摂政ナナム・マシャン・ドムパ・キェの失脚

りゅ・りくらむ

文字の大きさ
11 / 58
第一章

太子の幽閉 その4

しおりを挟む

 ひとの密度が増していた。露店に商品を並べた近郊の農民や牧畜民、西域からやって来たソグド商人たちが活気あふれる呼び声を発している。都ほどではないが、なかなかの盛況だ。高山に囲まれたこの国では、外敵の心配はほとんどなかった。現ツェンポ、ティデ・ツクツェンが即位してからは、国内の部族や貴族同士の争いも少なくなり、国民は平和を謳歌している。
 だが国境では唐との土地の奪い合いが激しくなっていた。そこに住む人々は財産といのちを失う危険に常にさらされている。もちろん唐側に攻め入るときは、トンツェンも唐のものを奪い、荒らし、殺す。だが、いままでそれに対してこころを痛めたことはない。相手は敵なのだ。
 サンシは目に入るものすべてが珍しいのだろう。興味津々といったようすで周囲にはしこく視線を走らせていた。彼も両国の争いによる犠牲者のひとりだ。和睦の印の贈物という名の人質。ひとりで敵国に囚われる心細さと親兄弟恋しさに、泣いた日もあっただろう。
 柄にもなくサンシの身の上に思いを馳せてしんみりしてしまった。やはりここの空気のせいだろう。
「調子が狂うな」
 トンツェンは頭を掻いた。いちいち他人の境遇にほだされていては、いくさはできない。敵に限らず、部下に対しても。戦場ではこころに蓋をして、そういった余計なことは考えないようにしている。そこがトンツェンの大きな弱点だとゲルシクによく叱られたものだが、気になってしまうものは仕方がない。
「トンチェンさま、トンツェンさま」
 呼ばれて我に返った。サンシは人波の先を一心に見つめている。
「ラモチェの和尚ハシャンさまがいらっしゃいます」
 トンツェンも目を向ける。確かに、仏教僧の姿があったが、背中を向けているので顔がわからない。
 都にあるラモチェ寺は、百年以上前にこの国を統一した大王ティ・ソンツェンの中国妃文成公主が建立した寺だ。その和尚は王が唐から招いた僧侶だが、かなりの高齢で王宮に出向く以外に出歩くことはめったになかった。こんな田舎町にいるはずがない。
「年取った坊さんだから、そう見えるんじゃないか」
「でも似てらっしゃいます」
 サンシはいきなり走り出した。
「おい、待てよ」
 トンツェンは慌ててその後を追った。
「和尚さま!」
 サンシの呼びかけに振り向いた顔を見て、トンツェンもその僧侶がまぎれもなくラモチェ寺の和尚であることを認めざるを得なかった。
サンシが唐語で話しかけると、トンツェンに会釈したラモチェの和尚はサンシと会話を始める。
 ティサンは敵との交渉や尋問も自分でできるほど唐語に長けていたが、トンツェンはまったく唐語が理解できなかった。小鳥のさえずりのようなふたりのやり取りと聞き流しながら、自分なりに推理してみる。
 もしや、病にかかって帰国を申し出たのか。が、目の前の僧侶はしごく元気そうで、年より若く見えるくらいだ。だいたい、唐までの道は健康な若者であっても越えるのが困難な高山がいくつもある。病を押して帰国するなど考えられなかった。
 では、ツェンポの不興を買ったのか。考えにくいことではあるが、まったく可能性がないわけではない。
 サンシの顔が次第に青ざめ、困惑の表情になる。
 まさか、病気なのは……。
 だが、五十という老齢とはいえツェンポは人よりも頑強な質で、病気らしい病気をしたと聞いたことがない。
 ならば事故か。ツェンポは馬が好きだ。馬の事故も考えられないわけではない。
 そして、忌まわしい言葉が頭にのぼった。
 弑逆……。
 思いを巡らしかけたとき。
「トンツェンさま」
 再びサンシの声で我に返った。
「おう、なんだって?」
 サンシはおびえたような顔をしていた。
「わかりません」
「わからない?」
 高僧に目を移す。彼も沈んだ表情で首を振った。
「突然、唐人と天竺の人は帰国するようにという命令が出たそうなのです。陛下と太子にお別れのご挨拶をしたいと願い出ても、お許しがいただけなかったとか。それに……」
 サンシが言いよどむ。うながすと、かすかに震えながら続けた。
「ならばせめてと、頻繁にお寺にいらしていた尚論を訪ねられたそうですが、何人かの方々がその数日前からお帰りになられず、家族や家来たちが心配していたと。陛下と、宮中にいらした改革派になにかあったってことは考えられませんか?」
 トンツェンは、足元の地面が抜けて宙に投げ出されたような感覚に襲われてよろめく。政治闘争なんてものに巻き込まれるのはごめんだ。直接刃を交える戦場とは違い、目に見えぬ権力の争いは得体の知れない怪物のように恐ろしい。
 サンシが、意外と冷静な声で言った。
「もしも伝統派の謀反なら、このまま都に帰っては危ないですね。とにかく、レン・ティサンにお知らせしましょう」
「お、おう」
 一瞬の狼狽が恥ずかしくなる。頬をはたいて自分で自分に気合を入れた。背を向けて逃げるのは主義じゃない。
 トンツェンは慌ただしく老僧に礼をするとサンシの腕をとり、ひとごみをかき分けながらもと来た道を駆け始めた。

