キスより甘く、甘噛みより深く

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一章

9話目

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 獣人のヒエラルキーは、とってもシビアに出来ている。力こそ全て。強い者は上に。弱い者は下に――。言ってしまえば、肉食動物は地位が高い。その中でも頂点と呼ばれる階級がいくつかある。ライオン、クマ、ゾウ、トラ――そして、オオカミ。

 可愛い仔犬だったルドルフは、立派な狼に育ってしまった。捨て子だと思って拾った彼は、捨てられた訳ではなかった。権力争いに巻き込まれて攫われ、その挙句メアリーの様な貧乏人に拾われた、可哀想な王子様。彼を愛する〝本当の母親〟が、何年も探し続けてようやく彼を見つけたのだという。辺境の町で庶民と暮らす彼を見つけてしまったのだと――。

 彼の母親から手紙を受け取ったのは、去年の春のことだった。良い香りのする上質な紙に綴られた想いは切実で、我が子への愛に溢れていた。メアリーが、自身の抱く想いが母としてのそれではないのだと気づくのに十分なほどに。

 一人だって平気。でも、二人だったらもっと平気。もう一人が家族だったら、きっとずっと平気。

 そう思って、彼を育てた。浅ましくて利己的で、即物的な想いを彼に向けた。

 彼への愛に、見返りを求めた。

 一緒にいて。側にいて。家族になって、ずっと一緒に――。

「メアリー」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。握ったままだったスプーンが、ことんと音を立ててテーブルの上に落っこちた。

「またぼーっとしてる。体調が良くないなら、早く寝ろよ」
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」
「考え事なんてやめろよ。どうせあんたのちっちゃい脳みそじゃ、ろくな結論に行き着かないだろ」
「ひどい」
「事実だろ」

 確かにメアリーはあまり頭の良い方ではない。でも何も、こんなにはっきり言わなくてもいいと思う。小さな耳をへたりと垂らし、分かりやすく落ち込んでしまう。

「メアリー?」

 テーブル越しに身を乗り出したルドルフが、額に触れる。彼の手は、いつからこんなにごつごつと硬くなってしまったのだろう。額に触れた手が、瞼へ――頬へ、唇へ。進路を変えて、触れる。指ではない温かな物で唇に触れられる直前、目を瞑った。柔らかくて、温かくて、甘くて――少しだけしょっぱい。

「あのねルディ、貴方に話したいことがあるの」

 貴方が好きよ。一等好きよ。たとえ一緒にいられなくても、世界中のどこにいたって、ずっと貴方が大好きよ。

「聞きたくない」
「聞いて」
「嫌だ」
「ルディ! んっ……!?」

 腰を引き寄せられ、テーブルの上に乗り上げる。深く合わさった唇が、熱く燃える。食器が床に落ちる音も、椅子の足が鳴る音も耳に届かない。頬に触れたルドルフの指が耳朶を掠めるから、まるでそこに心臓があるかのように鼓動だけが鼓膜を揺らす。

「んっ、んぅっ」

 飲み下しきれない唾液が溢れ、顎を伝う。テーブルの上に小さな丸い水溜まりを作って、それでもまだ足りないのだと貪るように口腔内を荒らされる。

「ルディ……、ぁっ……」

 舌を吸われて、噛まれて。甘い痺れが、口腔内から全身へ広がっていく。小さな部屋の中に水音が響く。口の中も心もぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、何を考えればいいのかも分からない。

 貴方が好きよ。世界のどこにいたって好きよ。でも本当は、ここにいて、笑って、怒って――泣いている姿は見たことがないけれど、泣いていたってきっと好きよ。

 いつも格好良く振る舞おうとする貴方だけど、たとえ情けなくても好きよ。貴方が好きよ。貴方だけが好きよ。世界で一番、貴方のことが――。

「……ようやく言ったな」

 荒い息を吐きながら、涙に濡れた目でルドルフを見上げる。まだ頭が上手く回らない。

「泣くなメアリー。俺はどこにもいかないよ」

 頬を両手で挟まれて、優しく細められた目で見つめ返される。どうしたって涙が止められなくて、頬に触れるルドルフの手をどんどん濡らしていった。

「可愛いあんたを置いて、どこにも行けるわけがないだろう」

 ルドルフの顔が、降ってくる。

「あ……んっ」

 熱い吐息を飲み込む前に、再び唇が触れ合った。きつく舌を絡め取られて、絡んだ舌の熱さに頭が痺れる。気づけば、硬い胸板に縋りついて、自らその熱を貪っていた。優しく抱き止められた身体が、熱く火照る。

 そのままずっと繋がっていたかったのに、やんわり押し返されて唇が離れた。痺れた脳が、もっと欲しいとせがんでいる。

「メアリー、息継ぎくらいちゃんとしろ。続きが出来ないだろ」
「続き……?」

 言われて、随分長いこと息を止めていたことに気がついた。忘れていた息苦しさを思い出し、弾んだ呼吸を繰り返す。

「どこにも、行かない?」
「ああ」

 呼吸が整うのを待てず、途切れがちな声で尋ねる。ルドルフは頷きながら、メアリーの目尻に口づけを落とした。

「本当のお母さんが迎えに来ても?」
「ああ」

 反対の目尻に口づけられ、そこに溜まった涙を舐め取られる。嬉しい気持ちとは裏腹に、胸の奥がちりちり痛みを訴えている。ルドルフの胸に添えたままの両手でその身体を押し返し、ふるふると首を振る。

「……そんなの駄目。家族は一緒に暮らさなきゃ」
「それなら、メアリーとだって一緒に暮らさなきゃいけない」
「ひゃっ……!」

 情けなく垂れた耳にぱくりと食いつかれ、小さな悲鳴を上げる。耳朶に優しく歯を立てられて、白い耳の内側が赤く染まった。

「俺は他の誰より、メアリーと家族でいたい」

 一人だって平気。でも、二人だったらもっと平気。もう一人が家族だったら、ルドルフが家族でいてくれたなら――。

「なんでまた泣くんだよ」
「だって」

 大粒の涙が溢れて止まらない。しゃくりあげて、子供みたいに声を上げて泣いた。ルドルフはただメアリーを、抱きしめて、口づけて、眠るまで側にいてくれた。最後の記憶に残るのは、大きな手のひらに握り締められた自分の手。絶対に離すものかと握り返したはずなのに、目が覚めた時には何も掴んでいなかった。

 その日、ルドルフは帰らなかった。一晩待っても二晩待っても、何度夜を迎えようと、ただいまのキスが届けられることはなかった。
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