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Ⅲ
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豪奢な天井を、アーヌラリウスは見上げていた。煌びやかな光を彼の足元に鏤めるシャンデリア。その向こうにあるのは、天井を彩る荘厳な宗教画。
虚ろな目をした天使が二人、雲の漂う空を舞い、翼をはためかせていた。天使達は太陽を模したシャンデリアへ向かって飛んでいるらしい。
その美しさに見惚れていると、背後で轟音が響いた。アーヌラーリウスは一瞬にして黒煙に包まれた。濛々と煙る視界と、噎せ返るほどの熱さが彼を戸惑わせた。
それほど慌てなかったのは、その爆発を予め知っていたからだ。
――どうして俺は、この爆発を知っていた……?
不意に過った疑問。しかし、それもいくつもの足音によって頭のどこかへ押し遣られてしまう。振り返ると、見知らぬ軍服を着た人間が、手に手に銃を持ってこちらに走ってきたのだ。
「――――っ!」
アーヌラーリウスは踵を返して、彼らとは反対方向へと駆け出した。
直後、銃声がいくつも響き、肩口や足を銃弾が掠めた。
幸い、周囲は煙が充満し、彼はそれを隠れ蓑にして難を逃れた。
遠くで怒号が飛び交っている。アーヌラーリウスは乱れる息を整えながら、自分の向かうべき場所を思い出していた。
――最奥……。
懐に手を遣り、銃を取り出した。残りの銃弾を確認し、さらに予備のマガジンも確かめた。仕留めるには十分すぎる量だ。アーヌラーリウスはさらに重大なことを思い出していた。
この任務が終わっても、彼のなすべきことは終わらないことを。
また、どこかで爆発があった。足元が激しく揺れるが、構わずこの建物内の地図を思い浮かべる。標的のいる、最奥の部屋までの最短ルートと、敵の警備の重点区域をその地図の上に重ねる。
ここから一番効率的な経路を割り出し、耳から伸びた無線のマイクに向かって、
「今から作戦行動第二段階に移行する」
「許可する。建物内の状況はいつでもそっちに伝達できる」
「お前の支援態勢は整っている。お前を追従する輩は任せろ」
「こっちもだいたい霜払いは終わったぜ」
それぞれの声を聞き、アーヌラーリウスはにやりと笑んだ。
長い通路を走る。その向こうにある、重厚な扉を開け放つ。扉を開けると、視界一杯に光が拡がり、景色が白塗りになった。
その眩さに目を細め、強烈な光をやり過ごす。
「……遅かったな」
「っ!」
――お前はっ!
強烈な光を背に立つ人物に向かって、アーヌラーリウスは躊躇いなく銃口を向けた。その人物の口元が、冷やかに吊り上がったのをアーヌラーリウスははっきりと見た。
「……起きた?」
目を覚ますと、目の前にニニムの顔があった。膝を抱えるようにして眠っていたアーヌラーリウスの正面に、彼女は躰を横に向けて寝ていた。細い髪の束が、さらりと彼女の鼻先へと落ち、彼女はそれを細い指で掬い上げる。
それを黙って見ていると、ニニムが再び訊ねてきた。
「おーい。起きたの?」
「ああ……」
やっと答えたアーヌラーリウスに、僅かな不機嫌をその顔に浮かべて、ニニムは彼の頬をそっと撫でた。
「凄い汗。平気?」
彼女の問い掛けに、彼はただ頷くだけだった。
脳裡には未だ、夢に見た光景が生々しく残っている。しかし、最後に見た光景だけが朧気で、はっきりと思い出せない。
夢なのに、無視できない何かを感じて、彼は必死に思い出そうとするが、その意に反するかのように記憶の扉がゆっくりと閉じていく。
最後に見た光景に、彼は大きな絶望と怒りとを感じたはずなのに。
やがて、夢の記憶が完全に抹消されると同時に、彼は思い出すことを諦めた。
そんな彼を、ニニムは優しく抱きしめ、包み込んだ。
「嫌な夢でも見た?」
「そうかもしれない」
そう――。彼の耳元で囁いた彼女は、赤子をあやすように彼の背中を撫でた。
「寝てしまった。すまない」
「いいよ。気にしないで。あんたの目的がソレじゃないのは知ってるから」
ニニムはそう言って、ベッドから降りる。脱ぎ散らかした衣服を拾い、それをいちいち丁寧に広げて、アーヌラーリウスの分は畳んで、ベッドの上に置いた。
アーヌラーリウスは彼女が着替えるのをぼんやりと眺めていた。白い背中が艶めかしく光り、その上を柔らかな布地が滑っていく。ふと、彼女が振り返り、首を傾げた。真っ直ぐの髪が頬に掛かるが、気にする様子もなく着替えを続けた。
「ごめん。そこのストッキング、取って?」
彼女の指差した方向――アーヌラーリウスの爪先辺り――を見ると、脱ぎ散らかったストッキングを見つけた。それを拾い上げ、ベッドから降りる。
伸ばされたしなやかな指先にそれを引っ掛けると、
「ありがと」
短く答えて、ニニムはそれを手際よく穿いた。すると、自然な流れでニニムはアーヌラーリウスの首に腕を回し、彼の鼻先にそっと接吻を落とした。
ふわり。
香水が柔らかに香り、目の前で照れたように笑うニニムがいる。
「手慣れてるな」
「まあね。専売特許だよ」
彼女は悪戯に笑む。そしてもう一度、今度は唇に口づけた。
湿った音が部屋中を満たし、消えていく。二人の息遣い、髪を撫でる音、そしてまた、唇を貪る。
しばらくそうして、二人は離れる。
「……盛り上がってきた?」
「いや」
「即答はやめなよ。傷つくよ」
