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初めてを二人で
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友人から恋人という肩書に変わったぼくと檜垣くんの仲は、学生らしく健全なお付き合いで進展はまったくない。
檜垣くんはどうも付き合えただけで満足してしまってる節がある。これでいいのかなと思いはするけど、ぼくにとっては初めてのオツキアイで初めての恋人なので、それに甘えさせていただいてる。
でも、お昼は一緒に食べるし、登下校も大体一緒。
甘い空気も流れてなくはない……気がするけど、キスにすら至らない。
なのに突然『今日、酒井のヒロインにしてほしい』とか言う爆弾発言をかまされた。
据え膳? ヒロインにしてって、抱いてみたいな意味? 思ったよりも早く仕掛けてきた! と身構えたけど……。
「どうしたの? 酒井クン」
「ははは……」
単に女装して放課後デートするってオチだった。
さすがにマックでは、そういう展開になりそうにはない。
きっとぼくが少女漫画好きだから、ピュアな感じに関係を進めようとしてくれているのだ……。
よほど微妙そうな顔をしていたのか、檜垣くんは少し不安気にしている。
相変わらず、裏声成長しないなー。服もセーラー服にコートだし。
なのに整えられた指先とか、メイクは凄く上手くなってる気がする。今日なんてマスクしてないのに、ちゃんと女の子に見えるし。
思わずまじまじ見ると、檜垣くんが頬を染めた。
「何?」
「化粧上手くなった気がして」
「わかる? ハマっちゃって……」
「女装に?」
「いや、化粧自体にかな。少し変えただけで顔が変わるのが面白くて。将来こっちの道に進めないかな……」
「オカマに?」
「……わかってて言ってるでしょ、酒井クーン」
口にポテトを押し込まれた。
ぼくがキッカケで進路に影響を与えてしまうとは。
でも思えば……檜垣くんの家に行ったとき、メイク道具はガチに揃えてたけどかかってる服はセーラーだけだったな。
デートの時のウィンドウショッピングも、ぼくにあう服を楽しそうに見繕うだけで女性服にはさほど興味がなさそうだった。
勉強もそうだけど、檜垣くんはコレと決めるとひたすら突き進むタイプなのかもしれない。
「もちろん、これで酒井をおとせるなら嬉しいけど」
「もうおちてるだろ。つ、つき、あってるんだから」
思わず声が裏返った。ぼくが裏声になってどうする。
でもこういうこと言ってくるってことはだ。やっぱり少しも恋人同士として進展しないのを気にしてるんだろう。
「その、ごめん。ぼく、付き合うとか初めてだから、そういうの上手くなくて……。なんか不安にさせてる?」
「ええと。いや、あの……。ごめん。オレも初めてだから、ぎこちなくて。嬉しいのにどうしたらいいかわからなくて、女装に頼ってしまってるし」
「えっ? 初めてって、嘘だろ? あ。男と付き合うのがって意味?」
「こ、恋人自体がだよ。別におかしくないだろ、まだ高校生なんだから」
「だって檜垣くん、モテるし」
まさか女の子とも付き合ったことないなんて、想像できなかった。
確かにピュアそうな感じはしてたけど、それはヒロインを演じてるからだとばかり。
「でも好きになる人は既婚者だったり、やたら歳が離れてたり、他に好きな人がいたりで、叶わないんだよ。誰に相談しても諦めなよって言われるし」
相談にのったのが女の子なら……諦めて私を見てよ。ってとこか。想像つく。
「酒井が初めてだったんだ。オレに、諦めるなって言ってくれたの。嬉しかった」
少女漫画的な展開を見たいっていう下心つきでのあの台詞が、そんなに刺さっていたとは。
恋を応援したくらいで好きになるなんて、ちょろすぎにもほどがあるだろって思ってたけど……檜垣くんにとっては重い言葉だったのかもな。
そもそも檜垣くん、男の友達自体ぼくが初めてみたいな感じだもんなー。特別になってもおかしくはないか
「対象が自分になった途端、手の平返すように諦めてよなんて言っちゃったけどね」
「それはまあ、酒井に応える気がなかったんだから仕方ない。でも諦めなくて良かった。本当に、オレと付き合ってくれてありがとう」
好きになってくれて、じゃないんだ。
……大切にしよ。
なんというか。付き合い始めてから、檜垣くんがますます可愛く見える。身体的に進展してないだけで、心的には少しずつ近くなってるとは思う。
ぼくに抱かれたいって言ってたし、やっぱり手を出されるのを待っているのかな。
でも勃たなかったら傷つけちゃいそうだしなー。下手に手は出せない。
「ぼくが付き合いたいから付き合ってるんだし、檜垣くんがお礼言うことでもないだろ」
「うん、そうだな」
檜垣くんはデレッとした顔で、シェイクを啜った。ピンク色の唇をすぼめて、中の液体を吸い上げていく。
……キス、くらいは。してみたい、ような気もする。
「さ、酒井、あの。今日うち家族いないし、姉さん帰ってくるの遅いんだけど……。遊びに来ないか?」
「え」
「嫌ならいい。ただどうしても、酒井にしたいことがあって……。相談もあって」
なんの相談だろ。それに、したいことって。き、キスとか? まさかその先? ヒロインにしてって、本当にそういう意味だった?
