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《33》
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久しぶりに元の教室へ集まった。ここを汚すと後が大変なので、展示用の教室は別の階にある。授業ではないし、来れる人だけ来てと伝えたが、黒の生徒は全員揃っていた。重苦しい雰囲気にはしたくなかったので、教壇から降りて、私も皆と同じ椅子に座った。
ちらりと彼らの方を見る。蘭晶はまだ先程と同じ顔のままだった。俯いているので、私とは目が合わない。他の者もどこか不安そうな表情を浮かべている。
「肩の力を抜いて。大したことじゃないんだ。ただ私の昔話をするだけ……語れることは少ないけど、どうしてここに来たのか。教えておこうと思って」
私はもしかしたらこのまま先生を辞めるかもしれない。それは実際外に出て行く訳ではなくて、私の中身が塗り替えられてしまうのではということだ。教室を塗り替えたように、皆の視線が私を黒に染めていく。
一呼吸して、上の方に目を向けた。何故か電気をつけず教室内は真っ暗だったが、気分は落ち着いた。僅かな月明かりが机を照らしている。
私が自分でも思うくらいなのだから、彼らからしたら、私など完全に慕う必要のない先生だったのだろう。最初の学校はごく普通の場所だった。共学で、スポーツやクラブ活動などに関しても特に秀でてはおらず、地元の人間しか話題に出さない程度の成績だ。素行の悪い生徒もいたが、それほど大きな問題は起きなかった。
私は副担任として、生徒達を教室の後ろから見守っていた。一生懸命担任のサポートをし、授業中困っている生徒がいないか目を向けながら、早く一人前になろうと必死で先生のやり方を覚えようとした。私は、背はそれほど低くはない。だが体は細かった。男子生徒でなくても、女子生徒でも私を倒すことなど容易だろう。それに伴うように、寧ろプラスするように、私の気の弱さは完全に表に出ていた。あの人には舐めた態度で接しても問題ない、声に出していない生徒もそう思っていただろう。
数日が経ち、初めて授業を行う日が来た。何度も頭の中で繰り返して、家でシミュレーションもしたのに、あの場に立つと緊張で足が震えた。思うように声が出ず、文字も小さいと言われ何度も書き直した。時間内には余裕を持って終わらせられるはずだったのに、用意していた物を使い切れずに鐘が鳴った。
逃げ出すように廊下に出ると、スーツの中は汗で濡れていて、すぐトイレに駆け込んだ。私の意思とは関係なく、涙が流れ続けていた。それでも顔を洗って家に帰る頃には、次は絶対にうまくやろうと考えられていた。
これは後から気がついたことだが、同期の他の先生は、既に生徒との仲が良かった。私に話しかけてくれたのは、私のことを知らない他の学年の生徒だけだ。それもすれ違えば挨拶をしてくれる程度で、大体一人か二人でいる生徒だけだった。
私の授業中に、他のことをし始める生徒が増えてきた。初めはノートへの落書き、他の教科の勉強、手紙を書いて友人同士で回したりと、そんなことだった。それらが普通になってくると、段々行動が大胆になってきた。隣同士で話すのはまだマシで、勝手に席を移動して友人の元へ行く生徒もいた。注意しても、つまらなそうに睨み返されるだけだ。
それから完全に、授業ができなくなる日が来たのは早かった。私がいつもより大きく声を出しても、振り返る生徒はいない。配ったプリントも床で散らばっている。仕方ないのでテストに出る部分の解説を纏めたプリントも作ったが、ゴミ箱行きだった。いや、ゴミ箱にも行っていないかもしれない。教室から出た廊下の隅で丸まっている紙もあった。