「慣れてるだろ?」
アーヌラーリウスの言葉に、彼女はちょっと困った顔をして、
「そうでもないよ」
と答えた。そして、彼の手をそっと取って、手の甲に唇をそっと押し付けた。
「昼間に会わない?」
服に袖を通したアーヌラーリウスの背中に、ニニムはそう言った。一度動きを止め、彼は肩越しにニニムを窺った。
この女は一体……。そんな言葉を視線に孕んで。
ニニムは慌てて彼の疑念を払おうと、
「べ、別に理由はないよ。ただ、あんたは私の躰目当てじゃないから、こんなわざわざ夜に会わなくてもいいのかな……なんて思ったり」
「……金はいくらになるんだ?」
「あんたって、変に真面目とかって言われない?」
訝るような視線をアーヌラーリウスに向けて、彼女は言った。アーヌラーリウスはしばらく考えて、頷く。
「やっぱり」
ニニムはそう言って笑うと、アーヌラーリウスの背中にぴたりと頬を寄せた。彼女の熱が、じんわりと背中に広がるのを感じながら、アーヌラーリウスはズボンに脚を通す。
何故か上機嫌な彼女を不思議に思ったが、一瞬彼の思惑がどこかしらに漏れたのではないかと疑った。自分達と同じような目的で彼女に接触する連中は、他にも間違いなく存在する。それに対しての警戒を怠っていたわけではないが、彼女が完全な仲間でない以上、アーヌラーリウス達の行動が漏れている可能性はゼロではない。
「本当に、どういうつもりなんだ?」
「何を疑ってるのさ。私はただ――――」
甘えるような声でそこまで言うと、彼女は口を噤んだ。そして、思い留まったような表情になって、しばらく考え込んだ。
そして、真剣な目つきになると、さっき言おうとしていた言葉を言い直した。
「私はただ、あんたと友達になりたいだけさ」
「友達?」
訊き返すアーヌラーリウスに向かって、彼女ははっきりと頷く。
「そう、いい友達に、ね」
そう言って笑ったニニムは、いつもの娼婦の表情に戻ると、アーヌラーリウスの貌を自分の方へ引き寄せ、吸い付くようにキスをした。
昼間の街を歩く彼女は、夜の彼女とは全くの別人のように見えた。夜の女を脱ぎ捨てた彼女は、燦々と降り注ぐ陽光の下を軽やかに舞い、歩いていく。アーヌラーリウスはその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、彼女の後についていった。
アーヌラーリウスはこの日、奔放なニニムに振り回され続けた。
公園で鳩を追いかけ回し、よくわからない映画で号泣され、アイスクリームを服に溢された。
アーヌラーリウスが経験してきた中でも、一、二を争うほど酷い一日だった。しかし、彼は不思議とそれを楽しんでいた。笑顔ではしゃぐニニムを怒る気になれなかったのだが、それが何故なのか、アーヌラーリウス本人にもわからない。
「ごめんってば。そんなに怒らないでよ」
休憩に、と入った喫茶店の席に着くや否や、ニニムはテーブルに身を乗りだしてそう言った。機嫌を窺うような目つきで、ニニムは彼を見る。
呆れた表情で新聞を閉じ、無表情な目線を投げるが、ニニムはぎこちない笑顔を張り付けたまま動かない。
「謝るくらいなら、大人しくしていればいい」
「そうなんだけどさ。そうなんだけど、楽しくて」
「被害者は俺じゃなくてもよかった」
「いや、あんたじゃなきゃダメなんだよ」
「……意味がわからない」
アーヌラーリウスはそう言って、新聞に目を通した。昨日のニュースが雑然とした記事となって報じられている。スウィーニーの死も、連日のように報道され、大統領の動揺の様子も様々な形となって表れていた。
「あんたも楽しそうだけどね」
「え?」
「口元が笑ってるし、気に喰わないならさっさと帰っちゃえばいい。でも、あんたはここまで付き合ってくれた」
「それは……」
それは、言えない。どうして彼が、ここまでニニムに付き合ってやるのか。彼女の企んでいるであろうこともわからない。彼は何かを言い掛けた口を噤んで、当たり障りのない言葉を探した。
「いいよ」
ニニムはそう言って、アーヌラーリウスが言葉を継ぐのを遮った。何故か、その言葉には抗いがたい何かがあって、彼は口を噤むしかなかった。出掛かっていたいくつもの言葉を呑みこみ、ニニムを見つめる。
彼女は柔和な笑みのまま、彼の頬に触れた。
「無理に、嘘を吐かなくてもいいよ。訳ありなんだろう? 私に執着するの」
端から見れば、まるで恋人同士のような二人。しかしその実、互いに利害関係によってのみ結ばれていて、それ以上でも以下でもなかった。
「どういう理由があるのかは、知らないし、訊ねる気もない。きっとあんたは用が済んだら、さっさとどっかに消えていくだろうね。私にとって、それは都合が悪い。せっかくの金づるなんだから」
そこまで言うと、彼女はにこりと笑った。
彼女もまた、自分の存在価値とそれを如何に使うかを知っていた。頬杖をついた彼女は、道行く人を眺めながら、ぽつりと言った。
「あんたみたいな人間とたくさん寝たよ。その度に、虚しくなったよ。普通の客と寝るよりもね。私が差し出すもの……いや、違うな……。私だけが差し出せるものに何一つ興味がないのさ。…………タバコ、いい?」
ニニムが煙を吹かす仕草をしたので、アーヌラーリウスは黙って頷く。彼女は鞄の中から潰れた小さな箱と、暑苦しく、趣味の悪い金色のライターを取り出した。
彼女が煙草を咥えたタイミングで、アーヌラーリウスは彼女に向かって手を差し出した。
