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二年目
八年前の転寝月32日(4)
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空が白みかけていた。
私たちはあれからずっと、丘を離れず一緒にいた。じっ様は木にもたれ掛かったまま。私は膝を抱え震えながら、小さくなってその隣に。
目に焼き付いた惨劇の跡。怖かった。この場所から動けなかった。フルルクスから離れ難かった。
私のそんな心情を、察してくれたのだろう。じっ様はいてくれた。その間、眉間に深い縦皺を刻みつつ、途切れ途切れに、一つ、一つ、確認するようにーーミリさんのことを話してくれた。
陽月下の先輩であったこと。
ずいぶん優しい人で、とても良くしてもらったこと。
恋の成就に手を貸して、最終的に彼の子供を抱っこしたこと。
そしてーー三年前の疫病で、その妻子を亡くしたことも。
人は脆い。こんなにも容易く、足を踏み外してしまう。
怖かった。ドウの存在も。ドウによって、誰かを失うのではないかと考えることも。失えば、道を外れてもおかしくはないという事実も。その結末も。
ひたすらに怯えていた。目を閉じると、瞼の裏に真っ赤な血溜まりが映って、眠ることもできなかった。そうしているうちに、時間が経った。
もうすぐ朝になる。
胸に手を当てる。まだ少し震えている。だけど…多分、大丈夫だ。
「もうじき…夜が明けますね。もう、行かなくては…」
深く息を吸い込んでから、口にした。いつまでも、ここでじっとしているわけにはいかない。やるべきことがある。
「……そういえば、予定を一日ずらしたんだったな。悪かったな、こんなことに付き合わせちまって」
じっ様が、うつむけていた顔を上げて言う。首を振った。
「自分で首を突っ込んだんですよ。逆に付き合わせたのはこちらです。ありがとうございます。その…ここに残っていてくれて」
「下手に動くのは、危険と判断しただけだ」
確かにそれも、いくらかあっただろう。でも夜明けまで付き合うことはない。少なくとも、じっ様は、私のように怯えてはいなかった。踏んでいる場数が違うのだろう。
「本当に、ありがとうございました」
居住まいを正して、もう一度お礼を言った。それから立ち上がり、一つ頭を下げて背を向ける。一歩踏み出したところでーー
「また会えるか?」
「え?」
予想外の言葉に振り向く。するとじっ様は、なんとも言えない困った表情を浮かべ立っていた。やれやれというような苦笑いになり、続けて口にする。
「……また飲みに行かねえか?」
「ああ、それは…」
いいですね。是非ーーと言いかけて、言葉を止めた。
いや、ちょっと待て。
ここは八年前。安請け合いをしてはいけない。次に私がじっ様と飲みに行けるのは…八年後である。
順調に事が運んだとして。
「すみません。実は、明日の用事が終わったら、暫くここを離れなければならないので…無理そうです」
もう一度頭を下げ、改めて立ち去ろうとする。再び声がかかった。
「暫く、ってことは、そのうち戻るってことだろ?戻ったらで構わない。どうだ?」
「…………」
すぐに言葉にならなかった。八年の歳月を、暫くと言っていいのだろうか?じっ様を見つめると、ドウの黒く揺らめく残像が、その背後にチラついて見えた。
「ーーっ!」
ビクリと肩が大きく跳ねる。
「どうかしたか?」
「あ、いいえ。なんでも…」
鳥肌が立っていた。
「おい、大丈ーー」
「あ、あの!」
「……なんだ?」
「あの、約束をしましょう」
「約束?」
「はい。あの、私、本当に暫く…ええと、かなり先になるというか…とにかく!いつになるかは分かりませんが、約束しましょう。その…また会って、一緒にお酒を……」
私との約束など。
きっと、足元に生えている雑草程度の、引っ掛かりにしかならないだろう。
それでも。
それでも万が一、じっ様がこの先、八年の間にドウと遭遇して無茶をしかけた時に、僅かでもこの約束が頭を掠めてくれたなら…
ドウが姿を見た私たちを、わざわざ殺しに来るかは分からない。覆った黒装束で、顔はほぼ見えなかったのが実際のところである。
だけど、奴がなにを考えどう動くかなど、予想もつかない。だからーー
「約束…か。守れんのか?」
しどろもどろに言葉を続ける私に、じっ様が口の端を上げる。何気に失礼な物言いである。
「一応、人との待ち合わせは正確に守る方ですよ。あ、そうだ。それならーー」
小走りでじっ様の元へ駆け寄って、小指を突き出した。
「…………は?」
「は?じゃないですよ。指切りです」
「ユビ…キリ?なんだそりゃ?指を切るのか?物騒だな」
「え?」
どういうことだ?