握った手に汗が滲む。体温が下がるような気がした。
身体が熱くなるのではなく血の気が引くなら、ぼくにはまだその覚悟がないってことなんだ、きっと。
でも、檜垣くん。君、自分じゃ気づいてないかもしれないけど……。嫌ならいいって顔してない。断ったらめちゃくちゃへこんで泣きそう。
同情なんだろって、頭の隅で声が聴こえた気がした。
「行く」
躊躇ったのは一瞬だった。覚悟はなくても、泣かせたくない気持ちが上回った。
それに、キスならぼくもしてみたいと思ってるから、とりあえず進展にはなるし……。その先が無理そうなら、まだ待ってほしいと素直に告げればいい話。
たったキスひとつでも、何かが変わるかもしれない。檜垣くんも、そういう気持ちを込めてぼくを誘ったのかもしれない。
行くと頷いたぼくに、檜垣くんはとっても嬉しそうな顔をした。
ぷるんとしたピンク色の唇も可愛いけど、拭ってもらってウィッグも外してもらって、いつもの君とキスをしよう。そう決めた。
久しぶりの、檜垣くんの家だ。前に来た時はお見舞いだったし、恋人関係でもなかったからやたら緊張する。
先に部屋に上がっててと言われ、中に入ると。
「うわ……」
メイク道具、この前より増えてるし。
勉強机では足りず、鏡台まで置かれてる。もちろんその上にも新たな道具が。あとはなんかわからない瓶とか。姉ちゃんですらこんなに持ってない。
将来仕事にしたいって、アレ本気だったんだ。さすがにここまでくれば、引くより先に凄いとしか思わない。
でもあんなに勉強できるのに、なんだか勿体無い気もしてしまう。檜垣くんを見る限りでは、まあ、才能ありそうだけど……。
いつも部屋で、化粧してるのかな。そう思うと、なんだかドキドキした。
あと、やっぱり……ベッドに目がいってしまう。そりゃあ、この前と違って友人の部屋ではなく、恋人の部屋なわけだし? 多少は、こう。いつかはここで抱き合うこともくるのかなとか。健全な男子高校生なら考がえてしまうのが普通だ。
部屋の真ん中にはクッションが置いてあったので、迷わすそこに座った。この前はなかったから、今日は誘うつもりで用意していたんだろう。
「お待たせ」
檜垣くんがオレンジジュースを乗せたお盆を抱えて入ってきた。
グラスに、切ったオレンジが刺さっている。
「ああ、これ。この前カラオケで見て可愛かったから、酒井がうちに来たらこうして出そうと思ってたんだ」
何気に女子力高くない? それとも、そうあるように振る舞ってるのか。
檜垣くんはぼくの前にお盆を置いて、寄り添うように座った。
「それで、相談なんだけど……」
「待った。その前に化粧を落としてほしい」
「それじゃヒロインらしくない」
「いや、別に家ではいいだろ」
「酒井こそ、そんなに拘らなくても」
その姿の時に手を出したら『オレが女装してたから酒井がシタイって思ってくれたんだ!』とか、思い込むだろ、絶対に……。
それに薄いとはいえ、匂いのするリップよりちゃんと唇にキスしたいっていうか。
じーっとねだるように檜垣くんを見ていると、目を逸らして俯いてしまった。
「わ、わかった……」
なんか勝った気がする。
でもこれ、素顔の君と一緒にいたいんだ、とか言うべきだった?
……想像してみたけど、かなり無理。
「落としてくるから待ってて」
檜垣くんはそう言って部屋を出た。
喉が凄く乾いていたので、持ってきてくれたジュースを飲む。かなり、濃くて美味しい。搾ったやつかもしれない。
ぼくが飲み終わる前に、檜垣くんが戻ってきた。思ったよりも早い。ウィッグも外してセーラー服も脱いで、いつもの制服だ。
今度も寄り添うように座ってくるかなと思ったのに、少し間をあけて座った。一人分の隙間が酷く不自然に感じた。
この距離は、そのまま心の距離を表しているような気がする。
かと言って、もっとこっちに来いよ、と言えるはずもなく。
「それで、相談なんだけど……」
さっきの話が再開された。今度はきちんと頷く。
「メイクの練習がしたくて」
相談内容は、思ってもみないことだった。ぼくにしたいことがあるって言ってた上での、この流れ。答えはひとつしかない。
「顔をかしてほしい」
「そんな、これから喧嘩売るみたいな言い方」
女装してほしいっていう趣味全開なお願いだったら、即断ってた。でも……将来そういう仕事に就きたいって話を聞いてからのコレは狡い。
「一回させてもらえたら、すぐに落とすから。メイク落としシートも用意してる」
「う、うーん。今日はちょっと」
抵抗あるけど、檜垣くんのお願いを叶えてあげたい気持ちもある。ただ、ここでぼくがメイクをされてしまうと、化粧を落としてきてもらった意味がないというか。
つまりその。ぼくは自分の想像以上に、キスをしたいと思っていたらしい。
断る理由の大部分が、メイクをされたあとでそんな気分になれそうにないから、というものだ。
そんなぼくの気を知らない檜垣くんは、目に見えてガッカリした。
「今度はさせてあげるから。約束」
「本当か?」
「うん……」
でもまいったな。キスできるような雰囲気にならない。
てっきり、相談とかしたいことってそっち方面だと思ってたから……自分から仕掛けることを、全然考えていなかった。
ここで男らしく押せる性分なら、少女漫画的ラブロマンスのひとつやふたつくらい経験してる。
これならいっそ、メイクぐらいさせてあげたほうがいい感じで終われるのでは。
ただなあ……。女装しながらのファーストキスとかになったら、絶対に立ち直れない……。