 トンツェンの話を聞いたティサンは、眉間に深いしわを作った。
 真っ青な顔をして息も絶え絶えに倒れこんだサンシは、仲間に背をさすられながら水を飲んでいる。これまでの人生で、こんなに走ったのははじめてなのだろう。
「外国人に帰国命令が出されている。そして和尚が懇意にされていた改革派尚論の一部の消息が確認出来ない、というのですね」
 ティサンの固い声に、トンツェンは背筋を伸ばした。
「はい」
 ティサンは目の前の空間をにらむ。こういうときのティサンは怖い。他人と比べ饒舌なトンツェンだったが、ムズムズする舌を唇で固く封じて、ティサンの思案が終わるのをじっと待つ。
「あの、よろしいでしょうか」
 その沈黙を破られて、ギョッとする。サンシがフラフラとトンツェンの脇に寄った。思考を中断されたティサンは鋭い視線を向けたが、相手がサンシとわかると柔和な笑みを浮かべた。
「なんでしょう」
「わたしが都に行って、なにが起こっているのか聞いて来ます」
「ちょっと待てよ。おまえがいちばん危ないんだぞ」
 トンツェンの言葉にティサンもうなずく。
「その通りです。もしも改革派に対する粛清が行われているのなら、使節団の人間、まして唐人のサンシどのは帰ってはいけません」
「いいえ。わたしが一番安全です。わたしは皆さまに比べて顔を知られていませんから」
「バカ言え。一番安全なのはオレだ。オレは伝統派でも改革派でもないからな。それに、腐ってもチム家の人間だ。大相だって、そう簡単に捕まえることは出来ない。戦勝報告だって言えば陛下に会わせないわけにはいかないだろ。ティサンどのは、まだ唐からの反撃があるかもしれないから砦を守っているって言えばいい」
「では、ふたりで行きましょう」
「なんでだよ」
「いけません!」
 ティサンが叱責の声をあげたので、トンツェンはビクリとする。
「サンシどのは、和尚さまとともに唐にお帰りなさい」
 サンシは一瞬あっけにとられた顔をしたが、みるみる頬を紅に染める。
「イヤです」
「お帰りなさい。唐主ギャジェはあなたに、残って唐に仕えよと言ったそうですね」
「帰るってどういう意味です? わたしの帰るところは太子のもとです。帝にはそう申し上げて、キッパリとお断りいたしました」
 サンシは真っ赤に充血した瞳でティサンをにらみつける。
「どうしてもお認めいただけないとおっしゃるのなら、わたしはひとりで都に帰ります」
 ティサンは悲しそうな顔をした。
「そのような短慮を起こすものではありません。だいいち、宮中のようすを知る、信頼できるお知り合いがいるのですか?」
「ナナム家のニャムサンです」
「おんなたらし?」
 トンツェンが聞き返すと、ティサンが首を傾げる。
「レン・マシャンは伝統派の重鎮のひとり。彼が陰謀を主導している可能性もあります。その近親者にお会いするなど、危なすぎます」
「ニャムサンは伯父上の言いなりになるようなひとではありません。それに、太子のことを弟のように大切に思っています。太子を裏切るようなことは絶対にしません」
「そうかなぁ」
 懐疑の声をあげたトンツェンに対して、ティサンはしばらく真剣な表情で考えた後、うなずいた。
「では、おふたりで行っていただきましょう。まずはトンツェンどのが陛下への謁見を申し出る。それでわからなかったら、ニャムサンどのにお会いする。くれぐれも無理をしないように。どちらかひとりが危ないと思ったら、すぐに引き返しなさい。よいですね」
「はい」
 明るいサンシと、力ないトンツェンの声が重なった。
 トンツェンはため息をつく。
 なんで、こんなお坊ちゃんと相棒を組まされなきゃならないんだ。

しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す

みにみ
歴史・時代
史実の第二次世界大戦が起きず、各国は技術力を誇示するための 「第二次海軍休日」崩壊後の無制限建艦競争に突入した 航空機技術も発達したが、それ以上に電子射撃装置が劇的に進化。 航空攻撃を無力化する防御陣形が確立されたことで、海戦の決定打は再び「巨大な砲」へと回帰した。 そんな中⑤計画で建造された改大和型戦艦「若狭」 彼女が歩む太平洋の航跡は

処理中です...