指切りを知らない?でも八年後のじっ様は、知っていたような素振りであったけど…
だけど、小指を引っ掛けるだけの指切りーー物騒な方はあるかもと思ってしまったーーというのは、独特の慣習である。ここで、それがあるとも…
…………あ。まさか、そういうことなのか?
私が教えた?だから、八年後のじっ様は指切りを知っていた?
「おい?」
目の前で考え込んでしまったものだから、不審がられた。
「あ、はい。すみません。あの、指切りというのは、約束のしるしにすることなんです。こう……あ、小指出してください」
「………」
じっ様が困惑気味に手を出す。その小指に、自分の小指を掛けた。
「で、少し曲げて、こうしてお互いの小指を引っ掛け合うんです」
半ば強引に。軽く指を掛け合った手を振って、指切りをした。それこそ物騒なので、針千本云々の歌はなしで。
指切った~。
「なんなんだ?」
不思議そうに小指を見つめている。
「私の故郷ではこうするんですよ」
笑いながら返した。本当は、いい大人はあまりやらないけれど。
こうなると…じっ様にはここであったことを、正直に話さないわけにはいかないだろう。できれば白薬の副作用については、誰にも言いたくないのだが。
師匠にだけは黙っていてくれるよう、頼み込むのも忘れないようにしなければ。
「妙なことをするんだな」
こちらの考えをよそに、首を傾げるじっ様。
「まあ、そうですね」
苦笑しかない。
こうして八年前のフルルクス・シンと別れ、丘を後にした。
あれ?
…………なにか、見落としてない?
私たちはあれからずっと、丘を離れず一緒にいた。じっ様は木にもたれ掛かったまま。私は膝を抱え震えながら、小さくなってその隣に。
目に焼き付いた惨劇の跡。怖かった。この場所から動けなかった。フルルクスから離れ難かった。
私のそんな心情を、察してくれたのだろう。じっ様はいてくれた。その間、眉間に深い縦皺を刻みつつ、途切れ途切れに、一つ、一つ、確認するようにーーミリさんのことを話してくれた。
陽月下の先輩であったこと。
ずいぶん優しい人で、とても良くしてもらったこと。
恋の成就に手を貸して、最終的に彼の子供を抱っこしたこと。
そしてーー三年前の疫病で、その妻子を亡くしたことも。
人は脆い。こんなにも容易く、足を踏み外してしまう。
怖かった。ドウの存在も。ドウによって、誰かを失うのではないかと考えることも。失えば、道を外れてもおかしくはないという事実も。その結末も。
ひたすらに怯えていた。目を閉じると、瞼の裏に真っ赤な血溜まりが映って、眠ることもできなかった。そうしているうちに、時間が経った。
もうすぐ朝になる。
胸に手を当てる。まだ少し震えている。だけど…多分、大丈夫だ。
「もうじき…夜が明けますね。もう、行かなくては…」
深く息を吸い込んでから、口にした。いつまでも、ここでじっとしているわけにはいかない。やるべきことがある。
「……そういえば、予定を一日ずらしたんだったな。悪かったな、こんなことに付き合わせちまって」
じっ様が、うつむけていた顔を上げて言う。首を振った。
「自分で首を突っ込んだんですよ。逆に付き合わせたのはこちらです。ありがとうございます。その…ここに残っていてくれて」
「下手に動くのは、危険と判断しただけだ」
確かにそれも、いくらかあっただろう。でも夜明けまで付き合うことはない。少なくとも、じっ様は、私のように怯えてはいなかった。踏んでいる場数が違うのだろう。
「本当に、ありがとうございました」
居住まいを正して、もう一度お礼を言った。それから立ち上がり、一つ頭を下げて背を向ける。一歩踏み出したところでーー
「また会えるか?」
「え?」
予想外の言葉に振り向く。するとじっ様は、なんとも言えない困った表情を浮かべ立っていた。やれやれというような苦笑いになり、続けて口にする。