「ごめん。そんなに困らせるつもりじゃなかった。オレが将来仕事にしたいとか言ったから、気を遣ってくれたんだよな」
「そうじゃなくて、キスを」
反射的に思ってることを口に出してしまった。慌てて塞いだけど、もう遅い。
「ごめん! 今すぐ女装してくる!」
「待て待て待て。なんでだよ!」
「だって、せっかく酒井がその気になってくれたのに」
「それじゃメイク落としてきてもらった意味がないだろ!」
「えっ?」
あああー。恥ずかしさで死ねる。こんなの、もうさっきからそんなことで頭がいっぱいだって白状したようなものじゃん! ロマンスの欠片もありゃしない。
檜垣くんは頬を染めたあと、緊張で乾いた喉を潤すかのようにオレンジジュースを飲んだ。
「れ、レモンじゃなくて、オレンジの味でよければ……。酒井とキスがしたい」
自分からしてくるんじゃなく、目をつぶって待ってくれた。
ぼくが、そういうのが好きだって知ってるから。
今の檜垣くんは男の姿だけど。でも、充分、ヒロインだ。
檜垣くんの動作ひとつで空気が変わる。イケメンはその場の雰囲気までアッサリ変えてくるから恐ろしい。
今日はソレに……感謝、するけど。
ぼくのファーストキスは、瑞々しいオレンジの味だった。
唇、思ったよりも柔らかい。いい匂いがする。
ああ、オレンジか……。吸ったらもっと、甘いのかな。
心臓が破裂しそう。世のカップルは、こんなのいつもしてるのか。凄い。寿命が縮んでしまいそうだ。
押しつけるとそれだけ胸もぎゅうっとして、愛しくてたまらなくなる。
キスひとつで世界が変わる。現実では有り得ないって思ったけど、今の心境はまさにソレ。
「さ、酒井……」
もう一度押しつけるようにすると、檜垣くんがぼくの身体を押し返した。
「なんか変だった?」
「心臓がヤバイ……」
「ふはっ」
「わ、笑うなよ!」
「いや。今ぼくもおんなじこと考えてたから」
気持ちを共有できることが、凄く嬉しい。
檜垣くんはイケメンで慣れてそうに見えるから、よけいにそう思う。
世界が変わった気がした? って訊きたかったけど、さすがに恥ずかしすぎてやめた。
「良かった。酒井が嫌じゃなくて」
「なんで。ぼくのほうがしたがってたと思うけど?」
「そんなことない。オレのほうが思ってる。隙あらばと」
「……そうなんだ」
「大変なことを白状してしまった」
檜垣くんがカーッと赤くなった。ぼくもさっきこんな感じだったのかな。
「なら、今も? もう一回したいとか思ってる?」
「今は……心臓が口から出る……」
可愛いな。お互い初めてだけど、この差はそのまま、愛情の差なのかも。檜垣くんは相当ぼくのことが好きってことなのかも。そう思うと、また胸がぎゅうっとした。
ここは……。ぼ、ぼくのほうが、頑張る、べき。いつもは檜垣くんのほうが、頑張ってくれてるんだから。
唇を押さえている檜垣くんの腕を掴んで、やや強引にキスをした。身体がびくりと跳ねたけど、おとなしく目を閉じた。ぼくのほうは目を閉じずにその様子をジッと観察してしまう。睫毛が震えているのとか、前髪がぼくに触れるのとか。恥ずかしそうではあるけど、嬉しそうなのとか……。
どうしよう。なんか止まんなくなってきた。
唇の隙間をそっと舌でなぞってみたけど、引き結ばれたまま迎え入れてはくれなかった。
まだ早いってこと……かな。でも……。あと、ちょっとだけ。
「少しだけ、深いキスしてみていい?」
「死ぬほど嬉しいし、してほしいけど、今だめだ……」
「心臓が出るから?」
「や、その……」
檜垣くんがもじもじと膝を擦り合わせたのを見て、ようやく気づいた。
なるほど。心臓じゃなく、別のものが。
「今日はカラオケじゃないし、君の家には誰もいないし、ダメな理由にはならなくない?」
「酒井、それは……」
ヤバイ。何を言ってるんだぼくは。最後までする覚悟もないくせに。なのに、気づいたら先を促すような台詞を吐いていた。
これが空気に飲まれるってヤツか。
あと、凄い不思議なんだけども、押してこられるより、だめって言われるほうがグッとくるというか……。もちろん本当に嫌なら悲しいけど、檜垣くんの場合そうではないし。
「さわるくらいなら、ぼくでもできると思う」
「オレは本当に、耐性ないんだよ。キスだけでいっぱいいっぱいなんだ」
「じゃあソレ、どうするの?」
檜垣くんは、ぼくの視線から隠すように両手を揃えて膝に乗せた。
「じっとしてたら、おさまるから……」
この前は女装姿でガッツポーズまでしてみせたのに、今日は妖しい雰囲気が抜けない。
キスをしたあとだ。しかも、お互い初めてで。そう簡単には切り替えられない。
「檜垣く……」
階下で玄関の開く音がして、伸ばしかけていた手を引っ込める。
外部からの音で更に気分が高まるような玄人向けの感情を、ぼくも檜垣くんも持ち合わせてはいなかった。漂っていたピンク色の空気は、あっという間に霧散した。
足音はどうもこの部屋に向かっているように聞こえる。
「……華さんかな?」
「多分」
よかった、変なことしてなくて。
「びっくりしすぎて、おさまった」
「まあ、ひゅんっとするよね。わかる」
心臓のドキドキはおさまらないし、なんならさっきとはまた少し違うドキドキなんだけど。
足音が、部屋の前で止まって今度は扉を叩く音がした。
「耀、いる?」
きちんとノックしてくれるだけ、優しいお姉さんだ。うちとは大違い。
「うん。酒井来てるけど」
「開けても平気?」
でもその確認は、なんかちょっと気恥ずかしい。
やっぱり公認なのか……?
