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第十三話 謀略
誰にも気づかれないほどの小さな笑み。そして心の中で、静かに呟く。
(さて)
フィオレラは静かに続けた。
(公爵家のお嬢様は、どこまで上品でいられるのかしら)
青い瞳がわずかに細められる。だがその表情は、周囲から見ればただ穏やかに食事を楽しんでいる令嬢のものに過ぎない。
教室の空気は落ち着いていた。
ナイフが皿へ触れる音。
グラスがかすかに鳴る音。
そして教師が机の間をゆっくり歩く靴音。
すべてが静かに流れている。
レーネは皿の上の料理を小さく切り分けた。フォークへ乗せる量も控えめで、口元へ運ぶ動きは滑らかだ。顎の角度、背筋の伸び方、すべてが教えられた通りの形を保っている。
その様子を、周囲の生徒たちも自然と目で追っていた。
昼休みに交わされた会話を覚えている者は少なくない。
公爵家の所作。
見てみたいという言葉。
だからこそ、視線が集まる。
レーネは気づいているのかいないのか、特に表情を変えないままフォークを持ち上げた。
料理が口へ運ばれる。
ほんの一口。
その瞬間だった。
強い刺激が舌へ走る。
舌先ではなく、喉の奥へ刺さるような辛味。香りよりも先に、刺激が鼻へ突き抜ける。
レーネの眉がわずかに動いた。
予想していない強さだった。
しかし彼女はすぐに噛み、飲み込もうとする。作法の授業である以上、咄嗟に吐き出すわけにはいかない。
だが次の瞬間。
鼻の奥へ、さらに鋭い刺激が抜けた。
──くっ
反射だった。
喉が勝手に閉じる。
息が詰まり、胸の奥から空気が押し出される。
「……っ、」
小さな咳が漏れた。
レーネはすぐに口元へ手を添える。だが抑えきれない。
「っ……、」
もう一度、咳が出る。
フォークが皿へ触れ、小さな金属音が鳴った。
近くの席の生徒が顔を上げる。
「……?」
咳は一度では収まらない。強い胡椒の刺激が喉の奥へ残り、息を吸うたびに咳が込み上げる。
レーネは急いでグラスへ手を伸ばした。
水を口に含む。
だがそれでも、完全には止まらない。
「……失礼、」
声を抑えようとするが、わずかに掠れていた。
教室の空気が少しだけ変わる。
静かだった視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
教師の足が止まる。
「アルヴィス嬢?」
落ち着いた声だった。
咳はどうにか収まったが、喉に残る刺激のせいで呼吸がわずかに浅い。
レーネはグラスの水をもう一口含み、どうにか呼吸を整えた。喉の奥にはまだ刺激が残っている。胸の内側がじんと熱く、息を吸うたびにわずかなむず痒さが走った。
教室の視線が、ゆっくりとこちらへ集まっている。
レーネはそれを感じ取りながらも、できるだけ落ち着いた動きでナプキンを整えた。
教師が机のそばへ歩み寄る。
「アルヴィス嬢、体調は大丈夫ですか」
「はい……少し咳き込んでしまいました。申し訳ありません」
そう静かに頭を下げる。
教師は皿をちらりと見下ろしたが、そこに異常は見当たらない。
「無理はしないように」
「ありがとうございます」
短いやり取りだった。
教師が離れると、教室の空気は再び実習へ戻ろうとする。
しかし完全には元へ戻らない。
周囲の生徒たちは、まだわずかにこちらを見ていた。
そのときだった。
「アルヴィス様」
穏やかな声が響く。
レーネが視線を向けると、数席離れた場所からフィオレラがこちらを見ていた。青い瞳は柔らかく細められ、どこか心配そうな表情を浮かべている。
「大丈夫ですの?」
「ええ……もう問題ありません」
レーネが答えると、フィオレラは小さく頷いた。
「それならよかったですわ」
そこで、ほんの一拍だけ間が置かれる。
その沈黙は短かったが、なぜか周囲の耳を引いた。
フィオレラはフォークを軽く置き、グラスへ指先を添える。
そして柔らかな微笑みを浮かべたまま、何気ない調子で続けた。
「公爵家のお嬢様は、味覚も上品でいらっしゃるのですね」
言葉は静かだった。
決して強い声ではない。
だがその場にいた令嬢たちには、はっきりと聞こえる。
「……」
一瞬だけ空気が止まる。
近くの席の令嬢が、思わず料理をもう一口食べた。
特別辛くもない。
普通の味だ。
だからこそ、視線が再びレーネへ向いた。
「……そうかもしれませんわね」
誰かが小さく笑う。
「少し味が強いだけで驚いてしまわれたのかも」
その声は悪意というほどではない。だがどこか、楽しんでいるようでもあった。
レーネはそれを聞きながら、表情を変えない。
ナイフとフォークを持ち直す。
呼吸はまだ完全には整っていないが、姿勢は崩さない。
再び料理を切り分ける。
その動きは、先ほどよりほんのわずかだけ慎重だった。
フィオレラはその様子を見つめている。
青い瞳の奥に、静かな光が揺れていた。
(まだ始まったばかりですもの)
彼女はゆっくりとフォークを持ち上げる。
教室では再び食事の音が続いていた。
銀器の触れ合う音。
皿へ落ちる小さな影。
その静かな実習の席で、ただ一人──
