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桜坂に帰る日
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朝霧がゆっくりと晴れていく。
桜坂の上からは、春の陽が柔らかく差し込み、無数の花びらが風に舞っていた。
白衣を脱いだ美咲は、その坂を一歩ずつ上がっていった。
手には、小さな花束。
淡いピンクのガーベラと、ポチが好きだった黄色いリボン。
獣医として働き始めてから、初めて迎える春の休日。
——この道を歩くのは、何年ぶりだろう。
耳に残る風の音。
そして、心の奥から聴こえてくる声。
「ポチ、もうすぐだよ。」
声に応えるように、桜の枝が揺れた。
花びらがひとひら、美咲の肩に落ちる。
それをそっと手のひらに受け止めながら、彼女は微笑んだ。
坂の上には、あの「約束の丘」。
小さな石碑があり、そこに手を合わせる人影もない。
でも、美咲には見える気がした。
ポチがここを走り回っていた日の光景が。
ランドセルを背負った自分と、笑いながら追いかけっこをする小さな背中。
「ポチ、覚えてる? ここで転んで、君が私の顔をぺろぺろ舐めてくれたんだよ。」
風が吹いた。
桜の花びらが渦を巻くように舞い上がり、光を反射して一瞬だけ空が白く輝いた。
——その中に、確かに彼がいた。
光の粒の中から、茶色の小さな影が現れる。
子犬の姿でもなく、年老いた姿でもない。
あの日、美咲の記憶の中でいちばん幸せだった、あの頃のポチ。
「……ポチ。」
声が震える。
涙が、勝手に頬を伝っていく。
ポチはゆっくりと歩み寄り、美咲の足もとで止まった。
風が止まり、世界が静かになったようだった。
「やっと、会えたね。」
ポチはしっぽを振りながら、空気を震わせるように鳴いた。
「ワン。」
その声は、まるで春の鐘のように澄んでいて、美咲の心を包み込む。
「ポチ、見ててくれたんだね。私、もう泣かなくなったよ。
たくさんの命に出会って、救えた子もいた。救えなかった子もいた。
でもね……どの子にも、ちゃんと“ありがとう”って言えたの。」
ポチは少し首をかしげ、笑うように鳴いた。
「ワン。」
——“それでいいんだよ”
言葉がなくても伝わる。
彼はずっと、ここで見ていてくれたのだ。
「ポチ、わたしね、もうすぐ北海道の動物病院に行くんだ。
寒いところだけど、病気の子を助けたいから。」
風が吹いた。
ポチの毛並みが光を受けて揺れ、花びらがその周りで舞う。
美咲の髪も一緒に揺れた。
「だからね……見送ってほしいの。」
ポチは一歩前に出て、美咲の足もとに顔を寄せた。
そして、彼女の手のひらを見上げた。
その仕草は、あの頃と何も変わらない。
美咲は微笑みながらしゃがみ込み、両手を広げた。
「ありがとう、ポチ。」
その瞬間、風が静かに吹いた。
桜の花びらがひときわ強く舞い上がり、光が二人を包み込む。
ポチの姿が淡く透けていく。
でも、美咲の心はもう泣いていなかった。
「ポチ——またね。」
ポチは優しく目を細め、
風の中でひと声だけ鳴いた。
「ワン。」
そして、光の粒となって空へ昇っていった。
青い空の中に消えていくまで、美咲はずっと見上げていた。
——やがて、風の匂いが変わった。
草と花と、春の命の匂い。
あの日と同じ、あの風。
彼女は空を見上げながら、静かに言った。
「行ってきます、ポチ。」
夕暮れ。
桜坂の影が長く伸びる。
坂の下では、小学生たちが笑いながら犬を追いかけていた。
その犬がふと立ち止まり、丘の上の美咲を見上げて尻尾を振る。
その姿が、一瞬だけ——ポチに見えた。
美咲は笑った。
「またね。」
そう言って歩き出したその背中に、
夕日の光がまっすぐ差し込み、
桜の花びらが後ろ姿を包み込むように舞った。
——春の風。
——やさしい光。
——そして、永遠の約束。