檜垣くんが視線でお伺いを立ててきたのでコクリと頷いた。
「うん。平気」
そして華さんが入って……。
「え、華さん!?」
めっちゃギャルなんだけど。つけまつげバサバサ。
見た目だけなら誰? って感じ。
「そう! このメイク、凄い不評だった! これどうやって落とすの? 睫毛が……」
「檜垣くん、練習台にしたんだ……」
「凄い上手くできたと思ったんだけど」
「耀が可愛い可愛いって言うから、信じて大学へ行ったのにー」
お姉さんも素直なんだな……。顔は似てないのに、似たもの姉弟だ。
それにしても、過去の話を聞いているだけに、檜垣くんが華さんのことを可愛いって言うのはちょっとモヤっとしてしまう。
「やっぱり、華さんと檜垣くん似てるね」
思ったままを言ったけど、少し牽制も入ったかもしれない。姉弟なんだぞって。
でも華さんは目をぱちくりさせたあと、嬉しそうに笑った。
「ふふ。そう言ってくれたの、直哉くんで二人目だよ。いつもは似てない姉弟ねって言われるから。一人目は貴方のお姉さんね」
「そ、そうなんですか」
「ところで、率直に言って直哉くんはこのメイク、どう思う?」
檜垣くんの背がピンと伸びた。
ある意味彼の『作品』を批評するようなものだから、緊張するのも当然だろう。
褒めることは簡単だけど、ここは正直に……。
「華さんには似合ってないと思います。なんというか、檜垣くんは……こう、メイクの技術ばかり追ってて、全体的な雰囲気が見えてない気がする。よくわからないけど、仕事にするならその時の服とかに合わせてメイクするんじゃないかなって」
檜垣くんは酷く衝撃を受けた顔してた。
「確かに……メイクするのが楽しくて、他を考えてなかった……」
「むしろ耀、特殊メイクとかそっちのほうが性にあってるんじゃない?」
「……そうかも」
相変わらず檜垣くんも素直だ。
弟は基本、姉には逆らえないからわかる気はするんだけど……。ぼくが何かを言った時より素直な感じなのはいただけない。
「あっ。ごめんね、二人共。せっかく遊んでたのに邪魔しちゃって」
「いや。オレのせいだし……」
確かにこれは檜垣くんが悪いな。華さんは犠牲になったのだ……。そして一歩間違えばこれはぼくの姿だったし、いつかきっとぼくも、される。その時は特殊メイクかもしれないけど。むしろそっちのがありがたいかな……。
まあ、でもなんというか。邪魔されて残念な気持ちもあるけど、ホッとしてもいる。覚悟もなく本能のまま押し切ったら絶対に後悔したと思うから。むしろタイミング良かったというべきかも。
「檜垣くん。ぼく、そろそろ帰るよ」
「えっ!? 私が帰ってきたから!?」
「酒井……」
姉弟揃って、泣きそうな顔をしている。
確かに華さんのせいでないとは言いきれないけど……。自分がさっきまで檜垣くんに何をしようとしていたか思い出すと恥ずかしすぎて気まずいから、仕切り直したい。できれば日を改めたほうがいい。それになんかモヤモヤしてるし、このまま残っていたら絶対にろくなことにはならない。今日のところはファーストキスの綺麗な思い出だけで終わっておきたい。
「元々そんなに長居する予定はなかったんだ」
「待っ……、せめて送っていくから! 姉さん、悪いけどそのままもう少し待ってて」
「もちろん。直哉くん優先で大丈夫だから」
華さんはニコニコ笑いながら、手を振った。
しばらくあのメイクのままでいなきゃいけないのか、悪いなあと思う反面、檜垣くんがぼくを優先したことが嬉しかった。
祝福してくれてそうな華さんに対して、ぼくはなんて意地の悪い。自己嫌悪だ。
ぼくは檜垣くんと連れ立って家を出た。
送るって言っても車が運転できる歳でもないし、並んで歩くだけなんだけど。
「あのさ、華さんにぼくたちのこと、話してるの?」
「ああ。うん、相談した……。ごめん、ダメだったかな?」
あまり少女漫画読んだことなさそうな檜垣くんがやたら詳しい感じするから、そうだろうと思ってはいた。知ってる割に、ぼくとの話題に漫画の内容は振ってこないし。
でも檜垣くんに知識を授けるなら、教室で突然抱きしめたりしたら嫌われるみたいな常識も教えてあげてほしかった。
まあ、結局今こうなってるんだから結果オーライではあるのか……?
「いや。仲いいなーと思っただけ」
華さんのことは過去になってるとは思うんだけど、可愛いって言ったり仲良さそうなところを見るとイラッとする。
「もしかして、酒井……。嫉妬してる? 相手は姉なのに?」
……そうか。ぼく、妬いてるんだ。檜垣くんが熱にうなされて華さんを呼んだ時も、こんな感情を味わった。あの時は自分の気持ちがよくわかってなかったし、子供みたいな独占欲なんだと思ってたけど。これはまぎれもなく嫉妬だ。
否定したら、檜垣くんはきっとガッカリする。また素直に信じるだろうし。
「愛しそうに姉さんとか呼んでたくせに、よく言うよ。メイクとかしてあげてるし、仲睦まじい感じするし。そんなの普通に妬くだろ」
さらりと答えるはずが、思った以上に不満が募っていたらしい。感情をぶちまけてしまった。自分でも拗ねた口調になったのがよくわかる。
さすがにカッコ悪い。檜垣くんも幻滅したかなと思って顔を見ると、イケメン五割増くらいにキラキラしていた。
「……どうしよう。死ぬほど嬉しい。オレ、思ったよりも酒井に好かれてるんだ」
「好いてなかったらキスなんてしませんけどー」
「単なる好奇心かもって。だから、本当に……嬉しい……」