「ライター、貸せ」
彼の意図を察したニニムは、素直にライターを彼の掌の上に置いた。色に似合わない、冷たい感触が手の中に納まる。涼しげな音をさせながら蓋を開いて、火口を煙草の先に近づけた。
じゃっ。
火打石が擦れる音の後、ガスが破裂して青い焔が灯った。じり……と煙草の先が赤々と光り、僅かに縮む。
大きく息を吸い込み、ニニムは煙を吐き出した。気だるげに燻る煙がゆったりと天井へと昇って、ぶつかる。広がった煙は薄く、薄く消えていき、姿を消した。
それを眺めながら、彼女は薄く笑って言った。
「聞いてほしいんだけど、私のこと……」
「好きにしろ」
彼女はもう一度、煙を吹かした。
「ありがとう」
ニニムが生まれた、この国の西の端の小さな集落だった。上空から見ると、集落の周りは高層ビルが立ち並んでいるが、その真ん中が窪んだように黒く翳っている。いわゆる、貧困地区に彼女は生まれた。
その集落は、都会の速さについていけず、弾き出された人間が流れ着く場所だった。身寄りもなく、愛する人も居場所もなくした人々が、互いに緩く結びついてその日を生きていた。ニニムの両親は、そんな緩い繋がりの果てに彼女をこの世に産み落とした。
生まれた時から彼女の地獄は始まったと言っていい。
「たまたま地獄の門から零れ落ちただけかもしれないけどさ、絶対この世の方が地獄だと思うよ」
自嘲気味に笑ったニニムは、気だるげに煙を吐き出した。ゆらりゆらりと揺れて、消えていく。今の彼女は、そんな煙と同じような表情をしている。
彼女の貌を見つめていると、また、彼女は話し始めた。
「そんなだから、学校にもまともに行ってなかったよ」
学校に行ってなかったのではなく、行けなかったのだろう。生まれた環境からして、出生届もまともに出ていないはずだし、そんな子供が学校に通えるはずもなかった。
しかし、彼女はどこかしらで「学校」というものがあるらしいことを知った。
そこで、彼女はどうしたか。
学校に忍び込み、授業を盗み聞きしていたらしい。その日を凌ぐ智慧しか持ち合わせていなかった彼女にとって、学校の授業は毎日が真新しいものの発見で、夢中になって聞いていた。
一と一が合わさると二になるのも、ここで初めて知った。世の中にはお金というものがあるというのも知った。しかし、自分や母親がそのお金によって、今の環境にまで落とされてしまったことを知るのは、彼女が男と寝るようになってからだ。
とにかく彼女は、普通の子供が生きていく過程で普通に身に着けるものを、盗みによって身に着けたのだった。
そこまで話して、彼女の瞳にふと悲しみが過った、ようにアーヌラーリウスには見えた。長い睫毛が憂いの影を頬に落として、瞬きの度に揺れ動いた。
「笑っちゃうじゃない。世間に出てみれば、私が命懸けで、その日その日に勝ち取って得た知識や経験を、そこら辺を歩いている人達はみんな、さして苦労もせず手に入れているんだ。そうした先人達の英知を、時として疎ましくさえ思ってるの」
なんて世界だ。
彼女は吐息と共にそんな言葉を吐き出した。煙が薄く吐き出され、消える。彼女はまた、こうも言った。
壊れてしまえばいいのに。
彼女にとっての世界とは、まさにこの一言に尽きる。アーヌラーリウスはそう直感した。努力や才能では決して埋め得ない、貧富の格差が彼女の眼前に聳え立っているのだ。
彼女はその壁伝いに生きてきたのだろう。いつか、その壁の向こう側へ、敗者から勝者へ、闇から光へ。
そんな希望を僅かながら抱いてここまで生きてきたに違いない。
「それでも私は、諦めなかったの。……諦められなかったのよ。……だって、生まれた場所で全てが決まる、なんて思いたくなかったし。近所を死体みたいな顔して歩いている奴らに見せつけたかった。貧乏が環境を作っているんだじゃないって。自分達の気持ち一つで何もかもが変わるって……」
彼女の言葉は熱を伴ってアーヌラーリウスの耳に届いた。娼婦という仕事も、おそらく彼女にとって通過点の一つでしかないのかもしれない。
彼女が産み落とされた環境から這い上がるには、形振り構っていられない。ありついた仕事にしがみつき、次の仕事の伝手を見つける。そういうことを繰り返しながら、彼女は今、やっとここまで来れたのだろう。途中、幾度と挫折や転落を味わながらも、諦めずに現実に齧りついて放さない。
彼女の言葉には、そんな気迫があった。
「……さて、どこまで話した?」
彼女はコーヒーを啜って、アーヌラーリウスに訊ねた。「学校を卒業したところだ」と言うと、彼女は嬉しそうに、そうだそうだ、と手を叩いた。
「それでね……」
彼女は張り裂けんばかりの笑みで、話を続けた。
男は人種や地位を変えて、幾度となくニニムを抱いた。そして、時に怒り、涙し、笑った。多くの場合は安らかな表情で朝の街へと消えていったが、再び顔を見せる者も少なくはなかった。
ある時、その男はやってきた。
ニニムが相手した中で、一番の地位と名誉を持ったその男は、札束を無造作にテーブルの上に置くと、ベッドへ仰向けに寝た。
その地位と名誉に相応しい振る舞いだったが、ニニムは気に入らなかった。
もちろん、そんな心持ちで接するのだから、満足に癒せるわけもない。不服そうな貌をした男は、テーブルに置かれたグラスを握り締め、思い切り彼女に投げつけた。下はカーペットだったが、柔らかな音と共にグラスは砕け散った。
