぎだからな、俺』

眉にも鼻にも小さなピアスが付いていて、KAIが笑顔を傾ける度に特に左耳のチェーンが揺れて光る。
手にも複数の指輪。
KAIが袖を捲っただけでコメント欄は『かっこいい』やら『かわいい』やらだ。

「仕事中ぜーんぶ外してますよ?この人。見た目はKAIのKの字もないですよ?…あ、そうでもないか」

赤い髪も、笑顔も笑い声も同じだ。

『え?今日はさ、短編だけど、恋愛もの読むから』

「レンアイだと?…生意気なワンコめ」

『はははは!何もないって!みんな最近過敏すぎだってマジで!ちょ、SINの件はまた今度な。ごめんな!ホント!』

きゅーんと鼻を鳴らしそうな悪びれた顔を見ると、大抵の事は許してしまいそうだ。
(って、思うんだろうな?お、女の子はな?)
それよりも今、またその名前が出た。
ついさっきまで数日ぶりにYUJIの生配信を見ていた時にも、その名前はコメント欄に連なっていたが、YUJIの『SINの事は改めて。今日はSINが居ないから、もうその話はしないで』という言葉であっさり散った。
しかしYUJIは、
『そのうち何か言えるかもだけど』
と付け足して微笑んでいた。
俺が自分でさっと調べたところ、SINとは、昨日YUJIとコラボをした配信者の名前らしいが。
俺は海とイチャついていた為にキレイに見逃している。
「KAI君。何者ですか?SINって。ついていけてません」
KAIもYUJI同様に、今はそのSINについてコメントしないようだ。

コンビニのししゃもは、やけに美味い。

『今夜はこれ。リンクどうぞ。otohonから』

俺はコメント欄に流れたKAIからのリンクのURLを素早くタップし、作品をチェックしたが、また直ぐにKAIの顔を見る。
カメラを見たKAIと目が合う。
(……かーわい)
KAIはカメラの扱いが上手い。YUJIも最近はよくカメラを見てくれるが、KAIは朗読中でも何度もカメラに目を向け、本当に側に居て読み聞かせてくれているような気分にさせる。

『チェック済んだ?OK?』

「君の顔見てるよ」

コンビニのししゃもは美味いが、数が少ない。

『いいか?読むよ?』

「ああもう待ってくれKAI、つまみが無いんだ」
俺は慌てて立ち上がりながらコメントを打つ。

●ビールがない!

「あ、間違えた。ビールはあるけど」
オリーブのオイル漬けでも食べようかと思い、タブレットもキッチンまで持って行こうとしたが、

『はははは!誰だ?ビール飲もうとしてるのは!』

俺は驚いてタブレットを見る。

●ビールの人まとww
●KAI待ってあげて!
●ヒカルちゃんがビールって!
●ビールないって!ww
●ビールwww
●私も飲もかなー
●ヒカルちゃん急いで
●ヒカルちゃん待ち

『ヒカルちゃん?あ、ホントだヒカルって名前なんだな。ははは!じゃあ待ってるから取ってきて』

KAIはキーボードを避け、こっちを見ながら微笑んで頬杖をつく。

「…誰がヒカルちゃんだ。勝手に女の子だと思ってるな?38のおっさんだぞこっちは」
自惚れ屋めと、真っ暗なキッチンに入って追加のビール二つとオリーブのオイル漬けの瓶を抱えて早足で戻るが、自分のコメントを拾われるとは思っていなかった為、とにかくめちゃくちゃ恥ずかしい。
「YUJIも一回読んでくれたけどな!」

●もどりました。ごめんなさい。

『ははは!おかえり』

人懐っこい笑顔。

『特別だからな?その名前に免じて』

「なん!?」

『はははは!なんてな!』

ビールが落ちた。
きゅんとする、とはこれかと。

●確かに可愛い名前だね
●ヒカルちゃん
●KAI君やさし♡
●おかえりヒカルちゃんw
●いいなーヒカルちゃん
●ヒカリはダメですか?
●ヒカルちゃん私とカンパイしよ!

「おっさんを乙女扱いするな」
落ちたビールを拾って心身を落ち着かせると、俺はコメントを打つ。

●ありがとう。KAI君大好き。

頭を少し傾けてピアスを揺らしたKAIの目は、確実に俺のコメントを見ただろう。

『よーし、はい!じゃあ今度こそ始めるよ』

「スルーかよバカっ…!!バカバカバカ!!」
つい笑って、オリーブの瓶の蓋を開ける。
配信者にとっては、見なかった振りも必要なのだろう。
「まあいいさ。KAI君がヒカルちゃんとイチャついたら他の女の子がつまらないだろうしな。なかなか分かってるじゃないか」
リアルな女性の相手は俺の方が上手いはずだが、ネットの方ではKAIの方が上手いのかも知れない。
鼻歌を歌いながら新しいビールの栓を開けると、さっき落とした缶だったらしく中身が噴き出した。
「バカーーーーー!!!」
俺はダッシュでタオルを取りに行こうかと思ったが、KAIの第一声を聴いて足を止めた。
カメラから少し伏せたその目を眺めながら、ピンに刺したオリーブを口に入れる。
(ふーん。良いじゃないか)
いつもよりしっとりと、落ち着いた低い声だった。