それでもテストの時は困ってしまうだろうと、毎日プリントを作り続けた。紙を回してくれる生徒はいないので、直接手渡そうとしても受け取ってくれない上に、通路は椅子だけを持って移動した生徒に埋められていた。仕方なく担任に手渡しても、迷惑そうな顔を向けられる。私は既に生徒だけではなく、先生達にも疎ましがられていたんだ。
私に対して、いくつも苦情が届いていた。先生を変えてほしい。この人じゃ全然分からない、どうにかならないかと、何度も言われた。担任にも迷惑をかけていることは分かっていたが、私一人ではどうにもならなかった。
無視されるだけならまだマシだったと気づく。それも辛かったけど、ただの紙でも何人もの生徒から投げつけられるのは怖かった。黒板消しでスーツが汚れるのはしょっちゅうで、ある時、飲み物の中身が入ったまま投げられた。そんな時、教室内は笑いに包まれる。私の味方はどこにもいないのだとチョーク置いて、教室から去ろうとした。その時、ある生徒が立ち上がった。
「もうやめようよ、どうしてちゃんと授業を受けないの」そう言ってくれたのは、一番前の席に座っていた男子生徒だった。扉に近い彼とは、移動する際によく目が合っていた気がする。私は久々にそんな声が聞けて、目頭が熱くなった。でも次にはすぐ、彼らの笑い声に消し去られる。「何言ってんだ」「良い子ぶるな」「二人で勝手に授業やってろ」そんな声が飛び交った。私は自分がダメだという自覚があったから、何を言われても仕方がないと思っていた。しかしこの生徒だけは傷つけさせないと、彼の元へ一歩近づいた。その時だった。
「何、お前。男が好きってマジなの。こういうのがタイプだったんだ」
それが、今までで一番燃え上がる一言だった。クラスに悲鳴と笑い声が溢れる。女子生徒は引き、男子生徒は更に盛り上げた。私はゆっくり振り返って彼の方を見る。初めは怒っているように見えたが、私と目が合うと彼は笑った。
「先生! ごめんなさい……こいつらのせいで授業ができなくて。騒がしくて、可哀想なのに俺は何もできなかった。先生の味方になってあげたかったのに」
彼は笑いを濃くしていく。段々と私に近づいて来た。
「でも、可哀想な先生は可愛くて。もう少し追い詰めて限界になれば俺に縋ってくれるかなって、ギリギリまで待ってたんですけど……ちょっとタイミング間違えちゃいましたね、ははっ」
誰かに押されて、私は床に倒れ込んだ。目の前にあるのは彼の足だ。ゆっくり膝を曲げると、床の私に目線を合わせた。頰をなぞられて、全身に鳥肌が立つ。恐怖で身が震えている間に、教室内では下品な言葉が飛び交っていた。手を叩いて全員がはしゃいでいる。誰かに肩を押さえつけられ、無理やり彼と顔を合わせられそうになった。
そんな力があったのか、不意をつけたのか、私は彼と押さえつけていた生徒を振り払うことができた。ただその反動で上手く距離が掴めず、私は窓に叩きつけられた。窓が割れ、目の前が赤くなったことはなんとなく覚えている。
それからの記憶は断片的にしか残っていない。療養の為、休んでいると生徒に伝えたそうだが、私はもう戻る気はないと学校を辞めた。引き止める人はいなかった。
それから数ヶ月後、他の学校に行き着いた。そこは女子校で、ここなら平気なのではと思ったが、私はまだ癒えていなかったらしい。教室に入ると、体が震え始めた。視線が恐ろしくて、目を背ける。冷や汗が流れ、声が喉の奥に詰まって出てこない。何人か呼びかけてくれた生徒がいたが、上手く人の声として耳に入ってこなかった。視界がボヤけて、目の前がチカチカしてくる。ついには走って、外へ出てしまった。吐き気が抑えられずに、廊下で嘔吐してしまう。私はもう自分が使い物にならないのだと悟った。
