その身を賭けろ

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 人通りのある場所へ出て、安堵の息をもらす。歩いている人はまばらだが、誰もいなかった公園に比べれば安全だ。

「巻き込んで悪かったな」
 
 巻き込まれたことが嬉しかったと言ったら、葉月はどんな顔をするだろう。さすがに言えるわけもなく、無難な答えを探す。
 
「……別に」
 
 頭で他のことを考えている時に、気の利いた台詞なんて浮かんでこなかった。

「やっぱボディーガードだから、こういうの慣れてるカンジか?」
「まあ、それなり」

 葉月こそケロッとしていて、慣れてるのかと聞きたくなる。
 旭ならともかく、普通は慣れているほうがおかしいのだが……。

「じゃ、予定通り喫茶店へ行こうか。先約の旭クン?」

 そうイタズラっぽく笑って、葉月が身を翻す。
 巻き込んで悪かったと言う割にはまったく悪びれていない。

 公園の出口から軽く裏手に入ったところに、葉月の行きつけががあった。隠れた名店などという感じでもなく、ごく普通に人が出入りしている。けれど、そう混んでいるわけでもない。一般的なチェーン店で、お財布の中身的にも安心だ。
 中へ入って葉月がベーコンチーズサンドを注文し、旭はパスタを頼む。飲み物は二人とも示し合わせたようにアメリカンコーヒー。

 食前に運ばれてきたお代わり無料のコーヒーを啜りながら、旭はジッと葉月を見た。
 
「その……あいつ、葉月のこと、友人だって言ってたけど」 
「……事実だよ。面白いヤツだったからな。ただ、そんなに長くも深くもない付き合いだ。二人だけで過ごした時間なら、お前のが多いくらい」
「そう、なんだ……」
「あ、今、嬉しいとか思ったろ」
 
 まさに思っていたが、ちゃかされると素直に頷けなくなる。
 
「思ってない。話を逸らさないでくれ」
 
 そう強がってはみたものの、葉月が嬉しそうにニコニコしているのを見ると、つられて笑いそうになる。凄腕のギャンブラーは、ことのほか機嫌がよいらしい。
 
「で、話の続きは」
「えー。まだ話すのかよ、これ」
「そんなに話したくないなら、別にいいけど」
「……知りたい?」
 
 葉月が肘をつきながら、旭を上目遣いに見て首を傾げる。まるで愛の言葉でもねだるような響きに、言わなくていいことまで言いそうになる。 
 
「ボディーガードをする身としては、知りたいかな……」
 
 本当はそんなもの関係ない。純然たる興味だ。
 友人だった夜西が、ストーカーになった経緯を、知りたかった。
 
「そんな面白いハナシでもないが」
 
 そう前置きをしてから、葉月が話し出す。
 
「初めは当たり障りなくさ、友人として会話とかかわしてて。あ、カジノとかでな? ある日、おれの家に来たいとか言うワケ。童貞でストレートとか、からかうにはもってこいだ。胸板触らせてくれるならなってジョーケン出して家に誘い込み、ちょっとからかってやるか、みたいな……で」
 
 そこで言いにくそうに口ごもってしまった。が、だいたい予想はついた。
 
「俺にしたようなことを、した?」
「あー……まあ。でも、絶対に男にキョーミなさそうだったんだよ」
 
 旭は大きな溜息をついた。
 それで結果襲われていれば世話はない。葉月の悪癖もたいがいだが、正直、聞いていて耳が痛かった。まったく同じではなくとも、似たような道を歩んでいることが。
 このまま葉月に惹かれ、手を出そうものなら友人としての縁はあっさりと切られ、話しかけようとすればストーカー扱いをされる。夜西とは違い身を引けばそうはならないが、葉月に避けられて追いかけないでいられる自信はあまりない。
 
「それにさ、おれが女だとしてムリヤリなんて尚更よろしくない。違うか?」
「違わない。でも、葉月のあれは誘ってるととられても仕方ない、と思う」
「相手はノーマルな男なのに? 普通はお前みたいな反応するだろ?」
 