俺が後半にはもうずっと空だったビールの缶を縦に三つ積んだ頃に、KAIの朗読は終わった。
再追加のビールを取りに行く事もなく、一時間もの間、俺はずっと座ってKAIの声を聴いていた。
物語はハッピーエンドではなかった。
立体的な高速道路の重なりを、所謂『パラレルワールド』に見立てたストーリーで、SNSで知り合い惹かれあった男女は、互いに人見知りで告白もせず、奇跡的に近くの地域に住んでいた為に、互いが仕事の移動に頻繁に利用しているはずの高速道路の降り口で偶然会えないかとそれぞれ願うが、残念ながら毎日その高速道路で見事にすれ違い、SNSでの恋は燃えども時だけが過ぎて、互いに別の異性に出会ってしまうのだった。
『会えないのは住んでいる世界が違っていたからよ』と女が最後に告白めいた言葉を贈るが、『運命が合わせないのだからそれはそれで良かったのだ』と男も結論付け、何とも妙な爽やかさで幕を閉じた。
それでもつまらないと感じなかったのは二人が本気で惹かれ合っていた為だった。
慣れないハイヒールの靴を買ったり、ムードの良いレストランの口コミをひたすらチェックしたりして、いつの日か会えた時の為に二人は努力していた。
二人の想いが常に本気だった事が救いだったのだ。
「…さっさと告白すればいいだろう。男が悪いな」
俺は明確なハッピーエンドが好きだ。
物語の中くらい、世界には幸せが溢れているべきだ。
それでも今は、何故か濃厚さを超えた清々しさのようなものを感じている。

「まあ、現実的だったんじゃないか?有り体に言えば、運命なんてものは、これが運命か!なんてそうそう簡単に実感できないものさ。目の前にあったとしてもな」
逆に言えば、言わなかったというたった一つのミスで、運命を逃した二人だった。
男と女が住んでいたのは勿論、パラレルワールドなどでは無く、同じ時間が過ぎる同じ世界だったのだから。

(君達には、何の弊害も無かったのに)

そんな御託と一緒にビールの缶を今度は横へ並べ直しながらも、何かもう一つ物足りない気がするのは、こんな時間のKAIの声に、単純なハッピーエンドを求めていたからなのかも知れない。
人懐っこい性格と、あの熱い目を知っているだけに、その声の使い道にこのストーリーは現実的過ぎたのだ。
でもそれは、ただの俺の好みの話だ。

「でも、上手かったよ。俺程じゃないけどな」

タブレットの窓の向こう。KAIは水を飲んでいる。
コメント欄には好感触な感想が連なっている。この深夜に聴くには、確かに良い具合の重さのストーリーだったのだろう。
単純なハッピーエンドでは無かったが、明日の日を前向きに過ごしてみたくなるような気分だ。

「でも、君はナ行が少し弱いぞ、海。もっと練習するんだ」
細かく言えば課題はいくつもあるが、

『お待たせ!あー、難しかった!ははは!』

そんな少し疲れたような笑顔には、指先でくるくると鼻を撫でるふりをした俺だ。
「君の人生はまだまだこれからだから、伸びる以外ないもんなあ?」

『ありがとう。んーでもなーんか下手だなあって』

「ナ行」

『漢字も難しくてさ、初めて読んだ時に調べたのに今日またつまった。ギリギリ思い出したけど、多分アウトだったな!ははは!ほらこれ、この漢字、みんな読める?』

KAIはコメント欄に書き込んだ。

「ん?どれだ?」


●嚔 ←


「……………足ツボ」

『くしゃみ、だってさ。ははは!読めねーよ!思い出すのに必死!』

「はあーん、そっちね。知ってた。というか、そういうのは台本の場合はルビ振ればいいんだよ。分かったかい?準備ってそういう事だから」

『なーんかさ、色々勉強したい俺。ははは!』

「……ん?可愛いぞ…。ポチ、ポチ、ポチっと」
俺はKAIに一万円の投げ銭をしてしまった。
漢字ドリルでも辞書でも買えるだろう。
「ああ…YUJIにしか投げないって決めてたのに」 
頭を抱えながらも、KAIやそのリスナーとのやり取りを眺めていると楽しい。
「ああ、溢したビール拭かないとな」
深夜三時になろうというのに眠る気分ではなくなって、俺は再びつまみとビールを取りに、タブレットを持ってキッチンに向かう。
「チーズ食べようか」
鼻歌交じりにタブレットを膝に乗せてしゃがみ、チーズの保管ボックスを開け、
「今夜はやっぱりコンテがいい」
取り寄せていた幾つかの包みを漁っていると、

『え?ビール?ああ、ははは!』

「ん?今コメ見れないぞKAI。ちょっと待ってろ」
何やらコメント絡みで話が進んでいるようだが、俺はチーズをナイフで小さく切り出して、皿を使うのが面倒な時の為に用意してある四角く切ったオーブンシートに軽く包んでボックスを閉める。

『ヒカルちゃん、起きてる?』

「…はい?」

何故かドキッとしてタブレットを持ち上げる。

『はははは!みんなが起きてるか気にしてる』

●酔っちゃったかも?
●私も三本目だよ!
●今日はヒカルちゃんの日だねw
●なにしてるんだろー
●寝てるかもねww

チーズを包んだオーブンシートの両端を咥えながらコメントを打った。

●チーズ切ってた

『チーズ?へー…お洒落じゃん…』

KAIは急に伏せ目がちに言って椅子に凭れ、自分の指輪を弄った。

●一人でワイン飲もうかと

そのコメントも見たKAIは大きく咳払いし、軽く頭を振った後に鼻の先を掻いて何となく笑った。
俺はキッチンの照明を点けて、そのままキッチンのテーブルに座る。

●ワイン!大人っぽ
●ビールからワインw私と同じ匂いするなあww
●チーズたべたーい!コンビニ行こうかなー
●この時間のおつまみテロww
●ヒカルちゃんじゃなくヒカルさんだね!私よりは上っぽい