全てに絶望して、堕落した日々を送った。ゴミに囲まれ、一日の殆どを床の上で寝て過ごす。食事さえも面倒だった。どこから飛び降りようかと、そればかり考えていた。
その時間で私は色々な事に気がついた。一生懸命、努力した人間が必ず報われる事はない。それを許される人間が、努力したことを認めてくれる存在がいる者が、ただ評価されているだけだ。あの人は誰にも見向きされないのに、努力していて偉いと言わせられる人、誰にも必要とされていないのに勝手に一人で突っ走って、無駄に頑張っているのが滑稽だと言われる人。同じ条件のはずなのに私は認められなかった。生徒と友達のように接しながらも、頼り甲斐があり皆に好かれていた彼を、私はどこかで蔑んでいた。媚を売って、自分を安く見せてまで好かれたいのかと内心で馬鹿にしていた。授業を緩くすれば簡単に好かれるだろうと思っていたからだ。どうして同期でここまでの差が開いたのか。
彼は英語の教師だったが、彼らのクラスが騒がしいのが気に障ったし、授業の一環でやっている洋楽が流れるたびに、胸元を掻き毟りたくなった。
沢山考え、床に伏していた日々は早かった。久々に起き上がると意外にも頭はスッキリしていて、何も考えずただ黙々と身なりを整えた。簡単に食事をとり、ゴミを外に捨てる。洗濯しようとスーツのポケットを探ると、一枚のメモが入っていた。確か女子校で殆ど面識のない先生が、去り際に渡してくれたものだ。その場では言われるがまま受け取ったのだが、今見ると住所しか書いていない。その場所は少し遠かったが、行けない距離ではなかった。
私は家にあった殆どの物を捨てると、久しぶりにきちんとした服に腕を通した。荷物は鞄一つ程になっている。今の私にはぴったりだと思った。
古い商店街を抜け、裏道を渡ってやっと着いた場所は、とっくの昔に閉められたのだと判断する程に色褪せていた。それでも一応確かめるために、変色した窓から中を覗く。殆どが紙に覆われていた。鍵が開かなかったら帰ろう、そう思ってから戸を叩く。慎重に開けようと思ったのに、ネジが緩んでいるのか、軽い扉は簡単に開いてしまった。中の紙が何枚か宙に舞う。
引き返そうと足を動かした時、紙の中で何かが動いた。蠢いているようにも見える。何故か動けずにそれを見ていると、中から一人の男が起き上がった。初対面で分かる胡散臭さだ。彼の姿勢や表情、そして声までもよく見る詐欺師そのままだった。
「あれぇ? もしかしてお客様? じゃなくて新しい兵士?」
私は何も返すことができなかった。相手は勝手に一人で話を進める。
「何度言ってもここは立ち退きませんよぉ。私がオーナーじゃないから許可が出せないんです。しかも今更こんなところを潰したところで町自体が死んでますからぁ、復興なんて……ってあれ、これは本当にお客さんのようだ」
どうも失礼、とペラペラになった革の帽子を外した。彼がハンカチを取り出して、顔を拭き出してからこの部屋が暑いことに気がついた。冷房の類はない。私は一枚脱いで、ソファーに腰掛けた。足元には紙が積んである。
「ようこそ。よくこんなところまで。さすがに誰かのご案内があってでしょう」
「あ、そうです……この人は知っていますか」
忘れていた気がしたが、記憶にはまだ残っていたようだ。自分で口にしてから、そんな名前だったなと思い返す。
「ううむ、私の知り合いじゃあないですね。その人もツテで知ったのでしょう。まぁいいです。まだお若いように見えるが、貴方も先生なんでしょう? 新しいお仕事ですか」
男が値踏みするようにこちらを見上げた。そういえば、彼にこの紙をもらった時そんなことを言われた気がする。仕事を紹介する為に渡してくれたのか。鮮明には思い出せないが。
