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第一章
決別
しおりを挟むゆっくりと歩み寄ると、ガタガタ震えながらへたり込んでいた王徳浩は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪めた。
「お助けくだされ。駱奉先さまに命じられたとおりにしただけなのです」
呂日将は首を捻った。京師で会ったときも敵意を露わにされたが、そこまで駱奉先に恨まれる覚えは全くないのだ。
「勅使というのは噓か。しかしなぜ駱奉先どのがオレを殺そうとする」
「将軍が僕固懐恩と意を通じて駱奉先さまを害そうとしている、と知らせた者がいるのです。懸念の種は芽吹くまえに取り除くほうがいいというのが、駱奉先さまのお考えなので……」
誣告によって次々と将軍たちを陥れ吐蕃の京師占領を許してしまった程元振は官職を剥奪されて追放されというのに、宦官たちはまったく懲りていないようだ。
「そんなデタラメを吹き込んだのは誰だ」
「存じません」
呂日将は笑んだ。
「それなら仕方がない。駱奉先どのへ返答したいので役に立ってくれるか」
「おお、なんなりとお申し付けくだされ」
安堵の表情で身を乗り出した王徳浩の首元へ、刃を振り降ろす。目を見開いた首が地に落ちて転がり、血を吹き出した身体がドウッと前のめりに倒れた。顔にかかった血潮を無造作に袖で拭って首を拾うと、王徳浩の連れて来た兵たちに向かって投げる。
「これがオレの返事だ。駱奉先に持って行け」
血に濡れた平服を戦袍に着替え、呂日将は部下の前に立った。
「宦官を敵に回してしまったら、生きる道は残されていない。軽蔑されるかもしれないが、オレはそんな唐という国にうんざりしてしまった。これ以上唐のために働く気はない。申し訳ないが、新しい主を見つけてくれ」
呂日将から目をそらす者はいなかった。楊志環が言う。
「われらが鳳州を去ることなく調練に励んでいたのは唐のためではありません。将軍が必ず立ち直ってくださると信じていたからです。将軍が唐を捨てるとおっしゃるなら、我らも捨てます。どうか将軍の行かれるところにお供させてください」
「ならば、共に僕固将軍のもとに行こう」
呂日将は離れたところで、所在なげに立ち尽くしていた厳祖江に歩み寄ると、その肩を抱いた。
「この厳祖江どのは閬水の屈原となりかけていたオレのいのちを助けてくれたうえに、オレの目を覚ましてくれた恩人であり友人だ」
部下たちは姿勢を正し厳祖江に拱手する。
「や、やめてくだされ。オレはそのようなたいそうな者ではないのだ。困る、困る」
後退しようとする肩を、呂日将はしっかりと抱いて離さなかった
「ここにいるのは危険だな。調練の場所はここから遠いのか」
楊志環が答える。
「いいえ、いまから出れば、日が落ちる前には到着するでしょう。他の者たちもあちらで将軍のお出でを心待ちにしています」
「よし、ではすぐに行こう」
呂日将は使用人たちに因果を含めて暇を出すと、館をあとにした。
街道から離れた盆地にある調練の地に到着すると、歓呼の声をあげた五十人の兵士たちは、用意していた羊の息の根を止めて皮をはぎ、手際よく血と肉と内臓に分け始めた。肉は塩を振って焚き火で炙り、洗った腹わたは香草や野菜とともに煮込む。
久しぶりの野営料理の香りに、呂日将は胸が騒いだ。
「実は酒がないのです」
楊志環が申し訳なさそうに言う。
「オレを断酒させるつもりだったのだろう。付き合わせてしまい、悪かったな」
しかし喜びに酔っている者たちに酒は必要はないようだ。夕食が始まると歓声が野に満ちた。恐々といったようすで勧められた鍋料理に口をつけていた厳祖江も雰囲気に酩酊したのか、宴もたけなわとなるころには両脇の兵士と肩を組み、ともに歌い始めた。
食事の後、厳祖江とふたり並んで地べたに腰をおろして星を眺めた。
「祖江どののおかげでここに戻ってくることが出来た。改めて礼を申す」
「実感したよ。やっぱり日将どのとは、住む世界が違う」
「そうだな。オレはこれからもいくさに生きることになりそうだ」
「ではお別れだ。こんなオレが親しくしていいのかと、申し訳なく思っていたんだ」
「バカなことを言うな。祖江どのはこれからも無二の友だ。また会おう。侍中さまのご配慮に背いてしまい、申し訳ない」
厳祖江の頬が、たいまつのほのかな明かりを反射してきらめく。
「心配はいらん。オレは振売でもなんでもして生きていける人間なんだ。オレの作る饅頭は評判がいいのだぞ。再会のときには食わせてやる。約束だ」
苗晋卿は厳祖江のためではなく呂日将を立ち直らせるためにふたりを主従としたのだ。その恩を返すことが出来ぬなら、せめて苗晋卿の言ったとおり生きてみよう。
「日将どの、いのちをかける程のものが見つかったか」
「まだわからん。いまはただ、オレを信じて国を捨てるという部下たちを二度と裏切らない生き方をしようということだけを考えている」
「それでいいではないか。国とか大義とか、立派なものでなくていい」
「そういえば、祖江どのは見つけたと言っていたな。なんだったのだ」
「こいつのためなら死んでもいいと思える友だ。死に損なってしまったが、その結果は、オレの終生の誇りだ」
呂日将は黙って厳祖江の肩をたたいた。
それから、ふたりは夜が更けるまで、無言で星満ちる空を眺めていた。
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