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流転の家 ― 泡の記憶に棲むもの
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この街を、時々、川だと思うことがある。
ビルの谷間を風が抜け、夜の光がきらきらと流れていく。その中で、人も車も絶え間なく動いている。けれど、ふと立ち止まると、気づくのだ――昨日見たはずの人の顔が、ひとつも思い出せない。
まるで川面の泡のように、ひとつ生まれては、ひとつ消える。
私は、その流れの中に立っているだけの、泡の一つなのかもしれない。
十年前、私は郊外に中古の一軒家を買った。
不動産屋は「前の持ち主は転勤で引っ越した」と言っていた。築三十年、少し古びてはいるが、どこか温もりを感じる家だった。
最初の夜、私は寝室の天井を見上げながら、どこかから水の滴る音を聞いた。
――ぽた、ぽた、ぽた。
翌朝、天井裏を覗いても、漏水の跡などなかった。代わりに、古びた木の柱に、無数の小さな泡のような白い斑点が浮かんでいた。
指で触れると、ぷつり、と弾けた。
数ヶ月後、隣の家の老人が話しかけてきた。
「また若い人が来たのか。あの家は長くもたんねえ」
どういう意味か尋ねると、老人は煙草をくゆらせながら、ぼそりとつぶやいた。
「住むたびに、ひとりずつ消えるんだよ。泡みたいに。」
冗談だと思って笑った。
けれど、その夜から夢を見るようになった。
夢の中で、私は家の廊下を歩いている。
床の板の隙間から、ぼこぼこと泡が湧き上がり、廊下を満たしていく。泡の中には、人の顔がある。
老婆、青年、子ども。
それぞれが、口をぱくぱくと動かしている。
――「どこへ流れるのか」「どこへ帰るのか」
目が覚めると、布団の上に小さな水滴が落ちていた。天井から――いや、どこからともなく。
やがて私は気づいた。
この家の壁紙の下に、無数の薄い層がある。
それは塗り重ねられたペンキでも、カビでもない。
――人の手跡だ。
指先の跡が幾重にも重なり、まるで泡が重なって弾けたような模様を作っていた。
どの跡も、壁の中に向かって伸びている。外ではなく、内側へ。
ある晩、私はその一つを剥がした。
そこには、古びた写真が貼りついていた。
笑顔の家族。
――けれど、私がこの家を買った時に見せられた“前の住人”の家族写真と、まったく同じ顔だった。
翌朝、玄関の外に立つと、通りの景色が違っていた。
道路の舗装が新しく、隣家も見知らぬ建物に変わっている。
昨日まであった古い商店街も、ガラス張りのタワーに姿を変えていた。
私はスマートフォンを取り出したが、通信も圏外。
家に戻ると、壁の泡がひとつ、ふたつと弾け、代わりに新しい声が響いた。
――「おかえりなさい。あなたの番ですよ。」
今、私は壁の中にいる。
指先を動かすたび、泡がひとつ、ふたつ、生まれていく。
やがてそれは、また誰かの夢の中で弾けるのだろう。
流れゆく川のように、人も家も、止まることがない。
ただひとつ確かなのは、この家が、決して“空き家”になったことがないということ。
泡は消える。
だが、泡の記憶は、流れの底に沈みつづけている。
ビルの谷間を風が抜け、夜の光がきらきらと流れていく。その中で、人も車も絶え間なく動いている。けれど、ふと立ち止まると、気づくのだ――昨日見たはずの人の顔が、ひとつも思い出せない。
まるで川面の泡のように、ひとつ生まれては、ひとつ消える。
私は、その流れの中に立っているだけの、泡の一つなのかもしれない。
十年前、私は郊外に中古の一軒家を買った。
不動産屋は「前の持ち主は転勤で引っ越した」と言っていた。築三十年、少し古びてはいるが、どこか温もりを感じる家だった。
最初の夜、私は寝室の天井を見上げながら、どこかから水の滴る音を聞いた。
――ぽた、ぽた、ぽた。
翌朝、天井裏を覗いても、漏水の跡などなかった。代わりに、古びた木の柱に、無数の小さな泡のような白い斑点が浮かんでいた。
指で触れると、ぷつり、と弾けた。
数ヶ月後、隣の家の老人が話しかけてきた。
「また若い人が来たのか。あの家は長くもたんねえ」
どういう意味か尋ねると、老人は煙草をくゆらせながら、ぼそりとつぶやいた。
「住むたびに、ひとりずつ消えるんだよ。泡みたいに。」
冗談だと思って笑った。
けれど、その夜から夢を見るようになった。
夢の中で、私は家の廊下を歩いている。
床の板の隙間から、ぼこぼこと泡が湧き上がり、廊下を満たしていく。泡の中には、人の顔がある。
老婆、青年、子ども。
それぞれが、口をぱくぱくと動かしている。
――「どこへ流れるのか」「どこへ帰るのか」
目が覚めると、布団の上に小さな水滴が落ちていた。天井から――いや、どこからともなく。
やがて私は気づいた。
この家の壁紙の下に、無数の薄い層がある。
それは塗り重ねられたペンキでも、カビでもない。
――人の手跡だ。
指先の跡が幾重にも重なり、まるで泡が重なって弾けたような模様を作っていた。
どの跡も、壁の中に向かって伸びている。外ではなく、内側へ。
ある晩、私はその一つを剥がした。
そこには、古びた写真が貼りついていた。
笑顔の家族。
――けれど、私がこの家を買った時に見せられた“前の住人”の家族写真と、まったく同じ顔だった。
翌朝、玄関の外に立つと、通りの景色が違っていた。
道路の舗装が新しく、隣家も見知らぬ建物に変わっている。
昨日まであった古い商店街も、ガラス張りのタワーに姿を変えていた。
私はスマートフォンを取り出したが、通信も圏外。
家に戻ると、壁の泡がひとつ、ふたつと弾け、代わりに新しい声が響いた。
――「おかえりなさい。あなたの番ですよ。」
今、私は壁の中にいる。
指先を動かすたび、泡がひとつ、ふたつ、生まれていく。
やがてそれは、また誰かの夢の中で弾けるのだろう。
流れゆく川のように、人も家も、止まることがない。
ただひとつ確かなのは、この家が、決して“空き家”になったことがないということ。
泡は消える。
だが、泡の記憶は、流れの底に沈みつづけている。
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