【R18】月しずくのワルツ~ツンデレ令嬢の初恋~

イチニ

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プロローグ

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 ミシェルは雷が嫌いだった。不穏な音に、けたたましい音。気味の悪い光。全てが怖くて堪らなかった。
 夜が嫌いだった。昼間でも太陽が雲に隠れ、薄暗くなってしまうと、壁の染みが蠢いている気がして、慌てて部屋から飛び出した。
 お化けが大嫌いだった。昔読んだ絵本に出てきた白い、足のないお化け。そんなものは空想上のモノだと思い込もうとしても、怖くて怖くて仕方がなかった。
 人参が嫌いだった。食事の時、人参を残すと睨み付けてくるメイドが怖かった。
 ミシェルには嫌いなものや怖いものがたくさんあった。けれど――本当に嫌いで怖いのは、それらを紛らわせてくれる相手がいないこと。
 寂しいという感情だった。

 ミシェルの母は、彼女が二歳のとき、風邪を拗らせて死んだ。
 幼かったため母との思い出はない。だから母というものが、どういうものなのかもわからないので、母がいなくて寂しいと思ったことはなかった。
 ミシェルが一番、嫌で、怖いのは、父が構ってくれない時だ。叱責されると悲しくて仕方なかったけれど、無視される寂しさよりはマシだった。

(……お父様はわたしより、あの子の方が大事なんだわ。だって、あの子ばかり構ってる)

 あの子が来たのは、ひと月くらい前。
 両親のいない、孤児だというあの子を、父は引き取って家に住まわすことにしたらしい。
 父には『弟子』はたくさんいたけれど、同居させるのは、あの子が初めてだった。
 黒い髪に、黒い瞳。真夜中のような色は、気に食わなかったけれど、隣の部屋で暮らすことになった『よしみ』である。
 あの子がどうしてもと望むなら、仲良くしてあげてもいいかも、と最初の頃は思っていたのだ。
 なのに――。

 ドアの隙間から、父の笑い声が漏れてくる。
 素晴らしい。その調子だ。私の自慢だ、と。父の声なのに父じゃないような、快活な声音を聞いた時から、ミシェルの心はギリギリと痛み続けている。

(わたしがもっと頑張れば、お父様はわたしに構ってくれるの?それともわたしが女なのがいけないの?)

『いくら技術があっても女だ。手習い止まりかもしれんが……』
 ピアノの前に座ったミシェルに父はいつも、そう前置きした。

 今年の春に七歳になったばかりのミシェルに、父の言葉の意味を理解することは難しい。けれどそれでも、父が女である自分に失望している。娘より息子を欲しているのは、幼くとも察せられた。

(女のわたしはいらないのだろうか。お父様はわたしの代わりに、あの子を子どもにするのだろうか)

 父親に捨てられる。
 最初は『いつか』『かもしれない』だった曖昧な不安は、日を追うごとに強まり、ミシェルを苛んだ。

 あの子を追い出そう。
 痛む心に耐え切れず、そう決めたミシェルは、あの子に対し、思いつく限りの嫌がらせを始めた。

 まず手始めに、食事のとき。ミシェルのお皿の中にある人参や茄子、椎茸などを、あの子の皿に移してやった。特に人参のときは、ひとかけらも残さずミシェルの皿からなくさねばならぬため、念入りに移した。
 あの子は真っ黒な瞳を、ぱちくりさせ、驚いていた。
 そして眉を寄せながら、人参や茄子、椎茸などを、むしゃむしゃと食べる。
 ざまあみろ、だ……と、喜んでいたのも数日で。
 メイドに見咎められ、注意をされた。

 夕暮れ時に、あの子の部屋に行って、怖い話を聞かせてやった。お化けの話だ。
 ミシェルのとっておきの怖い話を、あの子は戸惑った顔をして聞いていた。男の子なので平気なふりをしているけれど、内心は恐怖で震えているに違いない。
 成功したかに思われた嫌がらせであったが、その夜。ミシェルは自分の話した怖い話を、ベッドの中で思い出してしまい、眠れなくなった。
 それだけではおさまらず、小用に行きたいけれど、怖くて行けなくて、七歳になったというのに……お漏らしをしてしまった。
 メイドに叱られて、あの子にも濡れたシーツを哀れみの目で見られ、あまりの屈辱に泣いてしまった。
 数日後。あの子にも同じ屈辱を味わわせてやろうと、グラスに水を入れ、彼のベッドに零してやった。
 けれど……その悪戯も発覚してしまい、結局、ミシェルが怒られた。

