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2再会
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***
残業を終えた波奈は、更衣室で作業着から私服へと着替える。
黒色のコートはよく見ると、ところどころ毛羽立っていた。
去年買ったばかりだけれど、毎日同じコートを着ているので、劣化が早い。
同年代らしい派遣社員の女性グループに、影で、『水月さん、いつも同じ服』と、嗤われているのを知っていた。
恥ずかしいと思うけれど、買い換える余裕がなかった。
一人暮らしを始めて六年になる。
あの日、『渡されたお金』は、金銭感覚がわからなかった最初の二年間で使ってしまった。
使わずに、落ち着いたら返そうと思っていたお金だったのに、一度だけと手を付けてしまうと、歯止めがきかなかった。
これではいけない、と家賃の安いアパートに移り、そこの大家に紹介された工場で働き始めた。
けれど家賃だけでなく、光熱費や食費で給料の大半が消えていく。
手を付けてしまった『渡されたお金』のぶんも、まだ僅かしか返せていない。
衣服に回せる余裕はなかった。
――正社員になれば……少しは、楽になるのだろうか。
賞与が入れば少しは楽になるかも、と思うが、波奈には保護者もなく、学歴もない。資格もないため、今の工場では、どう頑張ってもパート止まりだろう。
そろそろ転職も考えなければ、と思いつつも、日々の生活の忙しさから、考えることを後回しにしていた。
資格を取るのにも、お金がいる。
水を使えば水道代がかかるし、電気を使えば電気代がかかる。
普通なら当たり前のことを波奈が知ったのは、最近だ。
十八年間。波奈は両親の庇護の元、蝶よ花よ、と何不自由なく暮らしてきた。
無知だった『お嬢様』時代のことを懐かしく思いながら、波奈は更衣室を出た。
「お疲れさま、水月さん」
職員用玄関を出たところで、沢渡に出くわした。
「お疲れさまです」
波奈は軽く頭を下げる。
残業を終えたばかりなので、午後七時を少しばかり回っていた。
この時間帯でも夏頃はまだ明るかったが、秋ももう終わりで、数日後には十二月だ。辺りは真っ暗だった。
波奈は鞄から懐中電灯を取り出した。
佐渡は自動車で通勤していた。
従業員駐車場は工場の門の外にあるため、並んで歩く。
「寒くなったね」
「そうですね」
「週末、雪になるそうだよ」
「本当ですか?……嫌ですね」
適当に会話をしているうちに、駐車場の前に着く。
まだ工場内には人がいるらしく、車が数台、止まっていた。
「お疲れさまです」
波奈は再び軽く頭を下げ、佐渡と別れようとしたのだが、「待って」と呼び止められた。
「寒いし、暗いし、送っていくよ」
「……いえ。すぐ、そこですし」
波奈の住むアパートは、歩いて十分くらいの距離にあった。
「遠慮しないで。どうせ帰り道だし」
――どうして、私の家、知っているんだろう。
波奈は佐渡のことを不審に思いながら、首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ」
「……水月さん。……俺のこと、嫌いなのかな」
「……は?」
「俺のこと、避けてるよね」
沢渡のことは苦手だけれど、嫌ってはいない。
避けてもいなかった。
「避けてませんよ」
「なら、乗っていきなよ」
「……近いですし、大丈夫ですよ」
「ほら、避けてる」
佐渡がからかうように言う。
一日働いて疲れていた。早く帰りたかったし、お腹も空いている。
かといって沢渡の車に乗りたくもない。
しつこい沢渡に、苛ついてきた。
「避けてないですし、本当、すぐそこだから、平気です」
「……奢るから、どこか食べに行こう」
「……いや、あの」
どう断るべきか考えていた時だ。
バン、と音が響いた。
音のした方を見る。
車のドアを閉める音だったのだろう。暗闇の中、白く浮かび上がった車の運転席のそばに、人影がある。
人影はゆっくりと、波奈たちのほうへ近づいてきた。
街灯の光で、人影が長身であることはわかるが、顔まではわからない。
職員の誰かだろうか、と思いながらも、なぜか……逃げ出してしまいたいような、不安な気持ちがこみ上げてきた。
波奈は眉を顰め、手にしていた懐中電灯で人影を照らした。