『ヒカルさんか…。俺ヒカルって名前すげー好きなんだよなー』

KAIはカメラとは違う何処かをぼんやりと見つめている。
「おーい。ドジってるぞ?」

●そうなの?
●どうして!?
●ヒカルって名前好きなんだね
●えーずるい!
●なんかちょっとショックかもw

コメント欄が若干不穏な雰囲気になった。

『ああ!別に理由はないんだけど!憧れの人の名前がヒカルなんだよ。先輩のこと!男!みんなもない?そういうの』

「はいー。やっぱり俺のことでしたあー」
白ワインを注ぎながら、つい頬が緩む。

●ある!
●小学校の担任の先生とか?w
●あるかも
●私はKAIって名前かな
●ホントに男?
●私青柳さん
●KAIって名前好き!先週お迎えした豆柴の名前KAIにしたのw可愛いの

「おーーーい、青柳ってどこの青柳かな?」
グラスを置いて画面に顔を寄せる。

『青柳つったら、俺一人しか浮かばないな!めちゃくちゃカッケー人!え!?豆柴の名前KAIにしたの?マジで?ありがとう!俺から取ってって事だよな?嬉しい!めっちゃ暴れん坊になる気がする、ははは!!』

●声優さんのこと
●KAI君からとった!今一緒に寝てる
●青柳さんかっこいい
●エティリオ

『あ青柳晃介さんなんだ?へー!一緒一緒!そう、そんな感じでヒカルが好きなんだ』

「晃介め!YUJIのお陰でmimikone進出か?」

俺はコメントを打つ。

●三条司が好き

『三条司さんな!めっちゃ分かるわ!!あ、ヒカルちゃんじゃん!一緒だな。へー…いや、ちょっと待って声優さんの名前出すのやめようか、ははは!』

「ふふ!ビビったな、KAIめ」
反応してしまう為、画面には触れないが、KAIの鼻に向かってツンツンと指を向ける。

●私も三条さん好き!
●王子好き!ホント声かっこいい!
●王子よきイケメン声代表
●王子は顔も声も美人
●王子出てきたww青柳さんと王子ってセットのイメージあるww
●三条さんの王子様って素なの?キャラなの?
●分かる!青柳つったら三条、三条つったら青柳感あるw
●三条様素敵♡

「呼び捨てっ…セットってなんだ!勝手にワンセットにするんじゃない。晃介ならまあいいが。共演の数なら保の方が多いよ」

『ハイハイハイ!ここまで!はははは!何でか有名人の名前出るとヒヤヒヤするわ!ははは!』

「まだだ、俺がまだ気持ち良くなってないぞ?もっと褒めてくれ、頑張ってるんだから」

●わかるかもww
●KAI可愛い!
●まれに確変入っちゃうからねww
●ここいらでやめとこうww

「世間の俺へのイメージをもっと聞きたかったけど?まあ別にいいよ、次の話題にいきなよ」

『あっはははは!!あ!てか俺さ、さっきの豆柴の写真が見たいんだけど!』

「犬に自分の名前つけられるのってどうなんだ?ふふ」
そのリスナーは、俺と似たセンスの持ち主なのだろう。

●DMで送ってもいい?

『うん!見たい見たい!』

コメント欄も盛り上がっている。
「さて、俺のエリーに敵うかな?」

『やば!めっちゃ可愛いじゃん!ありがとう!はい、許可してくれてるからみんなにも。豆柴のKAI君です』

画面端に、赤い首輪をしたころっころの茶色い仔犬の写真が映る。
「な…食パン色で、なんとも可愛いじゃないか」
コメント欄は大絶賛だ。
「今度俺のエリーにも会わせてあげるよ海」
そこから暫く、リスナー達が犬や猫や兎に小鳥と、自分のペットの写真をKAIに送り、みんなで癒される時間が過ぎた。
そしてそれらを一緒に楽しんだ俺は、KAIのファンは皆、ペットに赤いアクセサリーを付けているという共通点に気が付いた。
「女の子ってのは、そういうところが可愛いんだ」
俺はのほほんとワインを飲む。
それに気付いているのかいないのかのKAIだ。

『ヤベーもう四時前じゃん!みんなごめん!全然時計見てなかった!はははは!!』

(それも、敢えて誰も言わないんだよ、きっとな)

今も配信の終わりが近付いたと知り、『寂しい』とか『あともうちょっとしてて』『歌って欲しい』などとコメントが流れる。

『ごめんな!急にめっちゃ眠くなってきた!はははは!!今日ヤベーわ!』

「ヤベーのかい?素直な奴だな」

笑ってチーズを囓りながら、頑張って食い下がるコメントを眺めるが、KAIが笑いながらも目を擦る姿は微笑ましく、コメントも変わってくる。

●今日はあきらめるよー寝てKAI君
●ゆっくり寝てね
●大丈夫だよ!ありがとう!
●KAI君お疲れさま♡
●また配信通知待ってるね
●今日も楽しかった♡

『ありがとう!みんなもおやすみ!』

コメントの勢いが落ち着いた頃に、KAIが笑顔で手を振って配信は終了した。

俺はタブレットのカバーを閉じて、ふと、手元のチーズとワインを見た後にキッチンを見渡す。

「あれ?」

ついさっきまで、KAIや三万人近くの人達と一緒に居た気分だったのだが。

「つまんなーーーい」

途端に、暇になった。

「………」

この喪失感は何だろうかと、俺は暫くmimikoneの他の配信者達の生配信を巡ったが、埋まらなかった。

(成る程な…)