 確かに初めは引いた。ドン引きだった。けれど今あの日と同じことをされたら、きっと違う反応をする。
 男とナニをするだとか、そういう性癖は旭にはなく、未だ葉月に対してもどうしていいかわからない。ただ、気持ち悪いと思うことはなく、愛しく嬉しく想い、ギュッと抱きしめてしまうと思うのだ。
 冷たい手の平を思う存分触り、櫛通りの良さそうな髪を撫でる。隙間なく肌をあわせ、キスくらいはしたくなるだろう。
 それに実際、もうキスは済ませている。正確には舌を吸われただけで、唇は触れ合ってはいないが。
 あの時も特に嫌悪感はなかった。けれど今は、思い返すと舌が甘くジンと痺れるような気さえする。
 
「そうだな。確かにゲイじゃない普通の男なら、引くと思う。でも、ノーマルでも……。あんな……行動とられたらさ」
「そういうもんか……」

 薄暗い窓の外に移された葉月の視線を追うが、そこにはただ闇が広がっているだけだった。
 
「やっぱ、おれが悪いのかな」
「決め付けるのも、よくないとは思うけど」
「でも、一度や二度じゃないんだよな。友達だった相手に、こう……押し倒されたりするの」
「そ、そんな何度も?」
「まあ、少なくともお前よりは、長いこと生きてるし?」
 
 あと何年生きたところで、そんな機会が何度も訪れるとは思えない。
 葉月が悪いとは言わないが、彼の人を引き付ける力が強いのは確かだ。まるで誘蛾灯のように、様々なものを、感情を引き寄せる。
 
「だから……あまり、人は信用しないことにしてる。おれの場合カネ絡みもあるし」
「……お、俺のこと、は?」
 
 尋ねた旭に、葉月が寂しそうな笑顔を見せる。何故そんなに寂しそうに笑うのかわからなかった。
 テーブルに置いた手に冷たい手がそっと重ねられ、身体が跳ねる。奪われた体温を補って余りあるくらい、熱くなっていく。
 
「なぁ。お前も、おれを裏切る?」
 
 そして今度は、芯から冷えた。
 旭は黙り込んだ。嘘やごまかしを言うのは簡単だ。それが葉月に通じないとしても。
 裏切るつもりはない。そういった行為を葉月に強要するつもりもない。だが、想うことだけでも、彼にとってはそうなるのかもしれない。
 しかし、葉月は男の胸板を撫でて喜んだり、風呂に入りたがったり、自分から股間に尻を押し付けてくる男だ。それを考えればかなりの範囲、友情で許される気もする。
 今だってこうして手を握ってくるくらいだ。
 
「わからない」
 
 けれど旭は、正直にそう答えてしまった。
 まさかそうくるとは思わなかったのか、葉月は一瞬目を見開き、そのあと机に突っ伏して肩を震わせた。手は握られたままなので振動が伝わってくる。
 ……声をころして笑っているようだ。
 
「くくっ……。そう答えるバカは、そういないぞ。じゃあお前、おれのこと襲うの?」
「そ、それはない。先のことなんて、誰にもわからないってこと!」
 
 少なくとも、無理矢理どうこうはありえない。むしろ、守りたい、大切にしたいと思う。一緒にいたいだけなのだ。
 
「人によってボーダーは違うと思うし、そういうのをつきつめていったら……」
「出た答えが、わからない、だったと」
「そう……」
 
 テーブルの上、なんだか密な雰囲気で手を握り合い談笑をしている男二人。その横でウェイトレスさんが話しかけるに話しかけられず、トレイを手にしたまま固まっていた。
 
「あ、あの、こちら……オーダー置いてもよろしいですか?」
 
 上から聞こえてきた声に、旭は葉月の手をばっと離して俯く。対する葉月は顔を上げ、優雅に微笑んだ。
 
「ありがとう」
「い、いえっ」
 
 クールで近寄りがたい雰囲気をしている葉月が笑うと、懐に入れてもらえたような気分になる。実際には受け入れる気などないのだからタチが悪い。本人が意識してやっているのかどうかはわからないが、下手な誤解を生みそうだ。

 自分にだけ、微笑んでくれたように、錯覚する。

 目の前の彼女も頬を赤らめて、葉月の整った顔にみとれている。
 この状況ならば男としては葉月に劣等感を抱くのが普通だが、旭はそれとは別の感情によっていらついた。
 
(俺以外に、そんなふうに笑わないでほしい、なんて……)
 
 重症だ。

 葉月の真意は相変わらず読めないのに手のうちばかりを見透かされ、暴かれていく。勝てないゲームに乗せられて盤上で躍らされているような気分になる。そしてそれが、嫌ではない。まるでギャンブルのようだ、と思う。
 