彼に教えてもらった学校はどう考えても地雷だったが、私にはちょうど良かった。聞いたことのない土地、人里から離れた場所。これが詐欺でもちょっとした旅行だと思えばいい。そしてその知らない土地に私は埋まるのだ。ちゃんと土に還るかは分からないが。
ギリギリのお金で汽車を乗り継ぎ、異国の街を歩く。レンガの道から港まで。見たことのない服装、聞いたことのない言葉。まるで映画の世界に迷い込んだみたいだった。馬車に乗り、とにかく森を目指してくれと伝えた。余っていた金の全てを渡すと、彼は馬を叩いた。
そうしてここに辿り着き、彼らと会った。今は束の間の幸せなのかもしれない。それでも私は幸せを感じていた。私はこれから、彼らを地獄に連れていく死神になるのかもしれない。そうだとしても手放せないだろう。不幸なことに、彼らには逃げ場がない。私は誓おう。この先どんなことになろうとも、彼らと運命を共にすると。
「私は君達に会えて良かった。ここに来て初めて、私という人間に立場を与えてくれた。必要とされていることが、こんなに幸せだとは知らなかった。先生なんていう存在が自分に正しいのかは分からないけど、君たちがそうだと言ってくれるなら、私は君達の先生でいられる。でも……やっぱり私には分からないんだ。答えを教えることはできるかもしれないけど、人としての正しさや、どうやって生きていけばいいのかは、私も知らない。無責任でごめんね。だから私は……少しずつ先生を皆に教えてもらいながら、時にはただの人間同士で、分かり合っていきたいんだ」
時間が遅くなってしまった。そろそろ眠たい頃だろう。立ち上がって、ロウソクに火をつけた。ぼんやりと皆の姿が照らされる。
廊下に出ると、やっと声を取り戻したかのように、か細い声で私を呼んでくれた。馴染んでしまった先生という声に、意外なくらい自分でも心地良さを感じていた。先生は生徒がいなくては存在できない。生徒が先生を創り上げていく。ああだから一人で奮起しても、駄目だったのか。
これでやっと過去の呪縛から解かれた気がする。これから少しずつ昔は忘れられていくのだろう。彼らに染められて、ここでの思い出ばかりになる。これ以上の幸せがあるだろうか。
ちらりと彼らの方を見る。蘭晶はまだ先程と同じ顔のままだった。俯いているので、私とは目が合わない。他の者もどこか不安そうな表情を浮かべている。
「肩の力を抜いて。大したことじゃないんだ。ただ私の昔話をするだけ……語れることは少ないけど、どうしてここに来たのか。教えておこうと思って」
私はもしかしたらこのまま先生を辞めるかもしれない。それは実際外に出て行く訳ではなくて、私の中身が塗り替えられてしまうのではということだ。教室を塗り替えたように、皆の視線が私を黒に染めていく。
一呼吸して、上の方に目を向けた。何故か電気をつけず教室内は真っ暗だったが、気分は落ち着いた。僅かな月明かりが机を照らしている。
私が自分でも思うくらいなのだから、彼らからしたら、私など完全に慕う必要のない先生だったのだろう。最初の学校はごく普通の場所だった。共学で、スポーツやクラブ活動などに関しても特に秀でてはおらず、地元の人間しか話題に出さない程度の成績だ。素行の悪い生徒もいたが、それほど大きな問題は起きなかった。
私は副担任として、生徒達を教室の後ろから見守っていた。一生懸命担任のサポートをし、授業中困っている生徒がいないか目を向けながら、早く一人前になろうと必死で先生のやり方を覚えようとした。私は、背はそれほど低くはない。だが体は細かった。男子生徒でなくても、女子生徒でも私を倒すことなど容易だろう。それに伴うように、寧ろプラスするように、私の気の弱さは完全に表に出ていた。あの人には舐めた態度で接しても問題ない、声に出していない生徒もそう思っていただろう。