今日も夕陽がぼくたちを照らしている。ぼくはこのシチュエーションに、滅法弱いらしい。
檜垣くんの頬は夕焼け色に染まり、瞳も潤んでて、そこにはぼくしか映ってない。さっきのキスの余韻が頭を掠める。
気づけば壁ドンして、その唇を奪っていた。
前に檜垣くんにされた時は、ご近所さんの目があるのにコイツ頭がおかしいのか? とまで思ったのに、その上をいく行動を自分が起こしてしまうとは。信じられない。
でも。愛しいって思ってしまったんだ。今すぐにキスがしたいって。
きっと今、ぼくの頬も見事な色に染まっていることだろう。
檜垣くんはどうも付き合えただけで満足してしまってる節がある。これでいいのかなと思いはするけど、ぼくにとっては初めてのオツキアイで初めての恋人なので、それに甘えさせていただいてる。
でも、お昼は一緒に食べるし、登下校も大体一緒。
甘い空気も流れてなくはない……気がするけど、キスにすら至らない。
なのに突然『今日、酒井のヒロインにしてほしい』とか言う爆弾発言をかまされた。
据え膳? ヒロインにしてって、抱いてみたいな意味? 思ったよりも早く仕掛けてきた! と身構えたけど……。
「どうしたの? 酒井クン」
「ははは……」
単に女装して放課後デートするってオチだった。
さすがにマックでは、そういう展開になりそうにはない。
きっとぼくが少女漫画好きだから、ピュアな感じに関係を進めようとしてくれているのだ……。
よほど微妙そうな顔をしていたのか、檜垣くんは少し不安気にしている。
相変わらず、裏声成長しないなー。服もセーラー服にコートだし。
なのに整えられた指先とか、メイクは凄く上手くなってる気がする。今日なんてマスクしてないのに、ちゃんと女の子に見えるし。
思わずまじまじ見ると、檜垣くんが頬を染めた。
「何?」
「化粧上手くなった気がして」
「わかる? ハマっちゃって……」
「女装に?」
「いや、化粧自体にかな。少し変えただけで顔が変わるのが面白くて。将来こっちの道に進めないかな……」
「オカマに?」
「……わかってて言ってるでしょ、酒井クーン」
口にポテトを押し込まれた。
ぼくがキッカケで進路に影響を与えてしまうとは。
でも思えば……檜垣くんの家に行ったとき、メイク道具はガチに揃えてたけどかかってる服はセーラーだけだったな。
デートの時のウィンドウショッピングも、ぼくにあう服を楽しそうに見繕うだけで女性服にはさほど興味がなさそうだった。
勉強もそうだけど、檜垣くんはコレと決めるとひたすら突き進むタイプなのかもしれない。
「もちろん、これで酒井をおとせるなら嬉しいけど」
「もうおちてるだろ。つ、つき、あってるんだから」
思わず声が裏返った。ぼくが裏声になってどうする。
でもこういうこと言ってくるってことはだ。やっぱり少しも恋人同士として進展しないのを気にしてるんだろう。
「その、ごめん。ぼく、付き合うとか初めてだから、そういうの上手くなくて……。なんか不安にさせてる?」
「ええと。いや、あの……。ごめん。オレも初めてだから、ぎこちなくて。嬉しいのにどうしたらいいかわからなくて、女装に頼ってしまってるし」
「えっ? 初めてって、嘘だろ? あ。男と付き合うのがって意味?」
「こ、恋人自体がだよ。別におかしくないだろ、まだ高校生なんだから」
「だって檜垣くん、モテるし」
まさか女の子とも付き合ったことないなんて、想像できなかった。
確かにピュアそうな感じはしてたけど、それはヒロインを演じてるからだとばかり。
「でも好きになる人は既婚者だったり、やたら歳が離れてたり、他に好きな人がいたりで、叶わないんだよ。誰に相談しても諦めなよって言われるし」
相談にのったのが女の子なら……諦めて私を見てよ。ってとこか。想像つく。
「酒井が初めてだったんだ。オレに、諦めるなって言ってくれたの。嬉しかった」
少女漫画的な展開を見たいっていう下心つきでのあの台詞が、そんなに刺さっていたとは。
恋を応援したくらいで好きになるなんて、ちょろすぎにもほどがあるだろって思ってたけど……檜垣くんにとっては重い言葉だったのかもな。
そもそも檜垣くん、男の友達自体ぼくが初めてみたいな感じだもんなー。特別になってもおかしくはないか
「対象が自分になった途端、手の平返すように諦めてよなんて言っちゃったけどね」
「それはまあ、酒井に応える気がなかったんだから仕方ない。でも諦めなくて良かった。本当に、オレと付き合ってくれてありがとう」
好きになってくれて、じゃないんだ。
……大切にしよ。
なんというか。付き合い始めてから、檜垣くんがますます可愛く見える。身体的に進展してないだけで、心的には少しずつ近くなってるとは思う。
ぼくに抱かれたいって言ってたし、やっぱり手を出されるのを待っているのかな。
でも勃たなかったら傷つけちゃいそうだしなー。下手に手は出せない。
「ぼくが付き合いたいから付き合ってるんだし、檜垣くんがお礼言うことでもないだろ」
「うん、そうだな」
檜垣くんはデレッとした顔で、シェイクを啜った。ピンク色の唇をすぼめて、中の液体を吸い上げていく。
……キス、くらいは。してみたい、ような気もする。
「さ、酒井、あの。今日うち家族いないし、姉さん帰ってくるの遅いんだけど……。遊びに来ないか?」
「え」
「嫌ならいい。ただどうしても、酒井にしたいことがあって……。相談もあって」
なんの相談だろ。それに、したいことって。き、キスとか? まさかその先? ヒロインにしてって、本当にそういう意味だった?