まさしく暴君そのものだった。
ニニムを遥か足元に見下して、彼は言った。
「お前は買われた身だぞ」
彼の言うことは正しい。ニニムは買われ、男は買った。二人はそういう関係だ。それ以上でも、以下でもない。買われた以上それ相応のものを提供しなければならないし、彼は提供されねばならない。
ルームライトの淡い光を透かした破片を拾うと、指先が小さな刺激も拾った。見ると、紅い筋が走り、うっすらと血が滲んでいた。
それに気づいた男はベッドから降りるなり、彼女の腕を乱暴に取った。男はニニムの指先を睨むと、にかりと笑った。
昔、都会のビルに備え付けられた大型液晶に映し出されていた怪物を思わせる、彼の長い舌が、ねっとりと彼女の指先に巻き付いて、血を舐めとった。
ぞわり。
そういうことには慣れているはずだった。幾度となく、そういうことを求められて、答え来たのだから、今さら嫌悪するはずもない、とそう思っていたのだが、彼女の背筋を這い上がる悪寒を誤魔化すことはできなかった。
「嫌っ」
小さな悲鳴も、目一杯の抵抗も、彼には何の効果もなかった。そのまま二人はベッドに雪崩れ込み、そして、共に朝を迎えたのだ。
翌朝は最悪な目覚めだった。仕事だ。そう言い聞かせたものの、指先の不快感は生々しく残っていて、耐え難い吐き気がニニムを襲った。
その男は、アランと名乗った。そして、大統領の座に一番近い男だと自称した。
そのあまりに尊大な物言いに、彼女はうんざりとしたものの、彼の言うことは事実だったようで、程なくして彼は大統領の座を射止めたのだった。
大統領に就任してしばらくは、彼との夜は途絶えたが、仕事が落ち着くと彼は足繁く彼女の元に通った。
「奥さんは、いいの?」
「いないよ。ずっと、独り身だから」
嘘を言っているようには思えなかった。そして、彼が彼女の元に来る理由も、来れる理由も知った。
――迂闊だな。
ニニムは心で思ったものの口にはしなかった。せっかくの上客を手放したくはなかったし、仮にこの男が自分との関係を暴露されたところで、自分は身を隠せばいいと思ったからだ。
ニニムはいつの間にか、彼専属の娼婦となっていた。どうやってか知らないが、彼女が大統領に抱かれているという噂が巷で流れ始め、男が全く寄ってこなくなった。同僚には羨ましがられたが、ニニムはその噂を否定した。
当事者が認めれば、それは事実となる。
大統領のそういったスキャンダルが表沙汰になれば、せっかくの金脈がなくなってしまう。こちらは迂闊に口を滑らせるわけにはいかなかった。
なにせ、明日の生活が懸かっているのだから。
ニニムが専属となると、彼の要求はエスカレートしていった。しかし、彼が唯一の金脈であるニニムに拒否権はなく、言われるがままに彼の欲求を満たしていった。
日頃抱えた鬱憤をぶつけるように、彼女を痛めつけた。それが性分らしい、ということを本人は口にしていたのだが、どうなのかはわからない。ただ、快楽を満たすためにそうしているとも見えなかった。
彼は何かに追われていたように見えた。
――哀れな人だ。
アランに抱かれるたびに、ニニムは囁いた。
アランは、富裕層の家系に生まれ、この世に生を受けてから常に、選ぶ側だった。そして、それを常に望まれてもいた。彼自身、そんな環境に疲弊していたのかもしれない。
ニニムは眠った彼を暗闇の中で眺めたことがある。
まるで生気というものを感じない寝相だった。寝息も立てず、薄目を開けた寝顔は、死相を思わせた。暗闇の中で、耐えられぬほどの寒気を感じたニニムは、思わずホテルの部屋を飛び出したほどだった。
それほどに不気味な男だった。
背負っているものは、常に選ばれる側だったニニムには到底計り知ることのできないものだった。
「大きな赤子かと思えば、突然この世で一番恐ろしい怪物のようにも思えた。ホント、ワケわからないよね」
ニニムはそう笑うと、短く煙を吐き出して、煙草を消した。灰皿の中ですり潰される灰を眺めていると、アーヌラーリウスは彼女の視線に気づく。
やけに真っ直ぐな視線に何も返せずにいると、彼女は言った。
「行こう」
「ああ」
小さく手を挙げてウェイターを呼ぶ。会計を済ませて外へ出ると、ニニムは大きく伸びをした。その時、強い風が街の中を駆け抜けていった。砂埃を巻き上げ、散らばったゴミを吹き上げて、遠いどこかへ消えていく。
「んー。気持ちいいねえ」
「そうだな。いい風だ」
「そうじゃなくて」
「?」
腕を下ろしたニニムが、彼に向き直った。どこか腑抜けた表情の彼女は、彼の首に腕を回す。何の敵意も感じないので、されるがままに抱きしめられた。
こちらから腕を回さなかったのは、彼女の意図が掴めなかったから。どういうつもりの抱擁なのか考えていると、アーヌラーリウスの耳元で彼女はそっと言った。
「ありがとね、聞いてくれて」
そう言って彼から離れると、彼女はすぐに背を向けて雑踏へと消えていった。
虚ろな目をした天使が二人、雲の漂う空を舞い、翼をはためかせていた。天使達は太陽を模したシャンデリアへ向かって飛んでいるらしい。
その美しさに見惚れていると、背後で轟音が響いた。アーヌラーリウスは一瞬にして黒煙に包まれた。濛々と煙る視界と、噎せ返るほどの熱さが彼を戸惑わせた。
それほど慌てなかったのは、その爆発を予め知っていたからだ。
――どうして俺は、この爆発を知っていた……?
