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11.不実

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 クラウスと関係した翌朝のミシェルの目覚めは最悪だった。
 身動きしただけで激しい頭痛が襲ってくる。そのうえ、体が鉛のように重い。
 幾度も経験したことのある二日酔いの症状に、初めて味わう下腹部の違和感が加わり、その日の午前中はベッドの上で過ごした。
 夕方になり、体はまだ怠いものの頭の痛みはなくなった。
 幸か不幸か――ミシェルは泥酔していても、よほど呑みすぎない限りは記憶はなくならない。
 昨夜あった出来事も、しっかりと覚えていた。
 しゃんとした頭で、昨夜受けた屈辱と、自分のやらかした行為について考える。

 前者の、下劣な貴族に犯されそうになったこと。
 酔っ払ってさえいなければ、あんな奴らにに隙を見せたりはしなかった。油断したことも失態だった。
 卑劣な彼らに怯えてしまった自身が悔しい。
 いくら気に食わないとはいえ、女性を多人数で乱暴する企てももちろん許せなかったし、ピアニストにとって命ともいえる指を、同業者であるピアニストの男が、脅しの道具に使ったことも許せなかった。

 けれど後者――。
 クラウスを誘い、脅して、寝たことについては後悔はなかった。
 彼の演奏を聴いた後、貴族達に犯されそうになり助けて貰い、冷静とは言えない状況だった。アルコールも入っていて、衝動のままに男を求めた。しかし自身の行為を愚かさを恥じる気持ちすらない。
 それどころか……。

(私は寝ることで、彼を貶めたいのだろうか)

 不誠実だと嘲笑いたいのか。そして貶めることで、八年前、金を盗み、父と自分の信頼を裏切った彼に復讐したいのか。
 それとも、ただ単に。

(彼と寝たかっただけかもしれないわ)

 ピアニストとしての才能に満ち溢れた男。
 最期の時、父は彼の名を呼んだ。それほどまでに、父にとってクラウスは『特別』だったのだろう。

 体の奥深くで彼を感じ、知りたい。
 束の間でも構わないから、父が認めた男を自分のものにしたかった。
 一度寝たのだから、二度も三度も同じだ。
 欲しいから求めるなんて、俗物的で愚かしい。けれども、そもそもミシェルは貞淑なわけではなく、この年齢まで処女だったのは、単に音楽以上の熱情を、男性に対し抱けなかっただけだ。
 自身もまた俗物なのだと思えば、欲求を抑える方が馬鹿らしくなってくる。

 クラウスがライネローズに滞在するのはひと月。
 彼がダトル皇国に戻れば、次に再会する日は、ずっと先になるだろう。
 ひと月の間、後腐れなく遊ぶだけ。そしてひと月しかないなら、日々を惜しまねばならない。

 ミシェルは彼と関係した三日後。
 バラティエ公爵家の別邸を訪ねた。
 クラウスと彼の後援者である未亡人ロレーヌが、ひと月の間そこに滞在していると聞いたからである。

   ※
「彼は父の愛弟子で、私の兄弟子なのです。八年ぶりに会って、何だかとても懐かしくなってしまって」
 茶色いの髪の女は美人というより、童顔で可愛らしい顔立ちをしていた。
 髪と同色の大きな瞳が、おどおどと彷徨う。その様子は小柄なせいもあり、やはり小動物を連想させる。

(男の庇護欲をそそる顔だわ。女からは嫌悪されるタイプだけど)

 童顔で、小柄なくせに、胸が豊か過ぎるのが、いやらしい。
 ミシェルから視線を逸らし、助けを求めるみたくクラウスに眼差しを向けるのも気に入らない。

「夫君を一年前亡くしたそうですね。私も父を二年前に亡くしたばかりなので、身内を亡くした辛さはわかりますわ。あなたとも仲良くしたくて、訪問したのですけど……いきなりで、ご迷惑だったかしら」
「いえ……迷惑では……」
「そうだわ。これ、ライネローズで評判のお店のお菓子です。甘くて美味しいの。良かったら、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 お礼を言う時は視線を合わすのが礼儀でしょうに。
 あまりにも無礼な態度に、鼻先で嗤いたくなるのを我慢し、にっこりと笑み、菓子箱を手渡した。

「夫人はこちらのご出身なのでしょう?アレクシとも親しくしていたと聞きましたわ。アレクシと私は友人なんです」
「あ、……そ、そうですか」
「彼から、あなたについていろいろと耳にしたのだけれど、実際お会いしてみると印象が違うわ。私、もっと積極的な方だとばかり思っていました」
 口調は朗らかに、悪意のこもった言葉を口にすると、頭はさほど鈍くはないのだろう。
 ロレーヌの顔が真っ赤に染まった。

「ミシェル。君は俺に用があって来たのだろう」
 冷たい声音でクラウスが諫めるように口を挟む。
「ええ、そうよ。懐かしい思い出話をしたくて来たの。……嫌だわ。仮にも妹弟子でしょう?そんな怖い顔しないで」
 肩を竦めて、クラウスの苦い表情を見上げる。

「あ、あの、上がっていただいて、お茶でも……」
 どことなく険悪な雰囲気を感じ取ったのだろう。ロレーヌが二人を窺い、恐る恐る口にする。

「いえ、遠慮させていただきます。それより……クラウスをお借りしてもいいかしら?父の墓に二人で参りたいの。父も喜ぶと思うし……ダメでしょうか?」
「え……いえ……行ってきたら?クラウス」
「夫人のお許しも出たことだし、行きましょう、クラウス。では、失礼します。ごきげんよう」
 ミシェルはそう言って、クラウスの腕を強引に取った。

 公爵家の別邸の玄関を出て、扉を閉めると、ミシェルは引っ張っていたクラウスの腕から指を外した。

「あなた、彼女とアレクシのこと……二人が過去にそういう仲だって知っていたの?」
 ミシェルの嫌味に、クラウスは、すぐに彼女を庇った。
 念のため尋ねると、ああ、と短い答えが返ってきた。

「へえ。意外ね。……焼けぼっくいに火がつくとか言うじゃない?よく彼女をライネローズに連れてくる気になったわね」
「二人がよりを戻すかどうか。それが心配で訪ねて来たのか?」
「まさか。あなたを連れ出しに来ただけよ。……まあ、婚約者がいながら別の男と関係を持って、夫が死んで一年も経たないうちに、愛人と旅行中の女の顔を、じっくり見ておきたかったのも、少しはあるけれど」
 ふふん、と鼻先で嗤う。

 彼らに貸与えられたこの公爵家の別邸は、アレクシが身を固め独立したときのために建てられたと耳にしていた。
 そこにかつての恋人と、その愛人をひと月といえども住まわせるなんて、アレクシもどうかしている。
 父である公爵に命じられて、断り切れなかっただけかもしれないけれど。

 ミシェルは春の花の芽吹いた花壇を見回し、クラウスを一瞥する。
「怖い顔しないでったら。冷たくされると拗ねて、私、何するかわからないわよ。行きましょう。馬車を待たせてあるの」
「……先生の墓に行くのか?」
「お父様のお墓にはもう参ったでしょう」
 ミシェルが門に向かって歩き始めると、クラウスは数歩遅れてついてくる。

 ミシェルを迷惑だと思っていても、従わざる得ない彼。
 そして愛人の裏切りを知らない、扉の向こうにいる女が、可哀相で、おかしくて堪らなかった。
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