 悪戯が失敗に終わるたび、幼いミシェルの心は、どんどん追い詰められていった。
 そして、ついに。
 あの子を家から追い出すため、最終手段に出ることにした。


 父が外出したある日の午後。
 ミシェルはピアノの下に身を潜ませた。
 本当なら時間帯は日が暮れてからの方が良かったが、暗いのはミシェルが怖いので駄目だった。

 ミシェルが隠れてからすぐ、ガチャン、パタン、と。ドアが開いて、閉まる音がした。
 灰色のスラックスを履いた足がピアノへと近づいてきて、椅子へ座る。
 カサリ、と譜面を開く音がした。

(今だわっ!)

 身を縮めていたミシェルの腕のそばに、ペダルを踏もうとしているあの子の足がある。
 ミシェルはその足を触った。

 うわっ、という情けない声とともに、椅子が倒れる。
 ミシェルはゆっくりと、ピアノの下から、這い出た。

「出て行け~。出て行かなくては、呪われる~。出て行け~」
 ミシェルは懸命に低い声を出す。

 シーツを頭から被り、目の部分は見えないと困るので、ハサミでくり抜いている。
 足は……なくすことは出来ないので、白い靴下を履いていた。
 どこからどう見ても、完璧な『お化け』である。鏡で確認したとき、恐怖に震えたので間違いない。

 ぎょえーとかぎょあーとか。きっとそんな叫び声をあげて、部屋から出て行く。そして、もう二度と、この家に寄り付かなくなるであろう。
 シーツの下でほくそ笑み待っていたが、思っていたような反応がなく、ミシェルは焦れる。

「われは~お化けじゃ。この家から出て行け~、不幸になるぞ~」
 追い込みをかけるべく、ミシェルはさらに脅した。しかし。

「きゃああ……やめて!」
 ミシェルの頭から被っていたシーツが引っ張られ、剥ぎ取られてしまった。

「何するのよ!」
 シーツを手にした少年を睨み上げる。
「君こそ……何をしているんだ……」
 お化けではないことを見破った少年は、呆れたような顔をしていた。

(まただ……また、失敗してしまった)
 悔しい。ミシェルは唇を噛んで、その悔しさに耐える。
 ミシェルの蒼い双眸に涙がぶわりと溢れ、頬を伝った。

「……どうして泣くんだ?」
「お化けじゃないって。バレちゃったのだもの」
「お化け……?ああ……いや、どうして、お化けになって、ピアノの下に?」
「……出て行って欲しくて」
 そう言うと、少年は小さく息を吐いた。
「まいったな……。そこまで嫌われるような真似をした覚えはないんだけど」
「あなたがお父様をとろうとするからっ!……わたしのお父様よ。あなたのじゃないわ。あなたにご両親がいないのは知ってるわ。わたしだってお母様がいないし、あなたのこと可哀相だって思う。でも……それとこれとは別よっ」
 ぽろぽろと次から次へと涙が零れ落ちた。
 視界がぐにゃぐにゃに歪むけれど、負けたくなくて、少年の黒い瞳を睨みあげる。

「……い、いくらお父様がわたしより、あなたが大事で。あなたを息子にしたいって思っていたとしても!わ、わたしのお父様なんだからっ!あなたになんかあげないっ!」
 ミシェルが叫ぶと、少年は眼差しを揺らした。

「あのさ、君……ミシェル。おれは確かに孤児だけど、父親を欲しがるような年齢じゃないんだ。先生……君のお父様のことは師として尊敬している。それだけだよ」
「あ、あなたがそうでも、お父様はあなたを可愛がってるわっ!」
「弟子として目をかけてくれてるだけだよ。おれなんかより、娘の君の方が可愛いに決まっているじゃないか」
「嘘よ!」
「本当だよ。母親も兄弟もいないからミシェルは寂しい想いをしてるだろうって。歳の離れた妹のように、仲良くして欲しいって、先生、おれに頼まれたんだよ。けど……おれがいた孤児院には男だけだったから……君みたいな女の子に、どう接していいかわからなくて。君には嫌われてるみたいだったし……」
「……嘘よっ」
「本当さ。この前、夜会に同行した時、君のこと、まだ小さいけれど、とても才能豊かな娘だって自慢されていたよ」
「……嘘よ……」