不意に過った疑問。しかし、それもいくつもの足音によって頭のどこかへ押し遣られてしまう。振り返ると、見知らぬ軍服を着た人間が、手に手に銃を持ってこちらに走ってきたのだ。
「――――っ!」
アーヌラーリウスは踵を返して、彼らとは反対方向へと駆け出した。
直後、銃声がいくつも響き、肩口や足を銃弾が掠めた。
幸い、周囲は煙が充満し、彼はそれを隠れ蓑にして難を逃れた。
遠くで怒号が飛び交っている。アーヌラーリウスは乱れる息を整えながら、自分の向かうべき場所を思い出していた。
――最奥……。
懐に手を遣り、銃を取り出した。残りの銃弾を確認し、さらに予備のマガジンも確かめた。仕留めるには十分すぎる量だ。アーヌラーリウスはさらに重大なことを思い出していた。
この任務が終わっても、彼のなすべきことは終わらないことを。
また、どこかで爆発があった。足元が激しく揺れるが、構わずこの建物内の地図を思い浮かべる。標的のいる、最奥の部屋までの最短ルートと、敵の警備の重点区域をその地図の上に重ねる。
ここから一番効率的な経路を割り出し、耳から伸びた無線のマイクに向かって、
「今から作戦行動第二段階に移行する」
「許可する。建物内の状況はいつでもそっちに伝達できる」
「お前の支援態勢は整っている。お前を追従する輩は任せろ」
「こっちもだいたい霜払いは終わったぜ」
それぞれの声を聞き、アーヌラーリウスはにやりと笑んだ。
長い通路を走る。その向こうにある、重厚な扉を開け放つ。扉を開けると、視界一杯に光が拡がり、景色が白塗りになった。
その眩さに目を細め、強烈な光をやり過ごす。
「……遅かったな」
「っ!」
――お前はっ!
強烈な光を背に立つ人物に向かって、アーヌラーリウスは躊躇いなく銃口を向けた。その人物の口元が、冷やかに吊り上がったのをアーヌラーリウスははっきりと見た。
「……起きた?」
目を覚ますと、目の前にニニムの顔があった。膝を抱えるようにして眠っていたアーヌラーリウスの正面に、彼女は躰を横に向けて寝ていた。細い髪の束が、さらりと彼女の鼻先へと落ち、彼女はそれを細い指で掬い上げる。
それを黙って見ていると、ニニムが再び訊ねてきた。
「おーい。起きたの?」
「ああ……」
やっと答えたアーヌラーリウスに、僅かな不機嫌をその顔に浮かべて、ニニムは彼の頬をそっと撫でた。
「凄い汗。平気?」
彼女の問い掛けに、彼はただ頷くだけだった。
脳裡には未だ、夢に見た光景が生々しく残っている。しかし、最後に見た光景だけが朧気で、はっきりと思い出せない。
夢なのに、無視できない何かを感じて、彼は必死に思い出そうとするが、その意に反するかのように記憶の扉がゆっくりと閉じていく。
最後に見た光景に、彼は大きな絶望と怒りとを感じたはずなのに。
やがて、夢の記憶が完全に抹消されると同時に、彼は思い出すことを諦めた。
そんな彼を、ニニムは優しく抱きしめ、包み込んだ。
「嫌な夢でも見た?」
「そうかもしれない」
そう――。彼の耳元で囁いた彼女は、赤子をあやすように彼の背中を撫でた。
「寝てしまった。すまない」
「いいよ。気にしないで。あんたの目的がソレじゃないのは知ってるから」
ニニムはそう言って、ベッドから降りる。脱ぎ散らかした衣服を拾い、それをいちいち丁寧に広げて、アーヌラーリウスの分は畳んで、ベッドの上に置いた。
アーヌラーリウスは彼女が着替えるのをぼんやりと眺めていた。白い背中が艶めかしく光り、その上を柔らかな布地が滑っていく。ふと、彼女が振り返り、首を傾げた。真っ直ぐの髪が頬に掛かるが、気にする様子もなく着替えを続けた。
「ごめん。そこのストッキング、取って?」
彼女の指差した方向――アーヌラーリウスの爪先辺り――を見ると、脱ぎ散らかったストッキングを見つけた。それを拾い上げ、ベッドから降りる。
伸ばされたしなやかな指先にそれを引っ掛けると、
「ありがと」
短く答えて、ニニムはそれを手際よく穿いた。すると、自然な流れでニニムはアーヌラーリウスの首に腕を回し、彼の鼻先にそっと接吻を落とした。
ふわり。
香水が柔らかに香り、目の前で照れたように笑うニニムがいる。
「手慣れてるな」
「まあね。専売特許だよ」
彼女は悪戯に笑む。そしてもう一度、今度は唇に口づけた。
湿った音が部屋中を満たし、消えていく。二人の息遣い、髪を撫でる音、そしてまた、唇を貪る。
しばらくそうして、二人は離れる。
「……盛り上がってきた?」
「いや」
「即答はやめなよ。傷つくよ」
「慣れてるだろ?」
アーヌラーリウスの言葉に、彼女はちょっと困った顔をして、
「そうでもないよ」
と答えた。そして、彼の手をそっと取って、手の甲に唇をそっと押し付けた。
「昼間に会わない?」
服に袖を通したアーヌラーリウスの背中に、ニニムはそう言った。一度動きを止め、彼は肩越しにニニムを窺った。
この女は一体……。そんな言葉を視線に孕んで。
ニニムは慌てて彼の疑念を払おうと、
「べ、別に理由はないよ。ただ、あんたは私の躰目当てじゃないから、こんなわざわざ夜に会わなくてもいいのかな……なんて思ったり」