「……また飲みに行かねえか?」
「ああ、それは…」
いいですね。是非ーーと言いかけて、言葉を止めた。
いや、ちょっと待て。
ここは八年前。安請け合いをしてはいけない。次に私がじっ様と飲みに行けるのは…八年後である。
順調に事が運んだとして。
「すみません。実は、明日の用事が終わったら、暫くここを離れなければならないので…無理そうです」
もう一度頭を下げ、改めて立ち去ろうとする。再び声がかかった。
「暫く、ってことは、そのうち戻るってことだろ?戻ったらで構わない。どうだ?」
「…………」
すぐに言葉にならなかった。八年の歳月を、暫くと言っていいのだろうか?じっ様を見つめると、ドウの黒く揺らめく残像が、その背後にチラついて見えた。
「ーーっ!」
ビクリと肩が大きく跳ねる。
「どうかしたか?」
「あ、いいえ。なんでも…」
鳥肌が立っていた。
「おい、大丈ーー」
「あ、あの!」
「……なんだ?」
「あの、約束をしましょう」
「約束?」
「はい。あの、私、本当に暫く…ええと、かなり先になるというか…とにかく!いつになるかは分かりませんが、約束しましょう。その…また会って、一緒にお酒を……」
私との約束など。
きっと、足元に生えている雑草程度の、引っ掛かりにしかならないだろう。
それでも。
それでも万が一、じっ様がこの先、八年の間にドウと遭遇して無茶をしかけた時に、僅かでもこの約束が頭を掠めてくれたなら…
ドウが姿を見た私たちを、わざわざ殺しに来るかは分からない。覆った黒装束で、顔はほぼ見えなかったのが実際のところである。
だけど、奴がなにを考えどう動くかなど、予想もつかない。だからーー
「約束…か。守れんのか?」
しどろもどろに言葉を続ける私に、じっ様が口の端を上げる。何気に失礼な物言いである。
「一応、人との待ち合わせは正確に守る方ですよ。あ、そうだ。それならーー」
小走りでじっ様の元へ駆け寄って、小指を突き出した。
「…………は?」
「は?じゃないですよ。指切りです」
「ユビ…キリ?なんだそりゃ?指を切るのか?物騒だな」
「え?」
どういうことだ?
指切りを知らない?でも八年後のじっ様は、知っていたような素振りであったけど…
だけど、小指を引っ掛けるだけの指切りーー物騒な方はあるかもと思ってしまったーーというのは、独特の慣習である。ここで、それがあるとも…
…………あ。まさか、そういうことなのか?
私が教えた?だから、八年後のじっ様は指切りを知っていた?
「おい?」
目の前で考え込んでしまったものだから、不審がられた。
「あ、はい。すみません。あの、指切りというのは、約束のしるしにすることなんです。こう……あ、小指出してください」
「………」
じっ様が困惑気味に手を出す。その小指に、自分の小指を掛けた。
「で、少し曲げて、こうしてお互いの小指を引っ掛け合うんです」
半ば強引に。軽く指を掛け合った手を振って、指切りをした。それこそ物騒なので、針千本云々の歌はなしで。
指切った~。
「なんなんだ?」
不思議そうに小指を見つめている。
「私の故郷ではこうするんですよ」
笑いながら返した。本当は、いい大人はあまりやらないけれど。
こうなると…じっ様にはここであったことを、正直に話さないわけにはいかないだろう。できれば白薬の副作用については、誰にも言いたくないのだが。
師匠にだけは黙っていてくれるよう、頼み込むのも忘れないようにしなければ。
「妙なことをするんだな」
こちらの考えをよそに、首を傾げるじっ様。
「まあ、そうですね」
苦笑しかない。
こうして八年前のフルルクス・シンと別れ、丘を後にした。
あれ?
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