光を彼に向けたのは一瞬だけ。
波奈は光に照らされた顔を見、弾かれるように、懐中電灯を下ろした。
――どうして……。
波奈の知っている顔とは少し違って見えた。
けれど、間違えるわけがない。
「ハナ」
声も、あの頃とは少し違って聞こえる。
けれど、こんな風に……優しく、穏やかに波奈の名を呼ぶ人は、彼しかいない。
「……知り合い?」
沢渡の問いに、波奈が答えることができずにいると、人影が息を吐くように軽く笑った。
「僕は水月波奈の婚約者です」
人影の……彼が放った言葉に波奈の心が震えた。
「婚約者って。水月さん……本当?」
違う。
彼は、もう婚約者ではない。
否定したいけれど、波奈は首を振ることさえできない。
彼が波奈を今もまだ『婚約者』だと思っている。
そのことが切なく、悲しく――そして、怖かった。
「本当ですよ。ねえ、ハナ」
口調は穏やかだったが、波奈には彼が苛立っていることがわかる。
もしかしたら、いつかこんな日が来るかもしれない。
最初の頃は、再会する時を想像したりもしていた。
その時は、どのような態度をとり、どんな言葉を彼に向けるべきか。
自分が傷つかずにすむように。何より、これ以上彼を傷つけずにすむように。
波奈は想像の中で正しい行動を取れるよう、考え続けていた。
けれど季節が巡り、年月を重ねるうちに、再会する日など来ないだろうと思うようになった。
あの時のことを怒っているかもしれない。
優しい彼のことだから、心配しているかもしれない……。
けれどどちらにしろ、あれから六年も経っているのだ。『想い出』になっているに違いない。そう思っていた。
寂しくはあったけれど、それで良かった。
それが、波奈の望みだった。
だから、今になって。
六年も経って、彼が自分の前に現れたことに、波奈は動揺していた。
波奈は深呼吸をする。
なぜ、彼が今、波奈の目の前にいるのかわからない。
しかし――逃げるわけにはいかなかった。
「沢渡さん。ここで、失礼します」
戸惑う沢渡に一礼して、波奈は彼の元へ近づいていく。
「乗って。ハナ」
彼が――波奈の初恋の相手であり、六年前まで婚約者だった多岐川彩人が、微笑みながら、助手席のドアを開けた。
残業を終えた波奈は、更衣室で作業着から私服へと着替える。
黒色のコートはよく見ると、ところどころ毛羽立っていた。
去年買ったばかりだけれど、毎日同じコートを着ているので、劣化が早い。
同年代らしい派遣社員の女性グループに、影で、『水月さん、いつも同じ服』と、嗤われているのを知っていた。
恥ずかしいと思うけれど、買い換える余裕がなかった。
一人暮らしを始めて六年になる。
あの日、『渡されたお金』は、金銭感覚がわからなかった最初の二年間で使ってしまった。
使わずに、落ち着いたら返そうと思っていたお金だったのに、一度だけと手を付けてしまうと、歯止めがきかなかった。
これではいけない、と家賃の安いアパートに移り、そこの大家に紹介された工場で働き始めた。
けれど家賃だけでなく、光熱費や食費で給料の大半が消えていく。
手を付けてしまった『渡されたお金』のぶんも、まだ僅かしか返せていない。
衣服に回せる余裕はなかった。
――正社員になれば……少しは、楽になるのだろうか。
賞与が入れば少しは楽になるかも、と思うが、波奈には保護者もなく、学歴もない。資格もないため、今の工場では、どう頑張ってもパート止まりだろう。
そろそろ転職も考えなければ、と思いつつも、日々の生活の忙しさから、考えることを後回しにしていた。
資格を取るのにも、お金がいる。
水を使えば水道代がかかるし、電気を使えば電気代がかかる。
普通なら当たり前のことを波奈が知ったのは、最近だ。
十八年間。波奈は両親の庇護の元、蝶よ花よ、と何不自由なく暮らしてきた。
無知だった『お嬢様』時代のことを懐かしく思いながら、波奈は更衣室を出た。
「お疲れさま、水月さん」
職員用玄関を出たところで、沢渡に出くわした。
「お疲れさまです」
波奈は軽く頭を下げる。
残業を終えたばかりなので、午後七時を少しばかり回っていた。
この時間帯でも夏頃はまだ明るかったが、秋ももう終わりで、数日後には十二月だ。辺りは真っ暗だった。
波奈は鞄から懐中電灯を取り出した。
佐渡は自動車で通勤していた。