ファン心理の一端を理解した気分だ。

「あ、そうだ。ついでに顔だけ見ておくか。YUJIとKAIの話しについていけないからな」
俺はふと思い出してタブレットを起こし、mimikoneの【SIN】のプロフィールを探した。
YUJIの配信のコメント欄で拾った断片的な情報を考え直してみると、何やらそのSINを、三山紀夫がNACに誘ったらしいのだ。結果がどうだったのか俺には分からないが、YUJIのあの様子からすると少なくともNAC側からはウエルカムな空気なのだろう。
(NACに入ったら、いつか会うかも知れないしな)

SINのプロフィールは、閲覧者をもてなすようなKAIやMAKIのプロフィールとは違い、YUJIのように、あまり本人の言葉は書かれていなかった。
最低限の情報だけがあった。
YUJIと違う点といえば、生年月日が書かれている事くらいだ。
俺はここで漸くSINに興味を持ったのだろう、遅れて顔写真を見た。
すると、

「あれ…?確かこの子…」

そこにあったのは、俺が知っている顔だった。

「…この子がNACに?」

思い出されるのは数年前のある日の記憶だ。
俺が会った頃よりも更に成長している今の姿は、あの男に、よく似ている。

「へえ、君がそこに居て良いのかい?心太郎君」

NACにとって、SINの存在は何となくルール違反になりそうなものだ。

(まあ、俺には関係ないな)


タブレットを再び閉じて、ワインを飲む。
出席する予定のパーティーの事を考えると、気が重い。

会いたくない訳じゃない。
ただ、会えば別れという事だ。

(俺が行かなくても誰も責めないさ)

だが、これだけは逃げない方がいい。

正直なところ、もう少しだけ。
俺にも睡魔が訪ねて来てくれるまでの時間だけ、KAIに側に居て欲しかった。














◆竹山 海

朝の八時からジムのバイトへ行き、姉にどうせ夕食と一緒になる昼食を作る為にスーパー内をうろついていた午後一時。
スマホが鳴った。
「え?」
連絡をしてきたのは西原さんだった。
(どうしたんだろう)
「あきらさんっすか?」
『カイ。ごめん急に、今大丈夫?』
「全然暇っすよ?バイト終わって今スーパーっす、ははは!どうしたんっすか?」
『落ち着かなくてさ、明日あたりにシグの結果が分かるんだ』
「あ!え!?早いっすね!」
『うん…』
くっくと笑っているが、不安なのだろう。
「夕方まで俺暇なんで、会いますか?あきらさんさえ良ければっすけど」
『ホント?』
「はい!車あるんで迎えに行きますよ。どこがいいっすか?」
『でも、買い物中だったんじゃない?』
「大丈夫っすよ。姉ちゃんのメシなんで、唐揚げでも作ろうと思ってたんすけど、何か弁当でも買って届ければいいっすから」
俺はオーディション後のカフェで、西原さんの気を紛らせるネタとして今は姉と二人で住んでいる事を話していた。
『んー、なんか悪いよ』
「そっすか?大丈夫っすよ?姉ちゃん食う気ないっすから、はははは!!」
『んー、あ。じゃあさ、俺もカイの家に行くってのはどう?』
「え!?マジっすか!?」
『あー、それだと逆に図々しい?』
西原さんはまたくっくと笑った。
「え?」
俺達姉弟にとっては何の抵抗も感じない事だ。
俺にとっての姉は、昔からゲームが上手いヒーローみたいなもので、友達に自慢していた程だった。
その為、姉も俺の友達が家に上がり込んでも嫌がらず、俺が途中で別の友達と何処かへ遊びに行っても、そのまま俺の友達と姉は一緒にゲームに熱中してよく遊んだものだ。
俺の友達にとって姉は女の子というよりも、馬鹿みたいに格ゲーが強い教祖みたいな存在だった。
高校生になった辺りから、流石に親や俺が居ない時に俺の男友達を家に上げておくなんて事はしなくなったが、姉がそうしてくれと言ってきた訳でもない。
「あきらさんなら、急に来ても姉ちゃん別に嫌がらないっすよ?多分。ウチで唐揚げ食いません?」
『え?いいのかなー』
「じゃあ、一応姉ちゃんに電話してみましょうか?全然問題ないと思いますけど。寧ろあきらさんが姉ちゃんに絡まれるかもっすよ?はははは!!」
『俺はいいよ、カイのお姉さんならきっと平気』
「じゃあいいじゃないっすか!ははは!材料買って直ぐに迎えに行きますね!」
『うん!』
心なしか、西原さんも楽しそうだった。
西原さんとの通話の後、一応姉にも連絡したが、
『え?今更なに?酢イカとケーキ買って来てね』
とだけ言って、やはり全く気にしていなかった。