「パスタ、こっちで」
 
 オーダーをそのままに固まっているウェイトレスに横からそう促すと、慌てたように皿を旭の前に置いた。
 
「失礼しました。コーヒーのおかわりはいかがいたしましょう?」
「おれはいいや」
「俺も……」
 
 葉月にならい、旭も辞退する。ウェイトレスはぺこりと頭を下げてカウンターの向こうへ戻っていった。
 
「旭はカワイイな」
「は? 何言って……」
「カワイイ」
「なんか、子供扱いしてないか?」
「実際、結構離れてるしなー?」
「なー? って言われても、葉月の歳なんて知らない」
「そうだっけ?」
「そうだよ。わからないほうがミステリアスで素敵とか言って、教えてくれなかった」
「じゃあミステリアスなままにしておくかな」
「な、なんで?」
「そんな知りたい?」
「うん……」
 
 好きな相手のことならば、なんでも知りたいと思うもの。けれどなんとなく女々しいような気もして、照れ臭さもあって、旭はほとんど空のコーヒーカップを両手で掴んだまま、もじもじと視線を逸らした。
 
「歳なんてそんな気にすることじゃないだろ」
「なら別に、言うのもたいしたことじゃないだろ」
「……若く見えるのは自覚してるしな。なのに実際は割りとオッサンで、そのギャップが恥ずかしいというか」
「なんだそれ。葉月のが可愛い、じゃないか」
 
 冗談に濁して言ったものの、旭は心の中で密かに悶えていた。
 
「やめろ。オッサン相手に可愛いはない。それにお前が言うとなんかシャレにならない」
「可愛い、可愛い、可愛い」
「ガキか、バカ!」
「先に子供扱いしたのは葉月だろ」
 
 そんな、お互い子供みたいなやり取りをしながら、ゆっくりと食事を進める。
 食べ終われば、この楽しい時間も終わってしまう。そう思うと、ことさら箸が進まなくなる。パスタは伸びてしまいそうなので、葉月と同じようにサンド系にしておけばよかったと後悔した。
 
「でも、こんなふうに夕飯誘ってもらえるなら、今日も賭けておくんだったな」 
「え? なんの話?」
「どうせおれが勝つってわかってるギャンブルを何回も仕掛けるのも悪いかって、遠慮したんだぜ、これでも。お前もやろうって言ってこないし」
「……」
 
 どうやら、遠慮をしあっていたらしい。ただ、葉月の遠慮は些か失礼だ。旭が負けることが前提なのだから。

「俺も遠慮してたんだよ。だって俺にとって都合がよすぎる賭けだし」
「対価としてお前の時間を貰っているんだから、そうでもないと思うが?」
「どうせ自分が負けるはずがないって思ってるからだろ、それ……」
「ああ」
 
 ハッキリ肯定されたが、実際旭は葉月に一度も勝てた試しがない。だとしても、だ。
 
「でも俺としては嫌だったんだ。たかってるみたいで」
「それでこうして、奢るとか言い出したワケか」
 
 旭が頷くと、葉月は解せない、という表情をする。
 
「でもなぁ。ボディーガード代を含むとすれば、そこまででもないだろう? さっきみたいな、危険も待ち受けているんだ」
「確かに、初めのうちならそうだったかもしれない。でも今は……ダメだ」
「なんでだ?」
「葉月が勝ったら、俺にまた何か命じるよな?」
「もちろん」
「多分、そのうちの8割は俺も望んでしまったり、賭けなんてしてなくても叶えてしまうことだから」
「……真面目なヤツ」
「だって俺、葉月といたいから」
「……恥ずかしいヤツ」
「今のは俺も、言っててちょっとないなって思った」
 
 この話題は、いくら話しても平行線のままだろう。価値観の違いによるものでもあるから、答えはきっと出ない。

「でも、おれがいいって言ってるんだから、勝負はまたするだろ?」
「俺は葉月さえ勝負を望んでくれるなら、別に……。俺が勝つって可能性もあるんだから、変な遠慮の仕方はやめてくれよ」
「はいはい」

 これは間違いなく、可能性を考えていない顔だ。
 長引かせた食事もそろそろ終わり。とりあえずはお互い、コーヒーをお代りした。
 
「旭、今日は泊まっていくか?」
「いや、明日は仕事だから」
「そうか」
「さっきああいう会話した後に、よく泊めようって気になるな……」
「襲わないんだろ?」
「襲わないけど!」
 
