公爵家の次女ですが、静かに学園生活を送るつもりでした

佐伯かなた

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第十六話 矜持

 教師は机の間をゆっくりと歩いていた。

 生徒たちの姿勢を確認し、ナイフとフォークの使い方へ静かに目を配る。

 誰かを叱るわけでもなく、ただ動きを見て回るだけだが、その視線は細かなところまで逃さない。

 やがてレーネの席の横へ来たとき、教師の足がわずかに止まった。

 レーネは料理を切り分けているところだった。

 ナイフの刃が皿の上で静かな音を立てる。

 動きは落ち着いている。

 だが教師の目には、ひとつだけ気になる点があった。

 ナイフを持つ指の角度。

 そして、柄へかけられている力の向き。

(……?)

 ほんのわずかな違和感だった。

 教本通りと言えばそう見える。

 しかし同時に、どこか別の意図が含まれているようにも見える。

 教師は一歩だけ近づき、机の上を見下ろした。

 レーネの手元では、ナイフが静かに動いている。

 刃を入れる角度。

 フォークで押さえる位置。

 そして食材を切り分ける速度。

 そのすべてが安定していた。

 むしろ、教室の他の生徒よりも整っていると言っていい。

 それでも教師は視線をナイフへ落とした。

 柄の部分。

 光を受けた銀の表面に、ほんのわずかな違和感がある。

 教師は黙ったまま手を伸ばした。

「アルヴィス嬢」

 穏やかな声だった。

「はい」

 レーネは手を止める。

「そのナイフを少し拝見してもよろしいですか」

「どうぞ」

 レーネは特に戸惑う様子もなく、ナイフを差し出した。

 教師はそれを受け取る。

 柄の部分へ指先を触れた。

 次の瞬間、指がほんのわずかに滑る。

 教師の眉がごく小さく動いた。

 布を取り出し、柄を軽く拭う。

 白い布に、うっすらと光る跡が残った。

 油だった。

 近くの席の令嬢が思わず息を呑む。

 しかし教師は何も言わない。

 ただ布で柄をもう一度拭き、ナイフを机へ戻した。

 それから教室を見回す。

「皆さん」

 静かな声だった。

 ざわめきが自然と止まる。

「食事の作法は、道具が整っていることを前提に教えられます」

 ゆっくりとした口調で続ける。

「ですが実際の場では、必ずしもそうとは限りません」

 教師はナイフを軽く持ち上げた。

「滑りやすい道具、重さの違う道具、刃の鈍い道具」

 銀の刃が光を受ける。

「そのような状況でも、所作を乱さないこと」

 短い間を置く。

「それもまた、作法の一部です」

 そう言ってから、レーネへ視線を向けた。

「アルヴィス嬢」

「はい」

「今の動きを、もう一度見せていただけますか」

 教室の空気が静まる。

 多くの視線が集まった。

 レーネは軽く頷く。

 フォークを持つ。

 ナイフを手に取る。

 刃を料理へ入れる。

 ゆっくりと。

 正確に。

 刃の角度を保ったまま、食材が静かに切り分けられていく。

 フォークがそれを受け止め、皿の上へ整える。

 動きは穏やかだった。

 無理な力はかかっていない。

 それでもナイフは一度も滑らない。

 教師はその手元を見て、小さく頷いた。

「よく見ておきなさい」

 教室へ向けて言う。

「動作が整っていれば、道具が多少扱いにくくとも問題にはなりません」

 静かな声だった。

 だがその言葉ははっきりと教室に響いた。

 令嬢たちの視線がレーネへ集まる。

 前回とは違う意味で。

 フィオレラは席に座ったまま、その様子を見ていた。

 青い瞳がわずかに揺れる。

 ナイフは確かに滑るはずだった。

 ほんの少し触れただけでも、手元が狂う程度には。

 それなのに。

 レーネは最初から動きを乱さなかった。

 教師に言われるまで、何も言わず。

 ただ、普段通りに食事を続けていた。

(……気づいていたの?)

 答えはもう分かっている。

 そうでなければ、あの握り方はしない。

 あの角度にもならない。

 つまり最初から。

 レーネはナイフの状態に気づいていた。

 そして──

 何も言わなかった。

 フィオレラの胸の奥に、説明のつかない感覚が残る。

 怒りでもない。

 悔しさとも少し違う。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

 レーネ・アルヴィスは。

 自分が考えていたような相手ではない。

 教室の中では、再び食事の音が戻り始めていた。

 レーネはナイフを布で軽く拭く。

 それから静かにフォークを持ち上げた。

 姿勢は変わらない。

 顎の角度も、背筋の伸び方も。

 何事もなかったかのように、食事を続ける。

 ただその所作だけが。

 先ほどよりも、ほんの少しだけ多くの視線を集めていた。
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