俺は駅で西原さんを拾って、アパートへ帰った。
「なんか懐かしい、こういうの」
西原さんは少し緊張したような、楽しそうな。本当に昔初めてウチに遊びに来た友達のような顔で言う。
「っすね!ははは!ホント、自分の家みたいに寛いで下さいよ?あきらさん」
「うん」
玄関を開けると姉の靴はほんの少しだけ隅に寄せられていた。
「お!?偉いじゃん!はははは!!」
「どした?」
「いや、いつもならココ、姉ちゃんの靴で踏み場ないんで!」
西原さんも笑った。

「美音、ただいま。ケーキと酢イカ買って来たぞ。あ、ゲームしてるかもっす」
スーパーで買った物をキッチンに広げながら西原さんに言うと、
「ゲーム?」
と、西原さんは首を傾げた。
「ゲーマーなんすよ、ウチの姉ちゃん」
「へー!何のゲーム?」
意外にも西原さんは食い付いてきた。
「え?powerful arm ファイターズっす。聞いた事ないっすか?」
それは昔から世界中で愛されているゲームだ。
「マジだ!?」
「え?」
目を輝かせる西原さんに俺が驚く。
そしてコートを脱いだその姿にも驚く。
「あ!このセーター!」
俺が西原さんの背中の模様に気付くと、西原さんはくっくと笑う。
「そう。カイも好きなんだろ?ここの服」
それは、栖本さんが買ったと西原さんにも見せた、あのライダースジャケットの店のブランドだ。
俺の着る服は、大半がこのブランドのものだ。
「似合ってますよ!あきらさん!」
「ホント?二人の真似したんだ」
「あっははは!めっちゃイイっすよマジで!」
「やった」
西原さんが喜んだそんな時、姉の部屋のドアが開いた。
「おかえり海。いらっしゃい」
いつもよりはきちんとした服を着た姉が出て来た。
すると、
「え……?」
西原さんは姉を見てポカンとしている。
「ただいま。あきらさん、姉ちゃんっす。美音っていいます。美音、あきらさん。俺の先輩……って、え?」
何故か二人は同じ顔をして、テーブルを挟んで互いにを食い入るように見つめている。
「え?」
俺が交互に見るも、二人はそのままだ。
そして暫くして、先に口を開いたのは姉だった。
「あきらちゃん?よろしくね?」
姉はそう言いながらテーブルに着いた。
(え?部屋入んねーの?ってか、ちゃん付けはヤベエよ、俺の先輩だっつーのに!)
「あのな、あきらさんは声優なんだ、俺の先輩だから…」
もう少し丁重に扱ってくれと言いたかったのだが、
「ミオン…?」
西原さんが呟く。
「え!?」
俺は西原さんにまた驚いた。
「WORLD TUBEのミオンさん!?」
大きな目が輝く。
「ちょ、あきらさん!?」
「うん、私ミオンだよ?知ってくれてる?嬉しい」
そう言いながら、姉の目は西原さんを妙な色で突き刺している。
(お前のその目なんだよ!どーした!?)
姉の考えは分からないが、西原さんの方はどうやら『ミオン』を知っているらしかった。
「マジだ!?ミオンさんだ!スゴイ!カイのお姉さんだったんだ!?」
西原さんは少しハイになって俺の腕を掴んだ。
「あ、え!?そうっすよ?知ってるんすね?ちょっと意外っす!」
「俺、ミオンさんのファンなんだ」
「ええええええーーー!?」
西原さんは子供の頃から格ゲーが好きで、中でも【powerful arm ファイターズ】のファンなのだそうだ。
そしてWORLD TUBEで姉のチャンネルを知って、プロにまでなった姉のファンでもあるのだと話してくれた。

「こんなことあるんだ!」
俺が唐揚げを揚げている間もずっと、西原さんと姉は盛り上がっている。
「ねー、嬉しい。あきらちゃんもゲーセンでやってた?」
「やってた!日本ランキングで百位になった事があるくらい!」
(え?それ結構スゴくね?)
「私世界一位」
(ちょ、マウント取るなっての、負けず嫌いが出すぎ。俺の先輩だぞ?)
しかし二人は同い年でもあって、共通の趣味を話題にどんどんと打ち解け合っている。
「あきらちゃん、flyingファイターズもやった?」
「うん、でもやっぱりパワファイだなって思う。シビアなパワファイの方が技出たとき嬉しいから」
「だよね。私もそう。コンボ繋ぐのも大変だしさ、勝った時の気持ち良さが段違いだよね」
「そうそう!俺さ、ミオンさんが日本でのパワファイの人気守ってくれてる気がするんだ」
西原さんの浮つきは自分の経験上理解が出来るものの、
「大丈夫。海外プレイヤーには負けないよ」
姉の方は、何か怪しい。
いつまでも部屋に引っ込まない上に、今も西原さんが長めのセーターの袖を引っ張って『萌え袖』をするのに目を光らせているのだ。
(ずっと目が据わってんだよなコイツ…)
だが、何にせよ西原さんの意識がシグナルポーチから離れているのは良い事だ。
(悩んでいるより全然良い)
「そうだ、あきらちゃん。今からやる?」
「え!?ミオンさんと!?」
「え!ちょっと待って、メシもうすぐ出来ますよあきらさん。美音も」
俺が揚げたてを食わせてやりたいと思って口を挟むが、二人の視線に黙らざるを得ない。
「今からあきらちゃんとパワファイすんの」
姉はそそくさと自室のドアを開け放って入って行く。そして、
「ごめん、カイ…」
西原さんまで眉を下げて俺を見て謝った。姉とゲームをしたいのだろう。
何となく、子供の頃に戻った気分だ。
「あっはははは!!いいっすよ!美音とゲームしてあげて下さいっす!唐揚げ持って行くんで」
「ありがとう!」
西原さんは嬉しそうに笑って姉の部屋に入り、コントローラを受け取りながら姉の横に座った。
(へー!ホントにゲーマーなんだな、あきらさん)