 葉月は『襲うのか? 裏切らないか?』と訊いてきたが『おれのことを好きなのか?』とは訊いてこない。旭の態度はそう言っているも同然で、訊くまでもないことだからかもしれない。それか言わせたくないのか。
 旭は嘘やごまかしごとの苦手な男だ。その感情に、葉月が気づかぬはずはない。そしていくら鈍い旭でも、葉月が自分に望むものは友情だとわかっていた。だからこそ、自分の気持ちに気づいたばかりの不安定なこの時期に、葉月の家へ泊まりに行くことはできないと思ったのだ。
 もしかすると葉月はまだ、旭の想いを恋だとは認めていないのかもしれない。旭としても自分が信じられず、どうしたらいいかグルグルしている部分もあるので、葉月がそう思うのも当然と言えた。

 葉月はノーマルだと思っていた相手に何度か犯されそうになり、今度見誤ったら二度と人と関わるのはやめると言っていた。その判断対象は旭である。初めてそう言われた時に、少し不安が胸をよぎり、まさに今こんなことになっている。
 旭が裏切れば、葉月はこの先誰とも関わらないで生きていく。好きな相手にそんな道を選んでほしくないと思う半面、甘美な誘惑もつきまとう。自分が最後になるなら、独占欲は存分に満たされるからだ。
 そして葉月がそんな重大な相手に旭を選んだのは、言ってしまえば勘にすぎない。襲うつもりはなくとも、現状を思えば葉月は勘を外したことになる。つまり、ある意味賭けに負けている。似たようなことを何度も繰り返しているなら、ギャンブル以外は負け続けているということになる。
 
「ギャンブルの上手い奴が、人を見る目もあるとは限らないんだな」
 
 思っても口に出さなければいいのだが、凄腕のギャンブラーである葉月がハズしていると思うと楽しくなって、旭はつい口を滑らせた。葉月は案の定眉根を寄せて睨んでくる。
 
「なんだ、唐突に。正面きって人をバカにするとは、旭、お前なかなかいい度胸をしているな」
「ば、馬鹿にしたつもりじゃ……」
 
 可愛いげがあっていいなどと言えば、尚更馬鹿にしているみたいだ。
 
「……ま、いいけどな」
 
 いいフォローの言葉も思い浮かばなかったが、葉月がそう言ってすぐに話題を変えたので、旭もここぞとばかりそれに乗った。
 葉月との時間はとても楽しい。裏切りたくはないし、夜西のようになりたくもない。けれどどうしても夜西の姿が自分と重なって脳裏にちらつく。
 いつも傍にいて護りたいと思う気持ちが、別のものに変化していきそうなのがとても怖い。自分でもわからない感情に振り回される。
 
「そろそろ帰るか。家まで送ろう」
「うん……」
 
 あっという間に、別れの時刻。もう少し一緒にいたいという気持ちから、動作がどことなく緩慢になる旭と、いつも通りクールでスマートな葉月。未練も寂しさもなさそうで、泊まっていくかと訊いてきた男には思えない。
 
「人の奢りなんて、どれくらいぶりかな」
 
 相変わらず上機嫌ではあるが。タダ飯自体は葉月にとってそう価値のあることでもないだろうから、純粋に奢られることが嬉しいのだろう。
 
「葉月なら、一杯奢るよ、とか普通にモーションかけられそうなのに」
「そんな下心が丸見えの誘いに、おれが乗るとでも? リスクしかない」
「そう……そうだな」
 
 つまり少なくとも、旭の誘いに下心はないと判断しているということ。
 葉月はそのままレジへ歩いて行き、店員に一言告げて先に店を出てしまう。もたもたしていた旭は出遅れてそれを追った。会計は二人で三千円未満という、喫茶店としてはまあ普通の価格だった。
 店を出ると葉月が凛とした立ち姿で旭を待っていた。バランスのよい肢体はただ立っているだけで絵になる。コートの上からでも細いとわかる腰は、性的なものを含めなくともぎゅうっと抱き寄せたくなった。
 旭が出てきたのに気づいた葉月が、その顔を見て口角を上げる。
 
「ゴチソウサマ」
「……帰ったかと思った」
「なんでだよ。家まで送るって言っただろ? 奢らせておいてさっさと一人で帰るとか、お前の中でおれはどれだけ薄情なんだ」
「実際、店はさっさと出たじゃないか」
「立ち上がった後で長話もなんだし、注目も浴びてたからな……」
「えっ?」
「なんだ。気づいてなかったのか? ボディーガードのクセに相変わらずだな」
 