「……金はいくらになるんだ?」
「あんたって、変に真面目とかって言われない?」
訝るような視線をアーヌラーリウスに向けて、彼女は言った。アーヌラーリウスはしばらく考えて、頷く。
「やっぱり」
ニニムはそう言って笑うと、アーヌラーリウスの背中にぴたりと頬を寄せた。彼女の熱が、じんわりと背中に広がるのを感じながら、アーヌラーリウスはズボンに脚を通す。
何故か上機嫌な彼女を不思議に思ったが、一瞬彼の思惑がどこかしらに漏れたのではないかと疑った。自分達と同じような目的で彼女に接触する連中は、他にも間違いなく存在する。それに対しての警戒を怠っていたわけではないが、彼女が完全な仲間でない以上、アーヌラーリウス達の行動が漏れている可能性はゼロではない。
「本当に、どういうつもりなんだ?」
「何を疑ってるのさ。私はただ――――」
甘えるような声でそこまで言うと、彼女は口を噤んだ。そして、思い留まったような表情になって、しばらく考え込んだ。
そして、真剣な目つきになると、さっき言おうとしていた言葉を言い直した。
「私はただ、あんたと友達になりたいだけさ」
「友達?」
訊き返すアーヌラーリウスに向かって、彼女ははっきりと頷く。
「そう、いい友達に、ね」
そう言って笑ったニニムは、いつもの娼婦の表情に戻ると、アーヌラーリウスの貌を自分の方へ引き寄せ、吸い付くようにキスをした。
昼間の街を歩く彼女は、夜の彼女とは全くの別人のように見えた。夜の女を脱ぎ捨てた彼女は、燦々と降り注ぐ陽光の下を軽やかに舞い、歩いていく。アーヌラーリウスはその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、彼女の後についていった。
アーヌラーリウスはこの日、奔放なニニムに振り回され続けた。
公園で鳩を追いかけ回し、よくわからない映画で号泣され、アイスクリームを服に溢された。
アーヌラーリウスが経験してきた中でも、一、二を争うほど酷い一日だった。しかし、彼は不思議とそれを楽しんでいた。笑顔ではしゃぐニニムを怒る気になれなかったのだが、それが何故なのか、アーヌラーリウス本人にもわからない。
「ごめんってば。そんなに怒らないでよ」
休憩に、と入った喫茶店の席に着くや否や、ニニムはテーブルに身を乗りだしてそう言った。機嫌を窺うような目つきで、ニニムは彼を見る。
呆れた表情で新聞を閉じ、無表情な目線を投げるが、ニニムはぎこちない笑顔を張り付けたまま動かない。
「謝るくらいなら、大人しくしていればいい」
「そうなんだけどさ。そうなんだけど、楽しくて」
「被害者は俺じゃなくてもよかった」
「いや、あんたじゃなきゃダメなんだよ」
「……意味がわからない」
アーヌラーリウスはそう言って、新聞に目を通した。昨日のニュースが雑然とした記事となって報じられている。スウィーニーの死も、連日のように報道され、大統領の動揺の様子も様々な形となって表れていた。
「あんたも楽しそうだけどね」
「え?」
「口元が笑ってるし、気に喰わないならさっさと帰っちゃえばいい。でも、あんたはここまで付き合ってくれた」
「それは……」
それは、言えない。どうして彼が、ここまでニニムに付き合ってやるのか。彼女の企んでいるであろうこともわからない。彼は何かを言い掛けた口を噤んで、当たり障りのない言葉を探した。
「いいよ」
ニニムはそう言って、アーヌラーリウスが言葉を継ぐのを遮った。何故か、その言葉には抗いがたい何かがあって、彼は口を噤むしかなかった。出掛かっていたいくつもの言葉を呑みこみ、ニニムを見つめる。
彼女は柔和な笑みのまま、彼の頬に触れた。
「無理に、嘘を吐かなくてもいいよ。訳ありなんだろう? 私に執着するの」
端から見れば、まるで恋人同士のような二人。しかしその実、互いに利害関係によってのみ結ばれていて、それ以上でも以下でもなかった。
「どういう理由があるのかは、知らないし、訊ねる気もない。きっとあんたは用が済んだら、さっさとどっかに消えていくだろうね。私にとって、それは都合が悪い。せっかくの金づるなんだから」
そこまで言うと、彼女はにこりと笑った。
彼女もまた、自分の存在価値とそれを如何に使うかを知っていた。頬杖をついた彼女は、道行く人を眺めながら、ぽつりと言った。
「あんたみたいな人間とたくさん寝たよ。その度に、虚しくなったよ。普通の客と寝るよりもね。私が差し出すもの……いや、違うな……。私だけが差し出せるものに何一つ興味がないのさ。…………タバコ、いい?」
ニニムが煙を吹かす仕草をしたので、アーヌラーリウスは黙って頷く。彼女は鞄の中から潰れた小さな箱と、暑苦しく、趣味の悪い金色のライターを取り出した。
彼女が煙草を咥えたタイミングで、アーヌラーリウスは彼女に向かって手を差し出した。
「ライター、貸せ」
彼の意図を察したニニムは、素直にライターを彼の掌の上に置いた。色に似合わない、冷たい感触が手の中に納まる。涼しげな音をさせながら蓋を開いて、火口を煙草の先に近づけた。
