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失恋
しおりを挟む「涼太さん」と呼ばれるその人の登場で、斉木さんは凍りついたように固まってしまった。俺は一体この状況をどうしたらいいものかと、軽くパニックになってしまい。そんな様子に気づいて涼太さんは慌てて俺に謝る。
「お邪魔しちゃってごめんね、じゃ」
男性は軽く会釈をし、上品な笑みを軽く浮かべてその場を立ち去っていった。
「……斉木さん、大丈夫?」
明らかに様子がおかしくなった斉木さんが心配で。きっと何か複雑な事情があるということも簡単に予想がつく。
(おそらく、以前付き合ってた人、なんだろうな)
”涼太さん”は、高そうなスーツに身を包みながらも控えめで物腰柔らかく、男の自分でも憧れるようなそんな人だった。きっと良い会社に勤めて仕事もよくできる人なんだろう。上品に整った外見にしても、斉木さんの隣を歩いていて何の違和感もない人だ。
斉木さんは手元にあった水を一口飲むと、視線を合わせないまま力なく笑って言った。
「うん、急にごめんね。びっくりしちゃっただけ。……そろそろ行こっか」
会計を済ませて東京駅へ向かう。一緒に肩を並べて歩いている時も斉木さんは、心ここにあらずといった様相で何を話しかけても曖昧な返事しか返ってこなかった。
自分にできることは何かないだろうか、心配になってそう考えるも、きっと今の自分には何もない。ただ、黙って斉木さんの隣を歩くことしかできなかった。
-----
斉木さんからLINEが入ったのは、その日の夜11時過ぎだった。
"今日はありがとう。本屋さんとっても楽しかったです。最後、感じ悪くてごめんなさい。じゃあまた大学で"
ベッドの上に寝転がり、何と返信すれば良いのか、どんな対応が正解なのかしばし考える。
───本当は気になる。二人の間に何があったのか。そして、何か自分にできることがあるなら何でもやってあげたいなんて烏滸がましくも思ってしまう。でも、他者の人間関係に、ましてや好きな人の元恋人との事情に首を突っ込むなんて、無粋なものだ。
結局、俺は答えが分からないまま返信をするしかなかった。
"こちらこそありがとう"
-----
それからまた幾日か過ぎた。斉木さんとは講義とプレゼミで顔を合わせるも、二人で出かけたことなんて嘘のようにお互い目も合わせなければ話しもしなかった。
このままきっと時は過ぎて、二人の間には何も生まれないまま終わっていくのだろう。本来なら男である自分がリードして斉木さんの話を聞いてあげるなりした方が良いのかもしれない。
でも、どうしても”涼太さん”の影がチラついて離れない。情けないことに、どうやったって勝ち目のない相手を目の前にして戦意喪失するのだった。今はもう付き合っていないとは言え、もし万が一俺が斉木さんと進展があったとしても、彼の存在を超えられるような気がしない。やっぱりハイスペな斉木さんの隣を歩くのはハイスペな男性がふさわしいのであって。
斉木さんと話さない時間が増えるのに反比例して、自分の恋心は薄れていくような気がした。それでいいのではないかとさえ思った。
それからしばらくして、プレゼミの日。この日は論文の再考の段階で、また各自で作業を進めることになった。俺は、前回と同じく図書館で自分の分野の文献近くの書架で作業しようと図書館に入った。すると、先に机に座っている人影が見えた。
(斉木さんだ)
声をかけるかどうか迷ったが、前回もここで一緒に作業したのだからきっと何も不自然ではないだろう。俺はさりげなく同じ机に着くことにした。
「斉木さん、ここいい?」
集中して文献を読んでいたのだろう。一瞬びくっとしてから俺の方を見上げる。久しぶりに間近で見る斉木さんは相変わらず眩しい。
「…うん、もちろん大丈夫だよ」
せっかく距離が縮まったように感じていたのに、斉木さんの対応はすっかり以前のよそよそしい感じに戻っていた。それでも一応OKを出してくれたので、俺は斉木さんと向かい合う形で席に着く。
