公爵家の次女ですが、静かに学園生活を送るつもりでした

佐伯かなた

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第十九話 返答

 アルヴィス公爵家の朝は、いつもと変わらぬ静けさの中で始まる。

 高い天井の廊下には足音が柔らかく響き、窓から差し込む光が床に淡い影を落としていた。手入れの行き届いた空気は澄んでおり、屋敷全体が整えられていることを感じさせる。

 レーネは自室で、机の上に置かれた封筒へと視線を落としていた。

 白い上質な紙。

 中央には、精緻な紋章が刻まれている。

 翼を広げた梟。

 中級貴族の家系に連なる印だ。

 見覚えがあった。

 これまで幾度となく、この屋敷へ届けられてきたものだ。

 ただし──それは常に、姉ソフィア宛だった。

 レーネは封を切り、中の手紙を取り出す。

 簡潔で整った文面。

 一学期修了後の休み明けに開かれる夜会への招待。

 王立学園に通う貴族子女を広く招くものだと記されている。

 視線を文字の上に滑らせながら、レーネは静かに思う。

(……珍しいこともあるものですね)

 自分宛にこの種の招待が届くのは、初めてではない。

 だが、それは決して多くはなかった。

 そして大抵の場合──

 それは、ソフィアの代わりだった。

 出席できない姉に代わり、名目だけ整えるための出席。

 あるいは、家の体裁を保つための形式的な参加。

 レーネは手紙を机の上に戻す。

 窓の外では庭師が剪定をしているのが見えた。規則正しい動きで枝が整えられていく。

 その様子をしばらく眺めてから、視線を戻す。

(今回も、同じことでしょう)

 ソフィア宛にも、同じ招待が届いているはずだ。

 むしろ、本来招かれているのはあちらだ。

 幼い頃から美しいと評される姉。

 金色の髪に澄んだ瞳。誰が見ても公爵家の令嬢だと分かる気品。

 社交の場に出れば自然と人の視線を集め、その場の中心となる存在。

 将来は王子妃になるとさえ囁かれるほどの人物。

 対して自分は──

 静かに立ち、求められた役割を果たすだけの存在だ。

 それで不都合はない。

 レーネはそう思っている。

 手紙に再び目を落とす。

(中級貴族の主催……)

 規模としては決して小さくない。

 だが、上級貴族の中でも特に注目されるような場ではない。

 王子が出席するような性質のものでもないだろう。

 そうであれば──

(姉様が足を運ばれるかどうかも、分かりませんね)

 ソフィアが出席するならば、それだけで場の注目はそちらへ集まる。

 出席しないのであれば、自分が形式的に顔を出すだけのこと。

 どちらにしても、大きな意味はない。

 レーネは静かに封筒を整え、机の端へと寄せた。

 準備は必要だが、特別なものではない。

 いつも通りに整えればいい。

 それだけのことだ。

 

 その後、レーネは支度を終え、屋敷の前へと出た。

 すでに馬車が用意されている。

 御者が一礼し、扉を開いた。

 レーネは裾を軽く整え、静かに乗り込む。

 車内は落ち着いた空間だった。揺れを和らげる造りになっており、座席も柔らかい。

 扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。

 窓の外には整えられた屋敷の庭が流れていく。

 やがて門を抜け、街道へと出た。

 朝の空気は澄んでおり、遠くに見える王都の街並みがやわらかく霞んでいる。

 レーネはその景色を静かに眺めていた。

 頭の中にあるのは、先ほどの手紙。

 けれど、それに対して特別な感情は浮かばない。

 ただ一つの予定として、そこにあるだけだった。

 馬車は一定の速度で進み続ける。

 やがて王立学園の門が見えてきた。

 そのまま、いつも通りの一日が始まろうとしていた。



*****



 午後の授業が終わると、東棟の空気は少し緩む。

 椅子を引く音や、教科書を閉じる音が重なり、教室には小さなざわめきが広がっていた。

 生徒たちはそれぞれに立ち上がり、帰り支度を始める。

 レーネも静かに本を閉じ、机の上を整えた。

 そのとき、少し離れた場所から聞こえてきた声が耳に入る。

「ねえ、聞いた?」

 ひそやかな声だった。

 だが、周囲には同じように耳を傾ける者が何人かいる。

「何を?」

「休みの間の話よ」

 興味を引くような言い方だった。

 レーネは手を止めることなく、自然にその会話を聞いていた。

「ある中級貴族のご令嬢が、家筋の仕事で隣国へ赴いた時に……見かけたっていうの」

「隣国へ足を運ぶようなお家柄ってまさかオルト──」

「──ちょっと!」

「っといけない……でも誰を見かけたの?」

「アルヴィス様よ」

 その言葉に、空気がわずかに変わる。

 レーネの手元も、ほんのわずかに動きを止めた。

「アルヴィス様って……あの?」

「ええ。お姉様の方」

 ソフィアのことだった。

 話している令嬢は、周囲を見回してから声を少し落とす。

「それもね……平民の男と一緒だったらしいの」

「え……?」

 驚きの声が小さく上がる。

「本当なの?」

「分からないけど、見たって言ってる人がいるのよ」

「でも、アルヴィス様って……」

 言葉が途中で止まる。

 それ以上言わなくとも、意味は分かる。

 ソフィアには、王子との関係を噂されるほどの立場がある。

 その人物が、平民の男と。

 にわかには信じがたい話だった。

 レーネは静かに本を鞄へとしまう。

 動作はいつもと変わらない。

 だが、意識は完全にその会話へ向けられていた。

「見間違いじゃないのかしら」

「どうでしょうね。でも、とても親しそうだったって」

「親しそうって……」

 含みのある言い方に、周囲の空気がわずかに揺れる。

 レーネは立ち上がった。

 椅子を戻し、静かに教室を出る。

 廊下に出ても、先ほどの言葉は頭の中に残っていた。

(……姉様が)

 隣国で。

 平民の男と。

 それも、親しげに。

 歩きながら、思考を整理する。

 可能性はいくつかある。

 見間違い。
 噂の誇張。
 あるいは、意図的に流されたもの。

 どれもあり得る。

 だが──

(放置して良いものではありませんね)

 それが真実であれば問題だ。

 そうでなくとも、噂が広がればそれだけで影響が出る。

 アルヴィス家の名に関わる話だ。

 無視する理由はない。

 廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。

 少し傾いた陽が、床に長い影を落としている。

 レーネはその中を静かに歩く。

 頭の中で、ひとつの考えが形になっていく。

(夜会)

 今朝届いた招待状。

 あの場には、多くの貴族子女が集まる。

 情報もまた、自然と集まる場所だ。

 特にこうした噂は、社交の場でこそ広がる。

(確かめるには、都合が良いですね)

 足を止めることなく、廊下を進む。

 すでに決めていた。

 特別な意味はないと思っていた招待。

 だが、今は違う。

 行く理由ができた。

 レーネは静かに視線を前へ向ける。

 夕暮れの光の中で、その表情は変わらない。

 ただ、わずかに意識だけが研ぎ澄まされていた。
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