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第十三章
しおりを挟む私室を退出した後、廊下でアーロンが私の手を取った。
「良かった。殿下の承認を得られた」
「ええ。でも――」
私は不安を隠せなかった。
「和平条約調印式なんて、本当に私にできるかしら」
「できる」
アーロンはきっぱりと言った。
「お前は王太子殿下の祝賀会で成功を収めた。それに比べれば、調印式も同じだ」
「でも、今度は国家間の――」
「クレア」
アーロンは私の肩に手を置いた。
「俺がついている。何があっても、お前を守る」
その言葉に、私は少し安心した。
「ありがとう、アーロン」
「それより――」
アーロンは周囲を確認してから、声を潜めた。
「今日の夜、ストラトフォード侯爵の屋敷を調査する」
「調査?」
「ああ。闇ギルド『黒蛇』との契約書や、研究資料が残っているはずだ。それを押さえれば、侯爵を追い詰められる」
私は息を呑んだ。
「でも、危険じゃない?」
「だからこそ、お前は宿舎で待機していろ」
アーロンは真剣な表情で言った。
「エリンをつけておく。絶対に部屋から出るな」
「わかったわ」
私は頷いた。
「それと――」
アーロンは私の顔を覗き込んだ。
「万が一、エリンの様子がおかしかったら、すぐに光の鳥を俺のところに飛ばせ。わかったな?」
「どうやって判断したらいい?」
「エリンと合言葉を決めておけ」
アーロンは即答した。
「例えば『夜は冷えますね』とエリンが言ったら、お前は『温かいお茶がほしいわ』と返す。その言葉がなければ偽物か、脅されているかだ」
私は頷いた。
「わかったわ」
「いいか。俺は必ずお前を守る。だが、お前も自分の身を守れ」
アーロンは私の額に、そっとキスをした。
「待ってるから」
◆
その夜。
私は部屋で一人、リュートを弾いていた。
アーロンは侯爵の屋敷に向かった。
エリンが部屋の前で警備についている。
窓の外は暗闇に包まれていた。
月も雲に隠れて、ほとんど光がない。
私は演奏を止め、音花の恵みで小さな鳥を作り出した。
「行って。ストラトフォード侯爵の屋敷を見張って。怪しい動きがあったら、すぐに戻ってきて」
光の鳥は窓から飛び出していった。
アーロンが危険な目に遭わないか、心配でたまらない。
でも、私にもできることがある。
侯爵の動きを監視して、何かあればすぐにアーロンに知らせる。
それが、彼を支えることになるはずだ。
三十分ほど経った頃。
光の鳥が戻ってきた。
私は鳥に触れ、その記憶を読み取った。
――侯爵の屋敷に、複数の魔導師たちが集まっている。
――彼らは何か計画を話し合っている。
――「今夜、クレア・エヴァンスを捕らえる」
私の血の気が引いた。
今夜? つまり、今すぐに? どうやって?
その時、ドアがノックされた。
「エリン?」
私はそっとドアに近づいた。
すると、とさりと何かが落ちる物音がした。
一向にエリンからの返事はない。
まさか――
おそるおそる私は扉から離れた。
机に置いていたリュートをすぐさま掴む。
弦を爪弾くと、光の鳥が一羽生まれ、窓から飛び出していく。
アーロンのもとへ。今すぐ!
直後、ドアが激しく蹴破られた。
黒いローブを纏った魔導師たちが、なだれ込んでくる。
床には、エリンが倒れていた。
彼女の首筋には、何かの針が刺さっている。
「なんてことを……」
エリンはまだ生きているのか、それとも。
いいえ、考えたくもない。
私を嘲笑うかのように、魔導師の一人が冷笑を浮かべた。
「やっと我らの悲願が叶う」
彼らが私に向かって手を伸ばす。
私は恐怖を打ち払うように、リュートをつま弾いた。
瞬時に、音花の恵みによって光の盾が私の前に出現する。
魔導師たちの魔法が盾に当たり、弾かれて部屋の壁に激突する。
爆発音が響くも、騎士たちが来る気配はない。
もはや頼れるものは、父の形見のリュートのみ。
「なるほど。噂通りの力だ」
魔導師のリーダーらしき男が、興味深そうに言った。
「だが――」
彼は懐から、あるものを取り出した。
「この『魔喰いの水晶』があれば、どうかな」
見る見るうちに水晶が光り始めた。
私の音花の恵みが、光の盾が、みるみる色を失い、薄れていく。
「くっ......」
私は必死に演奏を続けたが、水晶の力は強かった。
やがて、盾が完全に消えた。
魔導師たちが私を取り囲む。
私はリュートを抱きしめた。
父の形見だけは、絶対に手放さないわ。
すると魔導師の一人が、床に薬剤を落とした。
甘ったるい匂い。
「んっ......」
私は必死に口と鼻を手で覆うも、意識が遠のいていく。
最後に思ったことはただ一つ。
アーロンに光の鳥は届いたかしら。
視界が暗転した。
◆
