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#38 優しい甘さのコンポート ⑷
しおりを挟む私がポカンとしている間にも菱沼さんの話は進んでいく。
あたかも私の心の奥底に芽吹いたたばかりの不可解な心情に狙いを定めて、追い打ちでもかけてくるかのように。
「この前、お前のことを人質だとは言ったが、創様はそんな事のためだけに、好きでもない女を傍に置くようなお方じゃない。少なくとも、お前のことをいたく気に入っておられるようだ」
確か、桜小路さんもそんな風なことを言ってた気がする。
……てことは、本当に私のことを心配してくれているって言うこと?
ーーいやいや、あれが気に入った相手にすることかなぁ?
まぁ、ちょっと変わったところのある桜小路さんのことだから、あると言えばあるのかもだけど……。
私があれこれ勘案しているところに、菱沼さんがボソッと零した呟きが聞こえてきて。
「お前のどこがいいのか俺には全くもって理解できないがなぁ」
「――ッ!?」
その言葉に憤慨した私が、抗議の眼を向けてみるも、菱沼さんには通用しないどころか、フンと鼻を鳴らしてあしらわれてしまい、呆気なく敗北したのだった。
それがどうにも悔しくて、盛大にむくれた私が菱沼さんにジト眼を送っていると、馬鹿にした表情から、なにやら愁いを帯びたような表情に切り替えた菱沼さんから嘆くような声が放たれた。
「まぁ、綺麗な想い出はそのまま大事にとっておきたいというお気持ちは分からないでもないがなぁ」
「……綺麗な思い出?」
けれどもその言葉の指す意味が分からず、無意識に訊き返すも。
「あーいや、何でもない」
一言で制された上に、立て続けに、
「ただお前には、創様のことを少し知っておいて貰わないと、色々と誤解を招くといけないからなぁ」
もっともらしいことを返されて、なんだか煙に巻かれたような気がしないでもない。
けれどモヤモヤしている暇も与えられないまま、
「手短に話すから心して聞いておけ」
菱沼さんから命令が下されてしまい、私は反射的に背筋を正した。
どうやら私の知らない桜小路さんのことを話してくれるらしいので、取り敢えずは菱沼さんの話に集中することにしたのだった。
――もっと桜小路さんのことを知りたい。
どういう訳かその欲求に勝てなかったのだ。
「創様には、家庭の事情から人間不信な一面があって、気を許せる人間は限られている。仕事もプライベートも上辺だけの付き合いは日常茶飯事。そんな創様のことを憂いたご当主が、せめて結婚くらいは自由にさせようと、口を出さずにいるくらいだ。まぁ、体質のこともあるだろうがな」
「……そうなんですか?」
「あぁ。けれど継母である菖蒲様はそれを利用して、実子である創太様に、道隆様のご実家の現当主であるご令嬢との縁談を進めようとしているようだ。そうなれば両者にとっても大きな後ろ盾になるからな。といってもまだ大学生の創太様にもその気はないようだからいいが」
菱沼さんの話によると、元々、そのご令嬢(私と同い年の二二歳)の方は桜小路さんに好意を寄せていたらしい。
そのため、創太さんとの縁談には難色を示していて、うまく進められずにいるというのが現状のようだった。
そのこともあり、菖蒲さんと桜小路さんとの溝は益々深まるばかりなのだという。
それでなくとも、ご当主が菖蒲さんと再婚して以来、まだ幼かった桜小路さんのことを疎んじて、使用人任せにしていたこともあり、ふたりの折り合いは最悪なものらしい。
そういう理由から、ご当主は桜小路さんのことを余計に案じておられて、仕事以外のプラーベートにおいては一切口を挟むことはないらしい。
放任主義といえば聞こえはいいが、桜小路さんの気持ちを思えば、なんともいたたまれない気持ちになった。
お母様を亡くして寂しい上に、お父様まで取り上げられてしまったも同然なのだからーー。
桜小路さんが無愛想で口が悪いのも、もしかすると、そのことが影響しているのかもしれない。
――否、きっとそうに違いないだろう。
私も父親の存在を知らずに育ち、五年前に母親を亡くしてはいるが、優しい伯母夫婦の家族が傍で支えてくれたから、そんなにも寂しい想いをした記憶はない。
裕福な家庭に育って、家族もいるのに、心の拠り所がペットのカメ吉だなんて、そんなの悲し過ぎる。
話を聞いてるうちに、なんともやるせない心持ちになってしまってた私の耳に菱沼さんの声が届いた。
「お前が泣いてどうする?」
その声で、自分が泣いていることに初めて気づいた私は、慌ててコックコートの袖で涙を拭い去った。
同時に、なにやら感心したような表情を浮かべた菱沼さんから、呟くような声が聞こえて。
「お前のそういうところに惹かれたのかもしれないなぁ」
その言葉があまりにも意外すぎて、さっきまで悲しかったはずなのに、感情も涙さえも霧散してしまうのだった。
代わりに思いの外大きな声を放ってしまっていて。
「それってどういう意味ですか?」
「大きな声を出すな!」
すぐに鬼のような形相で睨みつけてきた菱沼さんによって、ぴしゃりと言い放たれてしまうのだった。
「……あっ、すみません」
そこで漸く、桜小路さんに聞かれては不味いことなんだと察し、ぺこりと頭を下げてみれば。
「いや、おそらく創様は気まずくてすぐには戻ってこないだろうから気にするな」
意外にもさほど気にした風ではないようだった。
――それならあんなに怒ることなかったんじゃないか。
……とは思ったが、そこはぐっと堪えることにしようとしていたところに、菱沼さんの盛大な溜息が聞こえてきて。間髪開けずに。
「灯台もと暗しとは言うが、鈍感にもほどがあるな」
今度は、ほとほと呆れ果てたっていうのを体現するような呟きが投下された。
その直後に、『やってられん』とかなんとかボソボソ零していたような気もするが、よくは聞こえなかったから定かじゃない。
なにがなにやら訳が分からないものだから、私の頭の中にはたくさんの疑問符が飛び交っている。
そんな中、菱沼さんが気を取り直すようにして、放ったのがこの言葉だった。
「とにかくだ。創様はお前のパティシエールとしての腕と、人に騙されやすいくらいお人好しなお前のことを信頼しているようだ。くれぐれもその信頼を裏切るようなことはしないでくれ」
どうやらさっきの言葉の意味を説明してくれる気はなさそうだ。
もうすっかり桜小路さんの執事兼秘書の仮面を被ってしまった菱沼さんは、なにやらちょっと悪巧みでもしているような黒い笑みを口元に湛えて。
「まぁ、ここは取り敢えず、仲直りのためにも、創様が選んでくださった服でも着て、一緒にそれでも食べてみることだなぁ」
妙案でも提案するように得意げにそう言うと、「後は頼む」と言い残し、さっさと自分の部屋へと帰ってしまった。
そうして菱沼さんと入れ替わるようにして、ラフな格好に着替えた桜小路さんがリビングダイニングに現れたのだが……。
「菱沼は帰ったのか?」
「……あぁ、はい。今さっき。何かご用でも」
「いや、別に」
一言二言言葉を交わしたきり口を真一文字に閉ざしてしまい、ソファに腰を下ろした桜小路さんは、仕事用のタブレットに集中してしまうのだった。
途端に重苦しい沈黙が辺り一帯を包み込んで、広い空間には非常に気まずい雰囲気が漂っている。
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