握った手に汗が滲む。体温が下がるような気がした。
身体が熱くなるのではなく血の気が引くなら、ぼくにはまだその覚悟がないってことなんだ、きっと。
でも、檜垣くん。君、自分じゃ気づいてないかもしれないけど……。嫌ならいいって顔してない。断ったらめちゃくちゃへこんで泣きそう。
同情なんだろって、頭の隅で声が聴こえた気がした。
「行く」
躊躇ったのは一瞬だった。覚悟はなくても、泣かせたくない気持ちが上回った。
それに、キスならぼくもしてみたいと思ってるから、とりあえず進展にはなるし……。その先が無理そうなら、まだ待ってほしいと素直に告げればいい話。
たったキスひとつでも、何かが変わるかもしれない。檜垣くんも、そういう気持ちを込めてぼくを誘ったのかもしれない。
行くと頷いたぼくに、檜垣くんはとっても嬉しそうな顔をした。
ぷるんとしたピンク色の唇も可愛いけど、拭ってもらってウィッグも外してもらって、いつもの君とキスをしよう。そう決めた。
久しぶりの、檜垣くんの家だ。前に来た時はお見舞いだったし、恋人関係でもなかったからやたら緊張する。
先に部屋に上がっててと言われ、中に入ると。
「うわ……」
メイク道具、この前より増えてるし。
勉強机では足りず、鏡台まで置かれてる。もちろんその上にも新たな道具が。あとはなんかわからない瓶とか。姉ちゃんですらこんなに持ってない。
将来仕事にしたいって、アレ本気だったんだ。さすがにここまでくれば、引くより先に凄いとしか思わない。
でもあんなに勉強できるのに、なんだか勿体無い気もしてしまう。檜垣くんを見る限りでは、まあ、才能ありそうだけど……。
いつも部屋で、化粧してるのかな。そう思うと、なんだかドキドキした。
あと、やっぱり……ベッドに目がいってしまう。そりゃあ、この前と違って友人の部屋ではなく、恋人の部屋なわけだし? 多少は、こう。いつかはここで抱き合うこともくるのかなとか。健全な男子高校生なら考がえてしまうのが普通だ。
部屋の真ん中にはクッションが置いてあったので、迷わすそこに座った。この前はなかったから、今日は誘うつもりで用意していたんだろう。
「お待たせ」
檜垣くんがオレンジジュースを乗せたお盆を抱えて入ってきた。
グラスに、切ったオレンジが刺さっている。
「ああ、これ。この前カラオケで見て可愛かったから、酒井がうちに来たらこうして出そうと思ってたんだ」
何気に女子力高くない? それとも、そうあるように振る舞ってるのか。
檜垣くんはぼくの前にお盆を置いて、寄り添うように座った。
「それで、相談なんだけど……」
「待った。その前に化粧を落としてほしい」
「それじゃヒロインらしくない」
「いや、別に家ではいいだろ」
「酒井こそ、そんなに拘らなくても」
その姿の時に手を出したら『オレが女装してたから酒井がシタイって思ってくれたんだ!』とか、思い込むだろ、絶対に……。
それに薄いとはいえ、匂いのするリップよりちゃんと唇にキスしたいっていうか。
じーっとねだるように檜垣くんを見ていると、目を逸らして俯いてしまった。
「わ、わかった……」
なんか勝った気がする。
でもこれ、素顔の君と一緒にいたいんだ、とか言うべきだった?
……想像してみたけど、かなり無理。
「落としてくるから待ってて」
檜垣くんはそう言って部屋を出た。
喉が凄く乾いていたので、持ってきてくれたジュースを飲む。かなり、濃くて美味しい。搾ったやつかもしれない。
ぼくが飲み終わる前に、檜垣くんが戻ってきた。思ったよりも早い。ウィッグも外してセーラー服も脱いで、いつもの制服だ。
今度も寄り添うように座ってくるかなと思ったのに、少し間をあけて座った。一人分の隙間が酷く不自然に感じた。
この距離は、そのまま心の距離を表しているような気がする。
かと言って、もっとこっちに来いよ、と言えるはずもなく。
「それで、相談なんだけど……」
さっきの話が再開された。今度はきちんと頷く。
「メイクの練習がしたくて」
相談内容は、思ってもみないことだった。ぼくにしたいことがあるって言ってた上での、この流れ。答えはひとつしかない。
「顔をかしてほしい」
「そんな、これから喧嘩売るみたいな言い方」
女装してほしいっていう趣味全開なお願いだったら、即断ってた。でも……将来そういう仕事に就きたいって話を聞いてからのコレは狡い。
「一回させてもらえたら、すぐに落とすから。メイク落としシートも用意してる」
「う、うーん。今日はちょっと」
抵抗あるけど、檜垣くんのお願いを叶えてあげたい気持ちもある。ただ、ここでぼくがメイクをされてしまうと、化粧を落としてきてもらった意味がないというか。
つまりその。ぼくは自分の想像以上に、キスをしたいと思っていたらしい。
断る理由の大部分が、メイクをされたあとでそんな気分になれそうにないから、というものだ。
そんなぼくの気を知らない檜垣くんは、目に見えてガッカリした。
「今度はさせてあげるから。約束」
「本当か?」
「うん……」
でもまいったな。キスできるような雰囲気にならない。
てっきり、相談とかしたいことってそっち方面だと思ってたから……自分から仕掛けることを、全然考えていなかった。
ここで男らしく押せる性分なら、少女漫画的ラブロマンスのひとつやふたつくらい経験してる。
これならいっそ、メイクぐらいさせてあげたほうがいい感じで終われるのでは。
ただなあ……。女装しながらのファーストキスとかになったら、絶対に立ち直れない……。