数日が経ち、初めて授業を行う日が来た。何度も頭の中で繰り返して、家でシミュレーションもしたのに、あの場に立つと緊張で足が震えた。思うように声が出ず、文字も小さいと言われ何度も書き直した。時間内には余裕を持って終わらせられるはずだったのに、用意していた物を使い切れずに鐘が鳴った。
逃げ出すように廊下に出ると、スーツの中は汗で濡れていて、すぐトイレに駆け込んだ。私の意思とは関係なく、涙が流れ続けていた。それでも顔を洗って家に帰る頃には、次は絶対にうまくやろうと考えられていた。
これは後から気がついたことだが、同期の他の先生は、既に生徒との仲が良かった。私に話しかけてくれたのは、私のことを知らない他の学年の生徒だけだ。それもすれ違えば挨拶をしてくれる程度で、大体一人か二人でいる生徒だけだった。
私の授業中に、他のことをし始める生徒が増えてきた。初めはノートへの落書き、他の教科の勉強、手紙を書いて友人同士で回したりと、そんなことだった。それらが普通になってくると、段々行動が大胆になってきた。隣同士で話すのはまだマシで、勝手に席を移動して友人の元へ行く生徒もいた。注意しても、つまらなそうに睨み返されるだけだ。
それから完全に、授業ができなくなる日が来たのは早かった。私がいつもより大きく声を出しても、振り返る生徒はいない。配ったプリントも床で散らばっている。仕方ないのでテストに出る部分の解説を纏めたプリントも作ったが、ゴミ箱行きだった。いや、ゴミ箱にも行っていないかもしれない。教室から出た廊下の隅で丸まっている紙もあった。
それでもテストの時は困ってしまうだろうと、毎日プリントを作り続けた。紙を回してくれる生徒はいないので、直接手渡そうとしても受け取ってくれない上に、通路は椅子だけを持って移動した生徒に埋められていた。仕方なく担任に手渡しても、迷惑そうな顔を向けられる。私は既に生徒だけではなく、先生達にも疎ましがられていたんだ。
私に対して、いくつも苦情が届いていた。先生を変えてほしい。この人じゃ全然分からない、どうにかならないかと、何度も言われた。担任にも迷惑をかけていることは分かっていたが、私一人ではどうにもならなかった。
無視されるだけならまだマシだったと気づく。それも辛かったけど、ただの紙でも何人もの生徒から投げつけられるのは怖かった。黒板消しでスーツが汚れるのはしょっちゅうで、ある時、飲み物の中身が入ったまま投げられた。そんな時、教室内は笑いに包まれる。私の味方はどこにもいないのだとチョーク置いて、教室から去ろうとした。その時、ある生徒が立ち上がった。
「もうやめようよ、どうしてちゃんと授業を受けないの」そう言ってくれたのは、一番前の席に座っていた男子生徒だった。扉に近い彼とは、移動する際によく目が合っていた気がする。私は久々にそんな声が聞けて、目頭が熱くなった。でも次にはすぐ、彼らの笑い声に消し去られる。「何言ってんだ」「良い子ぶるな」「二人で勝手に授業やってろ」そんな声が飛び交った。私は自分がダメだという自覚があったから、何を言われても仕方がないと思っていた。しかしこの生徒だけは傷つけさせないと、彼の元へ一歩近づいた。その時だった。
「何、お前。男が好きってマジなの。こういうのがタイプだったんだ」
それが、今までで一番燃え上がる一言だった。クラスに悲鳴と笑い声が溢れる。女子生徒は引き、男子生徒は更に盛り上げた。私はゆっくり振り返って彼の方を見る。初めは怒っているように見えたが、私と目が合うと彼は笑った。
「先生! ごめんなさい……こいつらのせいで授業ができなくて。騒がしくて、可哀想なのに俺は何もできなかった。先生の味方になってあげたかったのに」
彼は笑いを濃くしていく。段々と私に近づいて来た。