フィオレラだけが、次の瞬間を楽しみに待っていた。
(さて)
フィオレラは静かに続けた。
(公爵家のお嬢様は、どこまで上品でいられるのかしら)
青い瞳がわずかに細められる。だがその表情は、周囲から見ればただ穏やかに食事を楽しんでいる令嬢のものに過ぎない。
教室の空気は落ち着いていた。
ナイフが皿へ触れる音。
グラスがかすかに鳴る音。
そして教師が机の間をゆっくり歩く靴音。
すべてが静かに流れている。
レーネは皿の上の料理を小さく切り分けた。フォークへ乗せる量も控えめで、口元へ運ぶ動きは滑らかだ。顎の角度、背筋の伸び方、すべてが教えられた通りの形を保っている。
その様子を、周囲の生徒たちも自然と目で追っていた。
昼休みに交わされた会話を覚えている者は少なくない。
公爵家の所作。
見てみたいという言葉。
だからこそ、視線が集まる。
レーネは気づいているのかいないのか、特に表情を変えないままフォークを持ち上げた。
料理が口へ運ばれる。
ほんの一口。
その瞬間だった。
強い刺激が舌へ走る。
舌先ではなく、喉の奥へ刺さるような辛味。香りよりも先に、刺激が鼻へ突き抜ける。
レーネの眉がわずかに動いた。
予想していない強さだった。
しかし彼女はすぐに噛み、飲み込もうとする。作法の授業である以上、咄嗟に吐き出すわけにはいかない。
だが次の瞬間。
鼻の奥へ、さらに鋭い刺激が抜けた。
──くっ
反射だった。
喉が勝手に閉じる。
息が詰まり、胸の奥から空気が押し出される。
「……っ、」
小さな咳が漏れた。
レーネはすぐに口元へ手を添える。だが抑えきれない。
「っ……、」
もう一度、咳が出る。
フォークが皿へ触れ、小さな金属音が鳴った。
近くの席の生徒が顔を上げる。
「……?」
咳は一度では収まらない。強い胡椒の刺激が喉の奥へ残り、息を吸うたびに咳が込み上げる。
レーネは急いでグラスへ手を伸ばした。
水を口に含む。
だがそれでも、完全には止まらない。
「……失礼、」
声を抑えようとするが、わずかに掠れていた。
教室の空気が少しだけ変わる。
静かだった視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
教師の足が止まる。
「アルヴィス嬢?」
落ち着いた声だった。
咳はどうにか収まったが、喉に残る刺激のせいで呼吸がわずかに浅い。
レーネはグラスの水をもう一口含み、どうにか呼吸を整えた。喉の奥にはまだ刺激が残っている。胸の内側がじんと熱く、息を吸うたびにわずかなむず痒さが走った。
教室の視線が、ゆっくりとこちらへ集まっている。
レーネはそれを感じ取りながらも、できるだけ落ち着いた動きでナプキンを整えた。
教師が机のそばへ歩み寄る。
「アルヴィス嬢、体調は大丈夫ですか」
「はい……少し咳き込んでしまいました。申し訳ありません」
そう静かに頭を下げる。
教師は皿をちらりと見下ろしたが、そこに異常は見当たらない。
「無理はしないように」
「ありがとうございます」
短いやり取りだった。
教師が離れると、教室の空気は再び実習へ戻ろうとする。
しかし完全には元へ戻らない。
周囲の生徒たちは、まだわずかにこちらを見ていた。
そのときだった。
「アルヴィス様」
穏やかな声が響く。
レーネが視線を向けると、数席離れた場所からフィオレラがこちらを見ていた。青い瞳は柔らかく細められ、どこか心配そうな表情を浮かべている。
「大丈夫ですの?」
「ええ……もう問題ありません」
レーネが答えると、フィオレラは小さく頷いた。
「それならよかったですわ」
そこで、ほんの一拍だけ間が置かれる。
その沈黙は短かったが、なぜか周囲の耳を引いた。
フィオレラはフォークを軽く置き、グラスへ指先を添える。
そして柔らかな微笑みを浮かべたまま、何気ない調子で続けた。
「公爵家のお嬢様は、味覚も上品でいらっしゃるのですね」
言葉は静かだった。
決して強い声ではない。
だがその場にいた令嬢たちには、はっきりと聞こえる。
「……」
一瞬だけ空気が止まる。
近くの席の令嬢が、思わず料理をもう一口食べた。
特別辛くもない。
普通の味だ。
だからこそ、視線が再びレーネへ向いた。
「……そうかもしれませんわね」
誰かが小さく笑う。
「少し味が強いだけで驚いてしまわれたのかも」
その声は悪意というほどではない。だがどこか、楽しんでいるようでもあった。
レーネはそれを聞きながら、表情を変えない。
ナイフとフォークを持ち直す。
呼吸はまだ完全には整っていないが、姿勢は崩さない。
再び料理を切り分ける。
その動きは、先ほどよりほんのわずかだけ慎重だった。
フィオレラはその様子を見つめている。
青い瞳の奥に、静かな光が揺れていた。
(まだ始まったばかりですもの)
彼女はゆっくりとフォークを持ち上げる。
教室では再び食事の音が続いていた。
銀器の触れ合う音。
皿へ落ちる小さな影。
その静かな実習の席で、ただ一人──
フィオレラだけが、次の瞬間を楽しみに待っていた。
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