結果オーライという事で、ゲーム開始前に周辺機器のあれこれで長々と盛り上がる二人の声を聞きながら、二人の後ろに折り畳み式のテーブルを出して、揚げたての唐揚げを山盛りにした皿とウエットティッシュ、烏龍茶とサラダを置いた。
「どうぞっす、食べて下さいあきらさん」
「うわ、美味そう!いただきまーす!」
キャラ選択の合間に西原さんが唐揚げを口一杯に詰めた。
「今から味噌汁も作るんで。美音、お前もちゃんと食えよ?」
「うん。ねー、あきらちゃんいつも誰使うの?」
姉の眼中には西原さんしか居ないらしい。
「あきらさん、米も食えますか?」
「誰使おう…いつもはリュウタだけど…」
西原さんも同じくだ。
「じゃあリュウタのコンボの繋ぎ方教えてあげるよ」
「え!!」
「掴むまで難しいけど、勝率爆上がりするよ?」
「教えて欲しい!」
「難しいよ?絶対諦めないって約束する?」
「うん!」
二人は小学生のように熱くなっている。

(なにこれ、可愛い)

俺はもう一品、味噌汁だけ作ろうとキッチンに戻り、時折二人の背中を見て笑った。

そして夕方五時、俺はすっかり暇を持て余し、キッチンでスマホを弄りながら、あれからもうずっとゲームをしている二人を見る。
(ゲーマーってマジで研究熱心なんだよな…)
西原さんは姉からコツを伝授され、上手くいくと俺を振り返って「できた!」と言ってきた。
そして驚くのはまだ他にある。
山盛りにした唐揚げの殆どを、姉が食べた事だ。
(これから部屋で食わせるか?いや、それやったらもうホンキでダメになる気がするんだよな美音のやつ)
俺は一人で笑ってスマホを見る。
(あ!YUJIとSINの対岸車窓聴けばよかった!!)
時間はたっぷりあったのに忘れていた。
今から聴こうかとも思ったが、俺はそろそろ、そわそわしてきていた。

三条さんの部屋に行く為だ。

(どうしよっかな…。光留さんメシ食って来るだろうしな。俺、唐揚げ食えなかったし…何処か店で食ってから光留さんの部屋に行くか?)

俺はただもう三条さんの部屋に行きたいのだろう。
早めに行けば、出発前の三条さんに会えるかも知れないからだ。

(いや、ちょっとしつこいよな、それって)

そんな事を考えていた俺に姉が声を投げてきた。
「海、今日どっか行くんじゃなかったっけ?」
「おお、けどまだ…早いかなって」
すると西原さんが振り向く。
「あ、大丈夫っすよあきらさん。ちゃんと送りますから」
「あ、うん…」
「え?」
西原さんは何か困っている。
(もしかして、まだゲームしたいのか?)
「あきらちゃんなら大丈夫だよ?私と遊んでるから」
「え?」
「うん。出来ればもう少し…」
西原さんは言いにくそうに笑う。
「どんだけゲーム好きなんすか!はははは!!」
「だって、ミオンさんとゲーム出来るのって今日だけかも知れないし」
くっくと笑っている。
「海、行っていいよ。あきらちゃん私が貰うの」
「マジでいいんっすか?あきらさん」
「うん!」
「あっはははは!なんか嬉しいっす!じゃあ姉ちゃんの相手頼みますよ?」
「うん。帰りは電車乗るから。ありがとうカイ。勝手でごめん」
部屋から出て来て言う西原さん。
「いえいえ!冷蔵庫に飲み物とか色々入ってるので好きなの飲んで下さいね!一応ご飯も炊いてるし、腹減ったらそれも食って下さい。出前頼んでくれてもいいっすから」
「あきらちゃーん」
「あ」
西原さんは余程ミオンとゲームをしたいらしい。
「ははは!!じゃあ、またっす、あきらさん」
「うん!ホント、ありがとう!」
「っす!!」
笑顔で姉の横に戻るのを見送って、俺も簡単に身支度を整えて家を出た。











◆三条 司

午後五時。
タクシーでパーティー会場に着くと、深呼吸をしてから受け付けに向かう。

今日は、俺の恩師の引退の日だ。

広い会場内には、もっと早くから来ていたのだろう参加者らが華やかな衣装で集っていた。
その殆どの顔と名前を知っているのは、彼らが『有名人』だからである。
俳優、女優、声優に、お笑い芸人にモデルにアイドル。
何でも居て、どれもが著名だ。

その誰もが会いに来たのは、蓮谷 一達はすや いったつという、今年で七十三になる男である。
蓮谷一達は、主に子役に演技を教える蓮谷プロという芸能事務所の社長だ。
自身が団長を務める劇団を持っており、俺も子供の頃に大変世話になった人だ。

だが、蓮谷プロの名前は、俺の公式な経歴には記載されていない。
此処に居る誰の経歴にも、表立って載っていないのだ。
それには理由がある。
そして、だから、芸能関係者以外の一般人が蓮谷一達の名前を知る事は殆ど無いだろう。