「でも、可哀想な先生は可愛くて。もう少し追い詰めて限界になれば俺に縋ってくれるかなって、ギリギリまで待ってたんですけど……ちょっとタイミング間違えちゃいましたね、ははっ」
誰かに押されて、私は床に倒れ込んだ。目の前にあるのは彼の足だ。ゆっくり膝を曲げると、床の私に目線を合わせた。頰をなぞられて、全身に鳥肌が立つ。恐怖で身が震えている間に、教室内では下品な言葉が飛び交っていた。手を叩いて全員がはしゃいでいる。誰かに肩を押さえつけられ、無理やり彼と顔を合わせられそうになった。
そんな力があったのか、不意をつけたのか、私は彼と押さえつけていた生徒を振り払うことができた。ただその反動で上手く距離が掴めず、私は窓に叩きつけられた。窓が割れ、目の前が赤くなったことはなんとなく覚えている。
それからの記憶は断片的にしか残っていない。療養の為、休んでいると生徒に伝えたそうだが、私はもう戻る気はないと学校を辞めた。引き止める人はいなかった。
それから数ヶ月後、他の学校に行き着いた。そこは女子校で、ここなら平気なのではと思ったが、私はまだ癒えていなかったらしい。教室に入ると、体が震え始めた。視線が恐ろしくて、目を背ける。冷や汗が流れ、声が喉の奥に詰まって出てこない。何人か呼びかけてくれた生徒がいたが、上手く人の声として耳に入ってこなかった。視界がボヤけて、目の前がチカチカしてくる。ついには走って、外へ出てしまった。吐き気が抑えられずに、廊下で嘔吐してしまう。私はもう自分が使い物にならないのだと悟った。
全てに絶望して、堕落した日々を送った。ゴミに囲まれ、一日の殆どを床の上で寝て過ごす。食事さえも面倒だった。どこから飛び降りようかと、そればかり考えていた。
その時間で私は色々な事に気がついた。一生懸命、努力した人間が必ず報われる事はない。それを許される人間が、努力したことを認めてくれる存在がいる者が、ただ評価されているだけだ。あの人は誰にも見向きされないのに、努力していて偉いと言わせられる人、誰にも必要とされていないのに勝手に一人で突っ走って、無駄に頑張っているのが滑稽だと言われる人。同じ条件のはずなのに私は認められなかった。生徒と友達のように接しながらも、頼り甲斐があり皆に好かれていた彼を、私はどこかで蔑んでいた。媚を売って、自分を安く見せてまで好かれたいのかと内心で馬鹿にしていた。授業を緩くすれば簡単に好かれるだろうと思っていたからだ。どうして同期でここまでの差が開いたのか。
彼は英語の教師だったが、彼らのクラスが騒がしいのが気に障ったし、授業の一環でやっている洋楽が流れるたびに、胸元を掻き毟りたくなった。
沢山考え、床に伏していた日々は早かった。久々に起き上がると意外にも頭はスッキリしていて、何も考えずただ黙々と身なりを整えた。簡単に食事をとり、ゴミを外に捨てる。洗濯しようとスーツのポケットを探ると、一枚のメモが入っていた。確か女子校で殆ど面識のない先生が、去り際に渡してくれたものだ。その場では言われるがまま受け取ったのだが、今見ると住所しか書いていない。その場所は少し遠かったが、行けない距離ではなかった。
私は家にあった殆どの物を捨てると、久しぶりにきちんとした服に腕を通した。荷物は鞄一つ程になっている。今の私にはぴったりだと思った。
古い商店街を抜け、裏道を渡ってやっと着いた場所は、とっくの昔に閉められたのだと判断する程に色褪せていた。それでも一応確かめるために、変色した窓から中を覗く。殆どが紙に覆われていた。鍵が開かなかったら帰ろう、そう思ってから戸を叩く。慎重に開けようと思ったのに、ネジが緩んでいるのか、軽い扉は簡単に開いてしまった。中の紙が何枚か宙に舞う。