 旭は危険に関することだけ上手い具合に察知するのだが、それ以外は割と鈍い。
 葉月はやれやれと肩をすくめたあと、車道を通ったタクシーを呼んだ。
 
「タクシーで帰るのか?」
「ああ、車とめてるトコまでな。あいつがまだ公園にいたりしたら、気まずいだろ」
「あ、ああ……」
「タクシー代ならおれが出すから、気にするなよ」
「別に、それを気にしてるわけじゃ。いや、助かるけどさ」
 
 自動で開いたドアに入り、並んで腰を降ろす。
 葉月が簡単に行き先を告げ、車が走り出した。
 
「おれともう少し一緒にいたいなら、泊まっていけばいいのに」
 
 白い座席に深く身を預けながら、葉月が旭の肩にことんともたれかかる。旭は思わず膝に置いた手に力を込めた。
 自分の心の動きが筒抜けだったとわかって、どうしようもない恥ずかしさが込み上げてくる。
 
「気づいてたのか」
「やたら食べるのゆっくりだし、そわそわしてるし、まあ、まるわかりだな」
 
 葉月がいたずらっぽく、ククッと笑う。
 
「どうせおれの車に乗るんだから、引き留めるならそれからじゃないか? 人の目も気にしなくていいし。おれならそうする」
 
 帰ることになんの躊躇いもなさそうだった葉月だが、実は車の中で引き留めればいいと思っていたのかもしれない。運転は葉月がするのだ。遠回りにしても彼の采配ひとつ。
 
「じゃ、少しだけ遠回りしてくれたら嬉しいかな」
「泊まっていくのが一番早いぞ」
「それはちょっと。明日も早いし」
「ああ……。この前も朝6時前には起きてたもんな」
 
 葉月が納得した様子で頷く。理由としては充分だ。いくら家主が気にせずとも、早朝たたき起こすのは気が引ける。
 
「あのさ、旭……あまり、気にしないほうがイイと思うぞ」
「な、何を」
「んー。なんつったらいいかな。いろいろ深く、考えすぎなんだよ。もっと気楽にな」
 
 背中をぽんぽんと叩かれて、肩から葉月の重みが消える。
 それからすぐ、タクシーは駐車場の近くへ到着した。
 
 
 
 
 助手席に座るのもだいぶ慣れ、葉月が運転をしているのにも、違和感を覚えなくなった。
 葉月は車へ乗った途端、いつも通りミントの飴を口に入れた。
 
「食べるか?」
「ありがとう。……葉月って、ミントが好きなのか?」
「ミントそのものがどうってより、匂い消しみたいなもんかな。爽やかでフレグランスほど強い匂いじゃなくて、悪くない」
 
 確かに、ミントの匂いにまぎれて彼自身の匂いは消されているような気がする。とはいえ、飴やガムでどうにかなる程度なら、体臭が酷くて困っている、というような理由ではなさそうだ。気休めのフェロモン消しや、ジンクスなどがあるのかもしれない。
 
「初めは禁煙でもしてて、口寂しいからだと思ってた」
「酒は飲むが煙草はあまり好きじゃないな。ギャンブル好きには吸うヤツが多いから、それこそ匂いが移りそうだ。旭も吸わないんだな」
「…………まあ、高いし……」
「……なるほど」
 
 そういった嗜好品のたぐいは、すべてギャンブル代に消えている。
 葉月は言っていた通りずいぶんと遠回りをしてくれ、それからしばらくの間ぽつりぽつりと二人で他愛もない話を続けた。
 それでも別れ際はやはり離れがたく、家の前に停まった車内で思わず葉月の肩を掴む。
 
「あ……その」
 
 雰囲気に流されて、好きだの一言くらいは、告げてやろうかと。どうせばれているに違いないのだから、いっそのこと形にしても問題はないだろう。そう思ったのだが、葉月はそれを言わせなかった。
 
「オヤスミ、旭クン」
 
 ニッと笑って旭の下唇を閉じるように、指先で押さえた。
 有無を言わさぬ笑顔にほうけている間に車から降ろされる。
 夜西のようにはならないと思った傍から気持ちを押し付けようとした自分が、どうしようもなく恥ずかしくなった。
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