彼女の胸の中には、今もあの日の鈴の音が響いていた。
チリン。
静かに、そして確かに。
桜坂の上からは、春の陽が柔らかく差し込み、無数の花びらが風に舞っていた。
白衣を脱いだ美咲は、その坂を一歩ずつ上がっていった。
手には、小さな花束。
淡いピンクのガーベラと、ポチが好きだった黄色いリボン。
獣医として働き始めてから、初めて迎える春の休日。
——この道を歩くのは、何年ぶりだろう。
耳に残る風の音。
そして、心の奥から聴こえてくる声。
「ポチ、もうすぐだよ。」
声に応えるように、桜の枝が揺れた。
花びらがひとひら、美咲の肩に落ちる。
それをそっと手のひらに受け止めながら、彼女は微笑んだ。
坂の上には、あの「約束の丘」。
小さな石碑があり、そこに手を合わせる人影もない。
でも、美咲には見える気がした。
ポチがここを走り回っていた日の光景が。
ランドセルを背負った自分と、笑いながら追いかけっこをする小さな背中。
「ポチ、覚えてる? ここで転んで、君が私の顔をぺろぺろ舐めてくれたんだよ。」
風が吹いた。
桜の花びらが渦を巻くように舞い上がり、光を反射して一瞬だけ空が白く輝いた。
——その中に、確かに彼がいた。
光の粒の中から、茶色の小さな影が現れる。
子犬の姿でもなく、年老いた姿でもない。
あの日、美咲の記憶の中でいちばん幸せだった、あの頃のポチ。
「……ポチ。」
声が震える。
涙が、勝手に頬を伝っていく。
ポチはゆっくりと歩み寄り、美咲の足もとで止まった。
風が止まり、世界が静かになったようだった。
「やっと、会えたね。」
ポチはしっぽを振りながら、空気を震わせるように鳴いた。
「ワン。」
その声は、まるで春の鐘のように澄んでいて、美咲の心を包み込む。
「ポチ、見ててくれたんだね。私、もう泣かなくなったよ。
たくさんの命に出会って、救えた子もいた。救えなかった子もいた。
でもね……どの子にも、ちゃんと“ありがとう”って言えたの。」
ポチは少し首をかしげ、笑うように鳴いた。
「ワン。」
——“それでいいんだよ”
言葉がなくても伝わる。
彼はずっと、ここで見ていてくれたのだ。
「ポチ、わたしね、もうすぐ北海道の動物病院に行くんだ。
寒いところだけど、病気の子を助けたいから。」
風が吹いた。
ポチの毛並みが光を受けて揺れ、花びらがその周りで舞う。
美咲の髪も一緒に揺れた。
「だからね……見送ってほしいの。」
ポチは一歩前に出て、美咲の足もとに顔を寄せた。
そして、彼女の手のひらを見上げた。
その仕草は、あの頃と何も変わらない。
美咲は微笑みながらしゃがみ込み、両手を広げた。
「ありがとう、ポチ。」
その瞬間、風が静かに吹いた。
桜の花びらがひときわ強く舞い上がり、光が二人を包み込む。
ポチの姿が淡く透けていく。
でも、美咲の心はもう泣いていなかった。
「ポチ——またね。」
ポチは優しく目を細め、
風の中でひと声だけ鳴いた。
「ワン。」
そして、光の粒となって空へ昇っていった。
青い空の中に消えていくまで、美咲はずっと見上げていた。
——やがて、風の匂いが変わった。
草と花と、春の命の匂い。
あの日と同じ、あの風。
彼女は空を見上げながら、静かに言った。
「行ってきます、ポチ。」
夕暮れ。
桜坂の影が長く伸びる。
坂の下では、小学生たちが笑いながら犬を追いかけていた。
その犬がふと立ち止まり、丘の上の美咲を見上げて尻尾を振る。
その姿が、一瞬だけ——ポチに見えた。
美咲は笑った。
「またね。」
そう言って歩き出したその背中に、
夕日の光がまっすぐ差し込み、
桜の花びらが後ろ姿を包み込むように舞った。
——春の風。
——やさしい光。
——そして、永遠の約束。
彼女の胸の中には、今もあの日の鈴の音が響いていた。
チリン。
静かに、そして確かに。
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