「ごめん。そんなに困らせるつもりじゃなかった。オレが将来仕事にしたいとか言ったから、気を遣ってくれたんだよな」
「そうじゃなくて、キスを」
反射的に思ってることを口に出してしまった。慌てて塞いだけど、もう遅い。
「ごめん! 今すぐ女装してくる!」
「待て待て待て。なんでだよ!」
「だって、せっかく酒井がその気になってくれたのに」
「それじゃメイク落としてきてもらった意味がないだろ!」
「えっ?」
あああー。恥ずかしさで死ねる。こんなの、もうさっきからそんなことで頭がいっぱいだって白状したようなものじゃん! ロマンスの欠片もありゃしない。
檜垣くんは頬を染めたあと、緊張で乾いた喉を潤すかのようにオレンジジュースを飲んだ。
「れ、レモンじゃなくて、オレンジの味でよければ……。酒井とキスがしたい」
自分からしてくるんじゃなく、目をつぶって待ってくれた。
ぼくが、そういうのが好きだって知ってるから。
今の檜垣くんは男の姿だけど。でも、充分、ヒロインだ。
檜垣くんの動作ひとつで空気が変わる。イケメンはその場の雰囲気までアッサリ変えてくるから恐ろしい。
今日はソレに……感謝、するけど。
ぼくのファーストキスは、瑞々しいオレンジの味だった。
唇、思ったよりも柔らかい。いい匂いがする。
ああ、オレンジか……。吸ったらもっと、甘いのかな。
心臓が破裂しそう。世のカップルは、こんなのいつもしてるのか。凄い。寿命が縮んでしまいそうだ。
押しつけるとそれだけ胸もぎゅうっとして、愛しくてたまらなくなる。
キスひとつで世界が変わる。現実では有り得ないって思ったけど、今の心境はまさにソレ。
「さ、酒井……」
もう一度押しつけるようにすると、檜垣くんがぼくの身体を押し返した。
「なんか変だった?」
「心臓がヤバイ……」
「ふはっ」
「わ、笑うなよ!」
「いや。今ぼくもおんなじこと考えてたから」
気持ちを共有できることが、凄く嬉しい。
檜垣くんはイケメンで慣れてそうに見えるから、よけいにそう思う。
世界が変わった気がした? って訊きたかったけど、さすがに恥ずかしすぎてやめた。
「良かった。酒井が嫌じゃなくて」
「なんで。ぼくのほうがしたがってたと思うけど?」
「そんなことない。オレのほうが思ってる。隙あらばと」
「……そうなんだ」
「大変なことを白状してしまった」
檜垣くんがカーッと赤くなった。ぼくもさっきこんな感じだったのかな。
「なら、今も? もう一回したいとか思ってる?」
「今は……心臓が口から出る……」
可愛いな。お互い初めてだけど、この差はそのまま、愛情の差なのかも。檜垣くんは相当ぼくのことが好きってことなのかも。そう思うと、また胸がぎゅうっとした。
ここは……。ぼ、ぼくのほうが、頑張る、べき。いつもは檜垣くんのほうが、頑張ってくれてるんだから。
唇を押さえている檜垣くんの腕を掴んで、やや強引にキスをした。身体がびくりと跳ねたけど、おとなしく目を閉じた。ぼくのほうは目を閉じずにその様子をジッと観察してしまう。睫毛が震えているのとか、前髪がぼくに触れるのとか。恥ずかしそうではあるけど、嬉しそうなのとか……。
どうしよう。なんか止まんなくなってきた。
唇の隙間をそっと舌でなぞってみたけど、引き結ばれたまま迎え入れてはくれなかった。
まだ早いってこと……かな。でも……。あと、ちょっとだけ。
「少しだけ、深いキスしてみていい?」
「死ぬほど嬉しいし、してほしいけど、今だめだ……」
「心臓が出るから?」
「や、その……」
檜垣くんがもじもじと膝を擦り合わせたのを見て、ようやく気づいた。
なるほど。心臓じゃなく、別のものが。
「今日はカラオケじゃないし、君の家には誰もいないし、ダメな理由にはならなくない?」
「酒井、それは……」
ヤバイ。何を言ってるんだぼくは。最後までする覚悟もないくせに。なのに、気づいたら先を促すような台詞を吐いていた。
これが空気に飲まれるってヤツか。
あと、凄い不思議なんだけども、押してこられるより、だめって言われるほうがグッとくるというか……。もちろん本当に嫌なら悲しいけど、檜垣くんの場合そうではないし。
「さわるくらいなら、ぼくでもできると思う」
「オレは本当に、耐性ないんだよ。キスだけでいっぱいいっぱいなんだ」
「じゃあソレ、どうするの?」
檜垣くんは、ぼくの視線から隠すように両手を揃えて膝に乗せた。
「じっとしてたら、おさまるから……」
この前は女装姿でガッツポーズまでしてみせたのに、今日は妖しい雰囲気が抜けない。
キスをしたあとだ。しかも、お互い初めてで。そう簡単には切り替えられない。
「檜垣く……」
階下で玄関の開く音がして、伸ばしかけていた手を引っ込める。
外部からの音で更に気分が高まるような玄人向けの感情を、ぼくも檜垣くんも持ち合わせてはいなかった。漂っていたピンク色の空気は、あっという間に霧散した。
足音はどうもこの部屋に向かっているように聞こえる。
「……華さんかな?」
「多分」
よかった、変なことしてなくて。
「びっくりしすぎて、おさまった」
「まあ、ひゅんっとするよね。わかる」
心臓のドキドキはおさまらないし、なんならさっきとはまた少し違うドキドキなんだけど。
足音が、部屋の前で止まって今度は扉を叩く音がした。
「耀、いる?」
きちんとノックしてくれるだけ、優しいお姉さんだ。うちとは大違い。
「うん。酒井来てるけど」
「開けても平気?」
でもその確認は、なんかちょっと気恥ずかしい。
やっぱり公認なのか……?