じゃっ。
火打石が擦れる音の後、ガスが破裂して青い焔が灯った。じり……と煙草の先が赤々と光り、僅かに縮む。
大きく息を吸い込み、ニニムは煙を吐き出した。気だるげに燻る煙がゆったりと天井へと昇って、ぶつかる。広がった煙は薄く、薄く消えていき、姿を消した。
それを眺めながら、彼女は薄く笑って言った。
「聞いてほしいんだけど、私のこと……」
「好きにしろ」
彼女はもう一度、煙を吹かした。
「ありがとう」
ニニムが生まれた、この国の西の端の小さな集落だった。上空から見ると、集落の周りは高層ビルが立ち並んでいるが、その真ん中が窪んだように黒く翳っている。いわゆる、貧困地区に彼女は生まれた。
その集落は、都会の速さについていけず、弾き出された人間が流れ着く場所だった。身寄りもなく、愛する人も居場所もなくした人々が、互いに緩く結びついてその日を生きていた。ニニムの両親は、そんな緩い繋がりの果てに彼女をこの世に産み落とした。
生まれた時から彼女の地獄は始まったと言っていい。
「たまたま地獄の門から零れ落ちただけかもしれないけどさ、絶対この世の方が地獄だと思うよ」
自嘲気味に笑ったニニムは、気だるげに煙を吐き出した。ゆらりゆらりと揺れて、消えていく。今の彼女は、そんな煙と同じような表情をしている。
彼女の貌を見つめていると、また、彼女は話し始めた。
「そんなだから、学校にもまともに行ってなかったよ」
学校に行ってなかったのではなく、行けなかったのだろう。生まれた環境からして、出生届もまともに出ていないはずだし、そんな子供が学校に通えるはずもなかった。
しかし、彼女はどこかしらで「学校」というものがあるらしいことを知った。
そこで、彼女はどうしたか。
学校に忍び込み、授業を盗み聞きしていたらしい。その日を凌ぐ智慧しか持ち合わせていなかった彼女にとって、学校の授業は毎日が真新しいものの発見で、夢中になって聞いていた。
一と一が合わさると二になるのも、ここで初めて知った。世の中にはお金というものがあるというのも知った。しかし、自分や母親がそのお金によって、今の環境にまで落とされてしまったことを知るのは、彼女が男と寝るようになってからだ。
とにかく彼女は、普通の子供が生きていく過程で普通に身に着けるものを、盗みによって身に着けたのだった。
そこまで話して、彼女の瞳にふと悲しみが過った、ようにアーヌラーリウスには見えた。長い睫毛が憂いの影を頬に落として、瞬きの度に揺れ動いた。
「笑っちゃうじゃない。世間に出てみれば、私が命懸けで、その日その日に勝ち取って得た知識や経験を、そこら辺を歩いている人達はみんな、さして苦労もせず手に入れているんだ。そうした先人達の英知を、時として疎ましくさえ思ってるの」
なんて世界だ。
彼女は吐息と共にそんな言葉を吐き出した。煙が薄く吐き出され、消える。彼女はまた、こうも言った。
壊れてしまえばいいのに。
彼女にとっての世界とは、まさにこの一言に尽きる。アーヌラーリウスはそう直感した。努力や才能では決して埋め得ない、貧富の格差が彼女の眼前に聳え立っているのだ。
彼女はその壁伝いに生きてきたのだろう。いつか、その壁の向こう側へ、敗者から勝者へ、闇から光へ。
そんな希望を僅かながら抱いてここまで生きてきたに違いない。
「それでも私は、諦めなかったの。……諦められなかったのよ。……だって、生まれた場所で全てが決まる、なんて思いたくなかったし。近所を死体みたいな顔して歩いている奴らに見せつけたかった。貧乏が環境を作っているんだじゃないって。自分達の気持ち一つで何もかもが変わるって……」
彼女の言葉は熱を伴ってアーヌラーリウスの耳に届いた。娼婦という仕事も、おそらく彼女にとって通過点の一つでしかないのかもしれない。
彼女が産み落とされた環境から這い上がるには、形振り構っていられない。ありついた仕事にしがみつき、次の仕事の伝手を見つける。そういうことを繰り返しながら、彼女は今、やっとここまで来れたのだろう。途中、幾度と挫折や転落を味わながらも、諦めずに現実に齧りついて放さない。
彼女の言葉には、そんな気迫があった。
「……さて、どこまで話した?」
彼女はコーヒーを啜って、アーヌラーリウスに訊ねた。「学校を卒業したところだ」と言うと、彼女は嬉しそうに、そうだそうだ、と手を叩いた。
「それでね……」
彼女は張り裂けんばかりの笑みで、話を続けた。
男は人種や地位を変えて、幾度となくニニムを抱いた。そして、時に怒り、涙し、笑った。多くの場合は安らかな表情で朝の街へと消えていったが、再び顔を見せる者も少なくはなかった。
ある時、その男はやってきた。
ニニムが相手した中で、一番の地位と名誉を持ったその男は、札束を無造作にテーブルの上に置くと、ベッドへ仰向けに寝た。
その地位と名誉に相応しい振る舞いだったが、ニニムは気に入らなかった。
もちろん、そんな心持ちで接するのだから、満足に癒せるわけもない。不服そうな貌をした男は、テーブルに置かれたグラスを握り締め、思い切り彼女に投げつけた。下はカーペットだったが、柔らかな音と共にグラスは砕け散った。