立食パーティーらしく会場の中央付近には席も無く、皆が立ったまま、知った者を見つける度にその場で各々の思い出話に耽っていた。
当然、俺にも懐かしそうに声を掛けて来る者も何人も居る。
ただ、俺はその都度お愛想で軽く話して離れた。
何故話し込めないのかというと、俺の中で、今と昔の差をどのように濁らせれば丁度良いのかが分からないからだ。

俺は昔、あまり人付き合いが上手い方ではなかった。

沢山の顔を見ながら暫く、人々の背や肩の間を縫って歩いていると、漸く遠目に恩師の姿を見つけた。
多くに囲まれながら、にこやかにすると言うよりは、それぞれに小言を言って返しているらしい。

(変わらず、か)

あの頃と然程変わらない見た目を内心で笑っていると、蓮谷一達はふと俺に気付いた。
俺は足を止めて一礼する。
やはり歳をとったその目に思うものが無い訳じゃないが、俺を認識して何度かゆっくり頷くのを見て少しずつ退がり、俺は人に紛れた。

(俺はこれでいい)

団長の姿を見られた事で、俺はもう全てに納得していたのだろう。

また歩きながら度々古い顔と会っては適度に話し、また歩いた。

そして全体の空気を知った頃にざっと見渡すフロアーの隅、あの男も、居る。

(やっぱり、来てたのか)

俺のように団長の教え子としてでは無く、友として、この日を祝いに来ている。
今夜、名簿に何と名乗ったのかは知らないが、『いつものように』俺に話し掛けてくる事は無いだろう。

俺が初めてあの名前の男にあったのは、十二歳の頃の事だ。
団長が設けた内輪だけの食事会の日だった。
男はその席で、高校生になれば大手に移籍させて、俳優として売り出そうと思っていると団長から紹介された俺を、黙ったまま血の通わないような鋭い目で見ていた。
苦手なタイプだと思った。
そして男は俺に横顔を見せて、団長に言った。
俺には、その痩けた頬に、快楽も苦悩も、男の男たるものの全てが浮き出て見えた。

『この容姿は必ずその役の邪魔をする、そして本人の。あなたが育てたいと思っている本物の役者には不向きなのでは?』

俺の容姿を、初めて欠点だと言った人間だった。
自分の中の不安を覗かれたようなショックに、その後に団長が何と言葉を返したのか俺は聞いていなかった。

そして男のその名前も、俺と同じく【嘘】なのだと知ったのは、今から十八年前に男と再会した日だ。
そして、それが最後だった。
出会った日と、再会した日。
あの男が十八年前に、わざわざあの名前を使った理由には、共演する相手が俺だった事も含まれていたのだろう。

(何でまた、こんなタイミングなのさ)

何故、
十八年間も記憶から追いやっていた作品を、たまたま開封した今なのだろう。
あの子が、その正体を追い始めた今なのだろう。
そして、疎遠だった恩師が去る今なのだろう。

何かの針が動くには、同時に全ての歯車が揃わないといけないらしい。

(ホント、呪いだな)

その封印を解いたのは、他ならぬ自分自身なのだが。

(それはだって……)

あの目を思い出して、

(いや、それは狡い言い訳だ)

責任を移すような自分に呆れて笑ってから、会場に響いたアナウンスに従って中央へ向かう人々の中に紛れた。

『まずは、つまらない話からしていこうかと思います』

変わらない声に、寂しいという思いもある。

『今年いっぱいで君らの古巣である私は引退し、劇団名も変わり、親方も娘とその婿殿と…いずれはこの赤ん坊に受け継がれます』
自分の横に立つ娘の腕の中に居る、小さな子供を手で紹介する。
(孫、か…)
『今はもう昔気質の泥臭い芝居小屋の時代ではないので、娘の代からは何やらよく分からんのですが、まあ、新時代の形態になると、言う事です。進化とは、促進されるべきもので、くだらないノスタルジーによってその流れが滞ってはいけない。なので、私もその変化を喜んで受け入れた結果、引退という事に相成りました』
小さな一礼に拍手が起こる。
『だけれども、こんな大それたパーティーなどという場で、今こうして君らの顔を見て、色々な思いが込み上げるのは私がただ歳を食っただけの事ではないだろうと思います』
団長がゆっくりと会場を見渡すと、まるでウエーブのように皆が姿勢を正した。
『叱って泣かせたあのブス娘も、あの小生意気な大根王子も…』
俺は受けた視線を、微笑んで返した。
『他の皆も私の元から外へ出て、自力で切磋琢磨し芸を磨いて、今や色んな舞台に色とりどりの立派な花を、その名前を、咲かせている事を誇りに思っています。そしてこうして、今日の日に、ここに集ってくれた事に感謝しています』
ここにある顔全てが、各界で人気者と言われる存在だという事が、この男の教えが紛れも無く本物であったという事と、それを知るエリートを作り出したという証拠なのだろう。

人生において、これだけの実りを、自身の意志を貫いた結果を、その目で実感出来る者は多くはない筈だ。

(素晴らしい人だ)