 少年は駄々っ子をあやすように、優しい声音で語りかけてくる。
 低く心地良い声が語る話に縋りたくなるけれど、不安はまだ拭えない。

「でも、でもっ……どうせあなた、今日のこと、お、お父様に告げ口するんでしょっ。そしたら、お父様、きっとわたしに失望するわ」
「しない。約束するよ」
「……本当に?」

 睨むのをやめ、おどおどと上目遣いで見上げると、少年は頷く。
 いつも盗み見ていた黒髪と黒い瞳を持つ少年は、冷たげで、どこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。けれど間近で見ると、夜の闇の双眸は穏やかだ。
 父ともメイドたちとも違う眼差しの優しさに、ミシェルの張り詰めていた心が溶けていく。

「シーツ……ハサミで切っちゃった……」
「……ああ」
 手にしている白いシーツに穴が開いているのを見て、少年が口元を綻ばせた。
 その笑顔を見ると、無性に、なぜか恥ずかしくなる。

「おれが間違えて、切ったことにするよ」
「でも……メイドに怒られるわ。あなた、うちから追い出されちゃうかも」
「追い出したかったんだろう?」
 からかうように、少年が言う。

 ミシェルは顔を赤くさせ俯いた。
 いつの間にか、涙は止まっていた。
 唇を噛み、目をぎゅっと閉じる。掌も丸めて拳をつくった。そうやって、勇気をふるい立たせてから、おずおずと顔をあげた。

 少年はミシェルが勇気を出すのを待ってくれていたように、優しい眼差しのまま、ミシェルのその様子を見守っていた。

「……ごめんなさい……悪戯して、追い出そうとして、ごめんなさい」
 本当はわかっていた。
 全部、ミシェルのやつ当たりなのだ。
 父の歓心を独り占めしたかった。決して、この子が悪いわけではない。
「うん」
「怖がらせて、ごめんなさい……人参のことも、怖い話のことも、おねしょも、ごめんなさい」
「……え?あ、ああ……うん。いいよ。気にしていない」
「赦してくれるの?」
「赦すもなにも、怒っていないよ。驚いたけれどね」

(どうしたのだろう。なんだか、胸がドキドキする)

「あのね……お、お友達になってあげてもいいわ」
 ミシェルは浮ついた心のまま言う。
 ついさっきまで、嫌いだったはずなのに、今は穏やかな黒い瞳をもっと見ていたいと思う。

「……友達になってくれるのか。ありがとう」
「夜ね、お化け、怖かったら、お小水のときも、わたしがついていってあげる」
 隣の部屋なのだから、それくらいはしてあげても良い。ミシェルもついでに行けば怖くないし、一石二鳥である。

「人参は、ダメだけれど……他のことなら、仲良くしてあげる!」
「そうか、ありがとう。なら、今日から改めて、よろしく、ミシェル」

 身を屈めた彼が、手が差し出してくる。
 彼の手は大きくて、指が長い。ピアニストとして理想的な、美しい指だ。

「よろしく……クラウス」
 ミシェルは小さな手で、彼の手を握った。


 その出来事から、ミシェルは多くの時間を彼と過ごすようになった。
 しかし友達と呼ぶには不自然な関係で、ミシェルがどれだけ彼と対等であろうとしても、彼の方はいつもミシェルを子ども扱いした。
 時々、そのことに不満を抱くこともあったが、彼に甘やかされるのは心地が良かった。

 父の愛弟子であり八歳年上。十五歳の少年クラウスを、ミシェルは次第に慕うようになっていった。


  ※
「そこ、指が違っている」
「いちいち指摘しなくても、わかっているわ」

 クラウスから指導を受けろと父に命じられたわけではなかったが、父よりも彼に教えを乞う時間の方が多くなった。
 父は忙しい人だったし、気後れしてしまう父に見て貰うより、彼の方が気楽だった。
 父の方も愛弟子が娘と親しくし、手解きしているのを喜んでいる風だ。もしかしたら単に手間が省けたことを、喜んでいるだけかもしれないけれど。

 父に見限られたのではなかろうかと不安になったり、父に目をかけられている彼に、嫉妬で八つ当たりしてしまうことは度々あった。
 けれど、その度にクラウスはぎこちなく、ミシェルの髪を、美しい指で撫で、慰めてくれた。