まさしく暴君そのものだった。
ニニムを遥か足元に見下して、彼は言った。
「お前は買われた身だぞ」
彼の言うことは正しい。ニニムは買われ、男は買った。二人はそういう関係だ。それ以上でも、以下でもない。買われた以上それ相応のものを提供しなければならないし、彼は提供されねばならない。
ルームライトの淡い光を透かした破片を拾うと、指先が小さな刺激も拾った。見ると、紅い筋が走り、うっすらと血が滲んでいた。
それに気づいた男はベッドから降りるなり、彼女の腕を乱暴に取った。男はニニムの指先を睨むと、にかりと笑った。
昔、都会のビルに備え付けられた大型液晶に映し出されていた怪物を思わせる、彼の長い舌が、ねっとりと彼女の指先に巻き付いて、血を舐めとった。
ぞわり。
そういうことには慣れているはずだった。幾度となく、そういうことを求められて、答え来たのだから、今さら嫌悪するはずもない、とそう思っていたのだが、彼女の背筋を這い上がる悪寒を誤魔化すことはできなかった。
「嫌っ」
小さな悲鳴も、目一杯の抵抗も、彼には何の効果もなかった。そのまま二人はベッドに雪崩れ込み、そして、共に朝を迎えたのだ。
翌朝は最悪な目覚めだった。仕事だ。そう言い聞かせたものの、指先の不快感は生々しく残っていて、耐え難い吐き気がニニムを襲った。
その男は、アランと名乗った。そして、大統領の座に一番近い男だと自称した。
そのあまりに尊大な物言いに、彼女はうんざりとしたものの、彼の言うことは事実だったようで、程なくして彼は大統領の座を射止めたのだった。
大統領に就任してしばらくは、彼との夜は途絶えたが、仕事が落ち着くと彼は足繁く彼女の元に通った。
「奥さんは、いいの?」
「いないよ。ずっと、独り身だから」
嘘を言っているようには思えなかった。そして、彼が彼女の元に来る理由も、来れる理由も知った。
――迂闊だな。
ニニムは心で思ったものの口にはしなかった。せっかくの上客を手放したくはなかったし、仮にこの男が自分との関係を暴露されたところで、自分は身を隠せばいいと思ったからだ。
ニニムはいつの間にか、彼専属の娼婦となっていた。どうやってか知らないが、彼女が大統領に抱かれているという噂が巷で流れ始め、男が全く寄ってこなくなった。同僚には羨ましがられたが、ニニムはその噂を否定した。
当事者が認めれば、それは事実となる。
大統領のそういったスキャンダルが表沙汰になれば、せっかくの金脈がなくなってしまう。こちらは迂闊に口を滑らせるわけにはいかなかった。
なにせ、明日の生活が懸かっているのだから。
ニニムが専属となると、彼の要求はエスカレートしていった。しかし、彼が唯一の金脈であるニニムに拒否権はなく、言われるがままに彼の欲求を満たしていった。
日頃抱えた鬱憤をぶつけるように、彼女を痛めつけた。それが性分らしい、ということを本人は口にしていたのだが、どうなのかはわからない。ただ、快楽を満たすためにそうしているとも見えなかった。
彼は何かに追われていたように見えた。
――哀れな人だ。
アランに抱かれるたびに、ニニムは囁いた。
アランは、富裕層の家系に生まれ、この世に生を受けてから常に、選ぶ側だった。そして、それを常に望まれてもいた。彼自身、そんな環境に疲弊していたのかもしれない。
ニニムは眠った彼を暗闇の中で眺めたことがある。
まるで生気というものを感じない寝相だった。寝息も立てず、薄目を開けた寝顔は、死相を思わせた。暗闇の中で、耐えられぬほどの寒気を感じたニニムは、思わずホテルの部屋を飛び出したほどだった。
それほどに不気味な男だった。
背負っているものは、常に選ばれる側だったニニムには到底計り知ることのできないものだった。
「大きな赤子かと思えば、突然この世で一番恐ろしい怪物のようにも思えた。ホント、ワケわからないよね」
ニニムはそう笑うと、短く煙を吐き出して、煙草を消した。灰皿の中ですり潰される灰を眺めていると、アーヌラーリウスは彼女の視線に気づく。
やけに真っ直ぐな視線に何も返せずにいると、彼女は言った。
「行こう」
「ああ」
小さく手を挙げてウェイターを呼ぶ。会計を済ませて外へ出ると、ニニムは大きく伸びをした。その時、強い風が街の中を駆け抜けていった。砂埃を巻き上げ、散らばったゴミを吹き上げて、遠いどこかへ消えていく。
「んー。気持ちいいねえ」
「そうだな。いい風だ」
「そうじゃなくて」
「?」
腕を下ろしたニニムが、彼に向き直った。どこか腑抜けた表情の彼女は、彼の首に腕を回す。何の敵意も感じないので、されるがままに抱きしめられた。
こちらから腕を回さなかったのは、彼女の意図が掴めなかったから。どういうつもりの抱擁なのか考えていると、アーヌラーリウスの耳元で彼女はそっと言った。
「ありがとね、聞いてくれて」
そう言って彼から離れると、彼女はすぐに背を向けて雑踏へと消えていった。
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