目が覚めると、私は石造りの部屋にいた。
両手には、魔法を封じる手錠がはめられている。
私の隣には、父の形見のリュートがあった。
「目が覚めたか、クレア・エヴァンス」
声がした。
薄暗い部屋の奥から、ストラトフォード侯爵が現れた。
「……ここは、どこ?」
私は警戒しながら立ち上がった。
「近衛騎士の連中も知らん、私の研究施設だよ」
侯爵は冷笑を浮かべた。
「王宮の地下深くに作ってね。私の息がかかった者しか、この場所は知らない」
私は息を呑んだ。
王宮の地下――つまり、アーロンが調査に向かった侯爵の屋敷とは別の場所だ。
「なぜ、こんなことを」
「決まっているだろう」
侯爵は私に近づいた。
「音花の恵み。その力を、私のものにするためだ」
彼の目には、狂気じみた光が宿っている。
「お前の母親、レイラ・エヴァンスも同じ力を持っていた。
だが、彼女は力を使おうとしなかった。愚かなことに」
「母を......知っているの?」
「ああ」
侯爵は頷いた。
「二十年前、私は彼女に研究への協力を求めた。だが、彼女は拒絶した。そして、どこかへ姿を消してしまった」
侯爵の声は、恨みに満ちていた。
「だが、お前は違う。お前は母親よりも強力な音花の恵みを持っている。それを、私が正しく使ってやる」
「正しく......ですって?」
私は怒りを抑えきれなかった。
「あなたは私の力を、兵器として使うつもりでしょう。人を傷つけるために」
「そうだ」
侯爵はあっさりと認めた。
「この国を強くするためだ。音花の恵みで作り出した武器があれば、我が国は無敵になる」
「そんなこと、絶対に許さない」
私はきっぱりと言った。
「私は、誰かを傷つけるために力を使うつもりはないわ」
「ふむ」
侯爵は腕を組んだ。
「では、実演してもらおうか」
彼は私の隣にあるリュートを指差した。
「お前の父親の形見だったな。それを使って、音花の恵みを発動させろ」
私は驚いた。
「なぜ、リュートを――」
「お前の能力は、音楽を通じて発動する」
侯爵は冷たく言った。
「楽器がなければ、力は十全に発揮できない。だからこそ、リュートを用意した。ま、お情けというやつだ」
彼は指を鳴らした。
扉が開き、二人の魔導師が入ってきた。
その手には、先ほどの『魔喰らいの水晶』が握られている。
「さあ、奏でろ。そして、音花の恵みを見せてもらう」
侯爵の声は、命令口調だった。その口元に邪悪な笑みを浮かべる。
「もし拒否すれば――お前の大切な騎士、アーロン・ブラックウッドに危害が及ぶことになるぞ」
私は息を呑んだ。
「アーロンに......何をしたの!」
「今頃、私の部下たちが彼を始末しているところだ」
侯爵は冷笑を浮かべた。
「お前が協力すれば、彼への命令を撤回してやってもいい」
嘘だ。
この男は、絶対に約束を守らない。
でも――。
アーロンが危険に晒されているかもしれない。
私は迷った。
そして――決断した。
「わかったわ。あなたの言うとおり、演奏する」
私はリュートを手に取った。
「でも条件があるわ」
「条件?」
侯爵は眉をひそめた。
「アーロンへの命令を、今すぐ撤回して。それを確認できたら、演奏するわ」
「ふん」
侯爵は鼻で笑った。
「お前に交渉の余地などない。だが――」
彼は懐から通信用の魔法石を取り出した。
「いいだろう。今、部下に連絡してやる」
侯爵が魔法石に何か囁くと、石が光った。
「これでいいか?」
私は頷いた。
そして――リュートを構えた。
父の形見。
この楽器には、父の魂が宿っている。
私は弦を爪弾き始めた。
最初は、ゆっくりとした旋律。
だが徐々に、テンポが上がっていく。
音花の恵みが発動し始めた。
淡い金色の光の粒子が、私の周囲に現れた。
「そうだ、その調子だ」
侯爵は興奮した様子で言った。
「もっと、もっと力を出せ」
光の粒子が増えていく。
私は演奏しながら、密かに粒子に命令していた。
『小さな鳥になって。アーロンのところへ飛んで行きなさい。この場所を伝えるの』
光の粒子が、ごくごく小さな鳥の形になった。
それは侯爵たちに気づかれないように、天井の隅から石造りの隙間へと飛んでいった。
さらに、私はもう一羽の鳥を作った。
『王太子殿下のところへ。侯爵の悪行を伝えて』
二羽目も、別の方向へと飛んでいった。
「素晴らしい」
侯爵は光の粒子を見つめた。
「この力があれば、どんな武器でも作れる。盾も、剣も、全てだ」
彼は魔導師たちに指示を出した。
「今すぐ粒子を採取しろ。研究用の容器に保存するんだ」
魔導師たちが、特殊な容器を持って近づいてきた。
私は演奏を続けながら、心の中で祈った。
アーロン、お願い。気づいて。
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