従業員駐車場は工場の門の外にあるため、並んで歩く。
「寒くなったね」
「そうですね」
「週末、雪になるそうだよ」
「本当ですか?……嫌ですね」
適当に会話をしているうちに、駐車場の前に着く。
まだ工場内には人がいるらしく、車が数台、止まっていた。
「お疲れさまです」
波奈は再び軽く頭を下げ、佐渡と別れようとしたのだが、「待って」と呼び止められた。
「寒いし、暗いし、送っていくよ」
「……いえ。すぐ、そこですし」
波奈の住むアパートは、歩いて十分くらいの距離にあった。
「遠慮しないで。どうせ帰り道だし」
――どうして、私の家、知っているんだろう。
波奈は佐渡のことを不審に思いながら、首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ」
「……水月さん。……俺のこと、嫌いなのかな」
「……は?」
「俺のこと、避けてるよね」
沢渡のことは苦手だけれど、嫌ってはいない。
避けてもいなかった。
「避けてませんよ」
「なら、乗っていきなよ」
「……近いですし、大丈夫ですよ」
「ほら、避けてる」
佐渡がからかうように言う。
一日働いて疲れていた。早く帰りたかったし、お腹も空いている。
かといって沢渡の車に乗りたくもない。
しつこい沢渡に、苛ついてきた。
「避けてないですし、本当、すぐそこだから、平気です」
「……奢るから、どこか食べに行こう」
「……いや、あの」
どう断るべきか考えていた時だ。
バン、と音が響いた。
音のした方を見る。
車のドアを閉める音だったのだろう。暗闇の中、白く浮かび上がった車の運転席のそばに、人影がある。
人影はゆっくりと、波奈たちのほうへ近づいてきた。
街灯の光で、人影が長身であることはわかるが、顔まではわからない。
職員の誰かだろうか、と思いながらも、なぜか……逃げ出してしまいたいような、不安な気持ちがこみ上げてきた。
波奈は眉を顰め、手にしていた懐中電灯で人影を照らした。
光を彼に向けたのは一瞬だけ。
波奈は光に照らされた顔を見、弾かれるように、懐中電灯を下ろした。
――どうして……。
波奈の知っている顔とは少し違って見えた。
けれど、間違えるわけがない。
「ハナ」
声も、あの頃とは少し違って聞こえる。
けれど、こんな風に……優しく、穏やかに波奈の名を呼ぶ人は、彼しかいない。
「……知り合い?」
沢渡の問いに、波奈が答えることができずにいると、人影が息を吐くように軽く笑った。
「僕は水月波奈の婚約者です」
人影の……彼が放った言葉に波奈の心が震えた。
「婚約者って。水月さん……本当?」
違う。
彼は、もう婚約者ではない。
否定したいけれど、波奈は首を振ることさえできない。
彼が波奈を今もまだ『婚約者』だと思っている。
そのことが切なく、悲しく――そして、怖かった。
「本当ですよ。ねえ、ハナ」
口調は穏やかだったが、波奈には彼が苛立っていることがわかる。
もしかしたら、いつかこんな日が来るかもしれない。
最初の頃は、再会する時を想像したりもしていた。
その時は、どのような態度をとり、どんな言葉を彼に向けるべきか。
自分が傷つかずにすむように。何より、これ以上彼を傷つけずにすむように。
波奈は想像の中で正しい行動を取れるよう、考え続けていた。
けれど季節が巡り、年月を重ねるうちに、再会する日など来ないだろうと思うようになった。
あの時のことを怒っているかもしれない。
優しい彼のことだから、心配しているかもしれない……。
けれどどちらにしろ、あれから六年も経っているのだ。『想い出』になっているに違いない。そう思っていた。
寂しくはあったけれど、それで良かった。
それが、波奈の望みだった。
だから、今になって。
六年も経って、彼が自分の前に現れたことに、波奈は動揺していた。
波奈は深呼吸をする。
なぜ、彼が今、波奈の目の前にいるのかわからない。
しかし――逃げるわけにはいかなかった。
「沢渡さん。ここで、失礼します」
戸惑う沢渡に一礼して、波奈は彼の元へ近づいていく。
「乗って。ハナ」
彼が――波奈の初恋の相手であり、六年前まで婚約者だった多岐川彩人が、微笑みながら、助手席のドアを開けた。
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