今ならば、心から素直にそう思える。

『どうだろう、あの鬼も、今そこから見れば小さなじじいだろう?』
会場から笑いが溢れる。
『それぞれ、子供の当時には辛い思いをさせただろうけれども。恩着せがましい里親心と言われるかも知れないが、私はいつも君らの事を愛する我が子と思って見ていた。だからこそ尻を叩いた』
団長は少し言葉を詰まらせた。
『本当に立派になった』
会場が静まった訳は、初めてこの男に褒められたからだ。
『人が古巣に帰る時というのは、もう自分がその場所でなくとも生きられると知った時だ。自分が進んだと気付いた時に、その場所を認め、懐かしく思うものだ。これだけの色とりどりの花が揃うのは、それぞれが自信を持って生き抜いて来たからだろう。そして!このチャンスに、憎い鬼を一発殴りに来たのだろうと』
会場がまた笑いに包まれる。
『本当に、誇りに思う』
今度は俺も少し姿勢を正した。
『短い言葉になったが、最後に言わせて貰おうか。明日仕事がある奴は、こんな所に居ないでとっとと帰って寝ろ』
恩師の深い一礼を受けて、会場一杯の拍手が起こる。
その言葉は、昔散々言われた言葉だ。
子供ながらに、仕事が入って不安な前日に、遅くまで稽古をしているとそう言ってよく怒られたのだ。
だからこの男の教えを受けた者達は皆、今でもよく寝るだろう。

そしてその言葉を聞いた今、不思議と心が軽い。
今日此処に帰って来た者達は皆、退団の間際があやふやだからだ。

他の事務所に移る際に、この男は自分の劇団の名前を捨てろと言った。
そして二度と団員として戻って来るなと。
だから、今日という日が、俺を含める当時の子供達にとって、本当の別れの日だったのだ。

さっとマイクを切った恩師に、妙な湿っぽさも無く、早々にもうパーティーは終わったと宣告されたような、可笑しな気分だ。

(あの人らしいな)

続いて娘がマイクを持つが、かつての鬼はその横で愛しそうに孫を抱いている。
その顔を見て、そういえば昔、練習の舞台袖で俺を見る時にも稀にそんな目をしていたな、と知る。

(人の理由なんてのは、後で知ればいいんだ)

俺達は皆、鬼に心から愛されて育てられたのだろう。

新時代幕開けのスピーチの途中で、俺は少し場を離れ、ウエイターからシャンパンを貰った。

「司君」

スピーチに気を遣った小さな声。

「やあ、久しぶりだね」
横に立ったのは赤いイブニングドレスを着た美女で、俺と一緒に育った団員だ。
そして今や有名過ぎる女優だ。
「司君、最後まで居る?」
「どうかな、君は?」
「これ、団長にって思って。さっき話したのに、何だか渡せなくて」
女優は小さな紙袋を俺に見せる。
「まさか、プレゼントかい?」
「怒られそうよね」
そういった物は何でも怒られた記憶に、二人で笑う。
「お孫さんが居るの知らなくて。知ってたらお孫さんにこじ付けて渡せる物にしたのに」
「確かに。それなら受け取りそうだ」
俺はまだ孫を抱いている姿をシャンパングラスで示して、それを飲む。

何十年も話していなかったのに、この女優とだけは今も隔たり無く会話が出来るのは、あの当時に一番長い時間、同じ釜の飯を食った仲だからだろう。

「さっき言われたわ。葬式には来るなって。下手な泣き芝居ほど見たくないものはないって。相変わらずよ」
「あの人が何を言っても、それは自分の目で見てた昔の俺達へ向けた言葉だよ。今の君の事はきっと認めてるさ」
「そうね。司君も相変わらずイケメンね。声だけなんて勿体ないんじゃない?」
「君も相変わらず綺麗だよ。映画の製作発表の会見、見たよ。おめでとう」
「ありがとう。アクションがあって大変。でも意地でもやるわ」
「楽屋のカーテンで踊ってた君なら出来るよ。衝撃的だったけどね」
「あんなの忘れてよ。司君だって金魚鉢の造花勝手に取って口に咥えてたじゃない。お腹壊さなくてよかったよね」
「ん?そんな記憶ないな」
「ずるいよ」

幼い頃の仕業程、恐ろしいものは無い。

「私達の家、なくなるのね…」
「あったって帰らなかっただろう?今日まで一度も」
「それは言いつけだもの。でもああ言ってくれてなかったら、辛い時に逃げ帰ってたかも知れない。団長のところに」
「俺は御免だね」
「そう?」
俺はウエイターからもう一つシャンパンを貰って、美しいネイルの指に渡した。

「さあ、君はもう戻りなよ。あの人に会えるのは今日だけだ」
「ええ」

ブス娘と大根王子も、今夜が別れだ。

「ねえ、来ないの?また、君だけ」

こういう時はいつも、他と同じように素直に団長の側に集えなかった。
そういう性格だった。
きっと団長は、それも知っていたのだろう。

(俺が一番の甘えん坊だったんだろうな)

訊かれた返事の代わりに微笑むと、少し寂しそうな目をしたが、
「そう、相変わらずはここにも居たね。おやすみ王子。よく寝て。良いパフォーマンスの為に」
「ああ。おやすみ、俺達の姫君」
そう返すと俺の兄妹は胸を張って、皆の中へ戻って行った。

(俺はまだ、王子、か)

夜になって鏡へと変わった大きな窓に映る自分に気付く。

そこに居たのは匂うような良い男だ。
良いパーティー衣装を身に纏った、王子さながらの男。

(三条司…)

贔屓にしている美容院でサービスされた、胸の赤黒い薔薇のコサージュ。

「………」

もう一度見た、自分の顔。

(帰ろう)

そう思う理由に、どんな『意味』があるのか。

そう考えるだけ、焦る。

自分中の、一体何が変わったのか。

(帰ろう)

コサージュとシャンパングラスをウエイターに渡して会場を出た。










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