 月日は瞬く間に過ぎ、ミシェルは十二歳に。彼は二十歳になっていた。

「先生が夏の定期音楽祭で、君をお披露目したいと言っていた」
「え!本当に?」
 何気なくこぼした彼の言葉に、ミシェルは譜面を捲る手を止めて、ピアノの傍に立っている男を見上げた。
「曲を決めておきなさいって」
「どうしよう。何にしようか迷うわ……何よ、不満げな顔ね」
 渋面の彼に気づき、ミシェルは眉を顰める。
「おれは、まだ早いと思う。先生……君が決めることだから、口出しはしするつもりはないが」
「わかったわ。わたしに追い抜かされそうで怖いのね」
 ミシェルの言葉に、彼は鼻で笑った。
 失礼な態度に苛立つが、確かに、今の自分と彼では実力に差がありすぎる。

「笑っていられるのは今のうちよ。きっと、認めさせてやるんだから」
 ミシェルはつんと顎を上げて鍵盤に向かい、演奏を再開した。

 彼がなぜまだ早いと口にするのか。その真意はわかっている。
 十二歳という若さで将来を決めてしまうことを、彼は案じているのだ。
 いや――父に愛されたい、そのためだけにピアノに向かっている。そんな不純なミシェルの心を。見抜いているのかもしれない。

「あなたが思ってるほど、わたし、子どもじゃないわ。……だから平気よ、心配しないで」
 しばらく演奏を続けた後、指を止めて言うと、彼はそうか、と溜め息混じりの相槌を打った。

 子ども扱いは不満だが、心配されるのは嬉しい。
 正直に、心のままに彼を賞賛することは、恥ずかしくてまだ出来ない。けれど、新進気鋭のピアニストとして注目を浴びているクラウスを、ミシェルは自分のことのように、誇りに思っていた。
 同年代の紳士達の中にいても一際目立つ、涼やかで凛々しい面立ちも含め、父と同様に、彼はミシェルの自慢だった。

 夏の定期音楽祭までは、三月ほどある。いや、三月しかない。
 三月の間、懸命に練習したところで、上達の度合など、高が知れている。
 父がミシェルの実力以上のものを求めているとは思えないし、十二歳の少女に、大きな期待などされてはいないだろう。余興のようなものだ。
 しかし、不甲斐ない演奏で、父の顔に泥を塗るわけにはいかない。それなりに聴かせられるものを用意したかった。

(背伸びして難曲を弾くより、比較的、楽な曲の方がいいのかも) 

「音楽祭はあなたの曲を弾こうかしら」
 ふと思いついて口にする。
「おれの曲?」
「知ってるのよ。あなた作曲もしているのでしょう?」
「しているけれど、下手くそだ」
 下手くそという単語が彼に不似合いで、可笑しい。ミシェルがクスクス笑っていると、
「ほら、また指が違っている」
 と、注意が飛んできた。

(あまりみっともないのはダメだけど)
 彼が初めて作曲した楽曲を、自分が弾くのは悪くない思いつきだった。

 定期音楽祭には当然、父の愛弟子のクラウスも出る。
 父の名はミシェルにとっては重い。
 いくら期待されていなくとも、父と同じ舞台に立つことに不安がないといえば嘘になる。
 しかし今は、彼と同じ舞台に立てる。そのことが純粋に嬉しかった。

 母は幼い頃に亡くしていた。
 唯一の肉親である父は、日々を忙しなく過ごしていて、ミシェルに構ってはくれない。
 メイドたちは気難しい父の顔色を窺ってか、使用人としての立場で、ミシェルに接した。
 家庭教師を屋敷に招いているため、同年代の者と出会う機会はない。当然、親しい友人などいない。
 十二歳の少女にとって、八歳年上のクラウスだけが、唯一心を許せることの出来る相手であり、特別な存在だった。
 ときめきを伴う思慕を、何と呼ぶのか。この時のミシェルは、まだ自覚していなかった。
 ただ、父に対する想いとは、種類が違うことには気づいていた。


 それから数年後。ミシェルはあの頃、彼へ向けていた感情に相応しい言葉を見つけた。
 しかし本来なら淡く、甘やかに響くはずのその言葉はミシェルを苦くさせた。

 苦さを噛み締めるように、その言葉を胸の一番奥にしまい込み、父の信頼を裏切った彼のことを、矮小で下劣な人間だと軽蔑した。
 悲しみ嘆くことは、ミシェルの矜持が許さなかった
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