席に着いてから先に口を開いたのは斉木さんの方だった。
「なんか…久しぶりだね」
「そういえばそうだね。元気?」
せっかく斉木さんの方から声をかけてくれたのに、当たり障りのない会話しかできない。話したいことは他にもいっぱいあるはずなのに。踏み出せない自分が情けない。
儀礼的な会話が終わると、しばらくの間お互い一言も喋らないまま文献を読んだり論文の直しをしたりと作業に集中した。この論文を提出すれば前期のプレゼミは終了だ。季節はすっかり夏に移ろうところだった。
しばらくして、手元の文献を書架に戻そうと斉木さんが立ち上がり歩き出した。
その時。
ブブッ……
すぐ向かいに置いてある斉木さんのスマホが振動する。反射的に何の気も無しに斉木さんのスマホにパッと目をやる。すると飛び込んでくる画面通知文字。
"城戸涼太"
その名前を目にしたと同時に、もう無意識のうちにメッセージの本文も読んでしまった。
"俺も里香に会いたい”
通知はしばらくして、真っ黒の画面に切り替わる。俺は、置かれたスマホから視線を上げて遠くを見つめる。
「俺”も”か……」
きっと斉木さんは、あの男性とまた恋愛関係に戻ったのだろう。何がきっかけでいつからそうなったのかはもはや分からない。けれど、二人の間に流れたあの空気は、半端な関係ではなかったことを証明していた。二人が元の関係に戻ることなんてきっと簡単なことなのだ。それくらい強く結びついていたのだ。
(あっけなく失恋ってやつだなぁ……)
元々が高望みだったのだ。容姿端麗で何でも卒なくこなし完成された美術品のような隙のない彼女がたまたま俺に見せた少女のような無垢さ。自分にだけその笑顔や素顔を見せてくれたら、なんて思ってしまったのがそもそもの間違いで。
「俺、図々しかったんだな」
そう呟いて遠い目をしていると、そこに斉木さんが戻ってきた。
「……大野くん?どうかした?」
彼女は本当に心配しているように眉毛を下げて訊ねてくる。
「ううん、ちょっと考え事」
「…そっか、何かあったら言ってね。力になれるか分からないけどさ…」
───そうやって優しく笑う斉木さんが、確かに俺は好きだった。
俺はなるべく自分の気持ちを悟られないように明るく話を切り替えた。
「そういえば、『戦争と平和』全部読んだよ。中盤からどんどん楽しくなって夢中で一気読みしたよ」
友達として仲良くなれたらそれで十分だ。こうやって大学でたまに顔を合わせてたわいもない話ができれば。ちょっと前までは、斉木さんとこうやって話す未来すら予想できなかったのだから。
「そう言ってくれるの嬉しい。実はね、私も『人は何で生きるか』読んだんだよ。ああ真理だなぁって感動しちゃった。教えてくれてありがとうね」
斉木さんと何かを共有できるのが嬉しい。それだけで十分。そう思うようにしなくては。
「斉木さんはさ、こうやって没頭できる世界をもってるのが素敵だよね」
「え……?」
「そして文字にする言葉とか文章がとっても綺麗で、斉木さんがいかにその世界でいろんなことを吸収してきたのかわかるっていうか。斉木さんを構成する成分は大部分が本なんだろうなーって思ってるんだけど」
そう冗談めいて笑って言ってみたが、斉木さんは笑ったりせず、じっとこちらを見つめている。
「……斉木さんはきっとちゃんと苦手を克服できるよ、そんな気がする」
何の根拠もないし、むしろ克服なんてしなくていいなんて思っていた自分がいるのだけれど。
「うん、ありがとう」
斉木さんはいつもの調子で優しく笑った。
この笑顔を自分だけのものにしたい、他の誰にも見せたくない。そう思っていたのだけど。それはもう無理な話で。
俺はこの日、失恋したことを認めなければならなかった。
そう、"涼太さん"に負けたのだ。
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