檜垣くんが視線でお伺いを立ててきたのでコクリと頷いた。
「うん。平気」
そして華さんが入って……。
「え、華さん!?」
めっちゃギャルなんだけど。つけまつげバサバサ。
見た目だけなら誰? って感じ。
「そう! このメイク、凄い不評だった! これどうやって落とすの? 睫毛が……」
「檜垣くん、練習台にしたんだ……」
「凄い上手くできたと思ったんだけど」
「耀が可愛い可愛いって言うから、信じて大学へ行ったのにー」
お姉さんも素直なんだな……。顔は似てないのに、似たもの姉弟だ。
それにしても、過去の話を聞いているだけに、檜垣くんが華さんのことを可愛いって言うのはちょっとモヤっとしてしまう。
「やっぱり、華さんと檜垣くん似てるね」
思ったままを言ったけど、少し牽制も入ったかもしれない。姉弟なんだぞって。
でも華さんは目をぱちくりさせたあと、嬉しそうに笑った。
「ふふ。そう言ってくれたの、直哉くんで二人目だよ。いつもは似てない姉弟ねって言われるから。一人目は貴方のお姉さんね」
「そ、そうなんですか」
「ところで、率直に言って直哉くんはこのメイク、どう思う?」
檜垣くんの背がピンと伸びた。
ある意味彼の『作品』を批評するようなものだから、緊張するのも当然だろう。
褒めることは簡単だけど、ここは正直に……。
「華さんには似合ってないと思います。なんというか、檜垣くんは……こう、メイクの技術ばかり追ってて、全体的な雰囲気が見えてない気がする。よくわからないけど、仕事にするならその時の服とかに合わせてメイクするんじゃないかなって」
檜垣くんは酷く衝撃を受けた顔してた。
「確かに……メイクするのが楽しくて、他を考えてなかった……」
「むしろ耀、特殊メイクとかそっちのほうが性にあってるんじゃない?」
「……そうかも」
相変わらず檜垣くんも素直だ。
弟は基本、姉には逆らえないからわかる気はするんだけど……。ぼくが何かを言った時より素直な感じなのはいただけない。
「あっ。ごめんね、二人共。せっかく遊んでたのに邪魔しちゃって」
「いや。オレのせいだし……」
確かにこれは檜垣くんが悪いな。華さんは犠牲になったのだ……。そして一歩間違えばこれはぼくの姿だったし、いつかきっとぼくも、される。その時は特殊メイクかもしれないけど。むしろそっちのがありがたいかな……。
まあ、でもなんというか。邪魔されて残念な気持ちもあるけど、ホッとしてもいる。覚悟もなく本能のまま押し切ったら絶対に後悔したと思うから。むしろタイミング良かったというべきかも。
「檜垣くん。ぼく、そろそろ帰るよ」
「えっ!? 私が帰ってきたから!?」
「酒井……」
姉弟揃って、泣きそうな顔をしている。
確かに華さんのせいでないとは言いきれないけど……。自分がさっきまで檜垣くんに何をしようとしていたか思い出すと恥ずかしすぎて気まずいから、仕切り直したい。できれば日を改めたほうがいい。それになんかモヤモヤしてるし、このまま残っていたら絶対にろくなことにはならない。今日のところはファーストキスの綺麗な思い出だけで終わっておきたい。
「元々そんなに長居する予定はなかったんだ」
「待っ……、せめて送っていくから! 姉さん、悪いけどそのままもう少し待ってて」
「もちろん。直哉くん優先で大丈夫だから」
華さんはニコニコ笑いながら、手を振った。
しばらくあのメイクのままでいなきゃいけないのか、悪いなあと思う反面、檜垣くんがぼくを優先したことが嬉しかった。
祝福してくれてそうな華さんに対して、ぼくはなんて意地の悪い。自己嫌悪だ。
ぼくは檜垣くんと連れ立って家を出た。
送るって言っても車が運転できる歳でもないし、並んで歩くだけなんだけど。
「あのさ、華さんにぼくたちのこと、話してるの?」
「ああ。うん、相談した……。ごめん、ダメだったかな?」
あまり少女漫画読んだことなさそうな檜垣くんがやたら詳しい感じするから、そうだろうと思ってはいた。知ってる割に、ぼくとの話題に漫画の内容は振ってこないし。
でも檜垣くんに知識を授けるなら、教室で突然抱きしめたりしたら嫌われるみたいな常識も教えてあげてほしかった。
まあ、結局今こうなってるんだから結果オーライではあるのか……?
「いや。仲いいなーと思っただけ」
華さんのことは過去になってるとは思うんだけど、可愛いって言ったり仲良さそうなところを見るとイラッとする。
「もしかして、酒井……。嫉妬してる? 相手は姉なのに?」
……そうか。ぼく、妬いてるんだ。檜垣くんが熱にうなされて華さんを呼んだ時も、こんな感情を味わった。あの時は自分の気持ちがよくわかってなかったし、子供みたいな独占欲なんだと思ってたけど。これはまぎれもなく嫉妬だ。
否定したら、檜垣くんはきっとガッカリする。また素直に信じるだろうし。
「愛しそうに姉さんとか呼んでたくせに、よく言うよ。メイクとかしてあげてるし、仲睦まじい感じするし。そんなの普通に妬くだろ」
さらりと答えるはずが、思った以上に不満が募っていたらしい。感情をぶちまけてしまった。自分でも拗ねた口調になったのがよくわかる。
さすがにカッコ悪い。檜垣くんも幻滅したかなと思って顔を見ると、イケメン五割増くらいにキラキラしていた。
「……どうしよう。死ぬほど嬉しい。オレ、思ったよりも酒井に好かれてるんだ」
「好いてなかったらキスなんてしませんけどー」
「単なる好奇心かもって。だから、本当に……嬉しい……」
今日も夕陽がぼくたちを照らしている。ぼくはこのシチュエーションに、滅法弱いらしい。
檜垣くんの頬は夕焼け色に染まり、瞳も潤んでて、そこにはぼくしか映ってない。さっきのキスの余韻が頭を掠める。
気づけば壁ドンして、その唇を奪っていた。
前に檜垣くんにされた時は、ご近所さんの目があるのにコイツ頭がおかしいのか? とまで思ったのに、その上をいく行動を自分が起こしてしまうとは。信じられない。
でも。愛しいって思ってしまったんだ。今すぐにキスがしたいって。
きっと今、ぼくの頬も見事な色に染まっていることだろう。
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