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品川心中異聞 ― 北八の影を見た遊女の記録
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春の夕べ。
品川の宿場には、潮と線香の匂いが混じっていた。
港の波止場で焼かれた蛤の殻が、月明かりを跳ね返す。
その光を見上げながら、女は薄く笑った。
「また一人、戻らない男が出たねえ……」
彼女の名は お栄。
かつて“遊女心中”で名を馳せたが、実際には死ななかった。
身請けした男が、先に崖下に落ちたからだ。
お栄はその夜から、人の影を見る目を持ったという。
普通の人には見えない、「連れているもの」が見えるようになった。
その晩、お栄の茶屋に二人の男が入ってきた。
朽木草鞋に、蛤柄の浴衣。
「お伊勢参りの途中でな、ちょいと一杯」と笑う弥次郎兵衛。
横で北八が、黙って湯呑を握っていた。
だが、お栄には見えてしまった。
――北八の影が、床に落ちていないことを。
彼の背後には、黒い形が這っていた。
人でもなく、獣でもなく、
ただの「空洞」が、彼の足にまとわりついていた。
お栄は気づかぬふりをして、酒を注いだ。
その手が震えて、徳利の口から滴がこぼれた。
その一滴が畳に落ちると、まるで血のように黒く広がった。
「おかみさん、どうした?」
弥次郎兵衛が笑う。
「いやねえ、ちょいと寒気がして……」
お栄は袖で口を隠した。
――この男も、もう長くはない。
夜半。
弥次郎兵衛が酔いつぶれて眠った後、北八がひとり、縁側に立っていた。
海の方を見て、ぶつぶつと呟いている。
「俺は……行かねばならぬ。
けれど、あいつが……あいつが離してくれねぇ。」
お栄が声をかけようとしたとき、北八の足元がふいに揺れた。
影のない男の周りに、潮のような黒いもやが集まる。
そして、何かが彼の背中を引きずり込んだ。
海鳴りのような音とともに、北八の姿が消えた。
畳の上には、泥の跡が一列。
――片方分だけ。
弥次郎兵衛は朝になっても、そのことに気づかぬように旅支度を整え、
「じゃあ、おかみさん、また来るぜ」と笑った。
だが、お栄には分かっていた。
彼の影が、二つに裂けていたことを。
それから三日後。
品川の海岸で、北八と名乗る男の亡骸が上がった。
だが不思議なことに、顔が無かった。
皮膚は滑らかで、まるで粘土のようだったという。
漁師たちは「波に磨かれたんだろう」と笑ったが、
お栄だけは知っていた。
あれは、弥次郎兵衛の影が“剥がれた”ものだ、と。
夜ごと、茶屋の前を通る風が、
「高輪へ来て忘れたことばかり」と笑いながら通り過ぎる。
お栄は耳を塞ぐが、その声は耳の中で続く。
「お伊勢に行こう、もう一度。
今度は影も連れて。」
弥次郎兵衛の旅は続く。
だが、道中で彼が写した影絵には、いつも“もう一人の北八”がいた。
旅の笑い話の裏で、
笑っていたのは影の方だったのかもしれない。
品川の宿場には、潮と線香の匂いが混じっていた。
港の波止場で焼かれた蛤の殻が、月明かりを跳ね返す。
その光を見上げながら、女は薄く笑った。
「また一人、戻らない男が出たねえ……」
彼女の名は お栄。
かつて“遊女心中”で名を馳せたが、実際には死ななかった。
身請けした男が、先に崖下に落ちたからだ。
お栄はその夜から、人の影を見る目を持ったという。
普通の人には見えない、「連れているもの」が見えるようになった。
その晩、お栄の茶屋に二人の男が入ってきた。
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「お伊勢参りの途中でな、ちょいと一杯」と笑う弥次郎兵衛。
横で北八が、黙って湯呑を握っていた。
だが、お栄には見えてしまった。
――北八の影が、床に落ちていないことを。
彼の背後には、黒い形が這っていた。
人でもなく、獣でもなく、
ただの「空洞」が、彼の足にまとわりついていた。
お栄は気づかぬふりをして、酒を注いだ。
その手が震えて、徳利の口から滴がこぼれた。
その一滴が畳に落ちると、まるで血のように黒く広がった。
「おかみさん、どうした?」
弥次郎兵衛が笑う。
「いやねえ、ちょいと寒気がして……」
お栄は袖で口を隠した。
――この男も、もう長くはない。
夜半。
弥次郎兵衛が酔いつぶれて眠った後、北八がひとり、縁側に立っていた。
海の方を見て、ぶつぶつと呟いている。
「俺は……行かねばならぬ。
けれど、あいつが……あいつが離してくれねぇ。」
お栄が声をかけようとしたとき、北八の足元がふいに揺れた。
影のない男の周りに、潮のような黒いもやが集まる。
そして、何かが彼の背中を引きずり込んだ。
海鳴りのような音とともに、北八の姿が消えた。
畳の上には、泥の跡が一列。
――片方分だけ。
弥次郎兵衛は朝になっても、そのことに気づかぬように旅支度を整え、
「じゃあ、おかみさん、また来るぜ」と笑った。
だが、お栄には分かっていた。
彼の影が、二つに裂けていたことを。
それから三日後。
品川の海岸で、北八と名乗る男の亡骸が上がった。
だが不思議なことに、顔が無かった。
皮膚は滑らかで、まるで粘土のようだったという。
漁師たちは「波に磨かれたんだろう」と笑ったが、
お栄だけは知っていた。
あれは、弥次郎兵衛の影が“剥がれた”ものだ、と。
夜ごと、茶屋の前を通る風が、
「高輪へ来て忘れたことばかり」と笑いながら通り過ぎる。
お栄は耳を塞ぐが、その声は耳の中で続く。
「お伊勢に行こう、もう一度。
今度は影も連れて。」
弥次郎兵衛の旅は続く。
だが、道中で彼が写した影絵には、いつも“もう一人の北八”がいた。
旅の笑い話の裏で、
笑っていたのは影の方だったのかもしれない。
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