引き返そうと足を動かした時、紙の中で何かが動いた。蠢いているようにも見える。何故か動けずにそれを見ていると、中から一人の男が起き上がった。初対面で分かる胡散臭さだ。彼の姿勢や表情、そして声までもよく見る詐欺師そのままだった。
「あれぇ? もしかしてお客様? じゃなくて新しい兵士?」
私は何も返すことができなかった。相手は勝手に一人で話を進める。
「何度言ってもここは立ち退きませんよぉ。私がオーナーじゃないから許可が出せないんです。しかも今更こんなところを潰したところで町自体が死んでますからぁ、復興なんて……ってあれ、これは本当にお客さんのようだ」
どうも失礼、とペラペラになった革の帽子を外した。彼がハンカチを取り出して、顔を拭き出してからこの部屋が暑いことに気がついた。冷房の類はない。私は一枚脱いで、ソファーに腰掛けた。足元には紙が積んである。
「ようこそ。よくこんなところまで。さすがに誰かのご案内があってでしょう」
「あ、そうです……この人は知っていますか」
忘れていた気がしたが、記憶にはまだ残っていたようだ。自分で口にしてから、そんな名前だったなと思い返す。
「ううむ、私の知り合いじゃあないですね。その人もツテで知ったのでしょう。まぁいいです。まだお若いように見えるが、貴方も先生なんでしょう? 新しいお仕事ですか」
男が値踏みするようにこちらを見上げた。そういえば、彼にこの紙をもらった時そんなことを言われた気がする。仕事を紹介する為に渡してくれたのか。鮮明には思い出せないが。
彼に教えてもらった学校はどう考えても地雷だったが、私にはちょうど良かった。聞いたことのない土地、人里から離れた場所。これが詐欺でもちょっとした旅行だと思えばいい。そしてその知らない土地に私は埋まるのだ。ちゃんと土に還るかは分からないが。
ギリギリのお金で汽車を乗り継ぎ、異国の街を歩く。レンガの道から港まで。見たことのない服装、聞いたことのない言葉。まるで映画の世界に迷い込んだみたいだった。馬車に乗り、とにかく森を目指してくれと伝えた。余っていた金の全てを渡すと、彼は馬を叩いた。
そうしてここに辿り着き、彼らと会った。今は束の間の幸せなのかもしれない。それでも私は幸せを感じていた。私はこれから、彼らを地獄に連れていく死神になるのかもしれない。そうだとしても手放せないだろう。不幸なことに、彼らには逃げ場がない。私は誓おう。この先どんなことになろうとも、彼らと運命を共にすると。
「私は君達に会えて良かった。ここに来て初めて、私という人間に立場を与えてくれた。必要とされていることが、こんなに幸せだとは知らなかった。先生なんていう存在が自分に正しいのかは分からないけど、君たちがそうだと言ってくれるなら、私は君達の先生でいられる。でも……やっぱり私には分からないんだ。答えを教えることはできるかもしれないけど、人としての正しさや、どうやって生きていけばいいのかは、私も知らない。無責任でごめんね。だから私は……少しずつ先生を皆に教えてもらいながら、時にはただの人間同士で、分かり合っていきたいんだ」
時間が遅くなってしまった。そろそろ眠たい頃だろう。立ち上がって、ロウソクに火をつけた。ぼんやりと皆の姿が照らされる。
廊下に出ると、やっと声を取り戻したかのように、か細い声で私を呼んでくれた。馴染んでしまった先生という声に、意外なくらい自分でも心地良さを感じていた。先生は生徒がいなくては存在できない。生徒が先生を創り上げていく。ああだから一人で奮起しても、駄目だったのか。
これでやっと過去の呪縛から解かれた気がする。これから少しずつ昔は忘れられていくのだろう。彼らに染められて、ここでの思い出ばかりになる。これ以上の幸せがあるだろうか。
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