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プロポーズは突然に
①
しおりを挟む一週間前、央輔と過ごしたホテルのスイートルーム。そこへ央輔によってエスコートされた杏璃は、覚悟を決めたはずだった。
しかし、恋愛経験どころか、異性に免疫のない杏璃の覚悟は、部屋に入るなり背後でガチャリとドアが音を立てると同時に、どこかに消え去ってしまう。
途端に、胸の鼓動が騒めきはじめる。もはや羊を思い浮かべる余裕もない。
杏璃の腰に手を添えエスコートしてくれていた央輔の手が腰から背中へと移動した刹那、鼓動も心拍数も一気に跳ね上がる。
(いくら推しにそっくりだからって、心の準備もできてないのに、こんなのムリ!)
ここは、正直に今の気持ちを伝えて、心の準備が整うまで我慢してもらうしかないだろう。そう考え実行に移そうかというところでふと、同僚から聞きかじった異性に関する情報が杏璃の脳裏を駆け巡る。
マテが利かない状態は男性にとって、相当の苦行であるらしい。
生理現象なのだから、当然だ。
心が決まるまで猶予が欲しいと言ったところで聞き入れてもらえる保証はどこにもない。
とはいえ、このままでは狼と化した央輔にペロリと食べられてしまう。
ホテルまでの道中、羊の数を数えていたはずが、杏璃はすっかり羊になった心地である。
そんな杏璃の脳裏には、狼に仕留められた羊の姿がチラつきはじめた。
ハッとした杏璃は背後の央輔へと振り返る。
意図せず、央輔を見上げる格好で対峙することとなり、杏璃は逃げ出したい心境だ。
高身長ゆえにただでさえ威圧感があるというのに、感情の読めない無表情でじっと見下ろされている。
そのせいで、脳裏にチラつく狼に仕留められた羊が自分に見えてくる。
声が裏返りそうになりつつも、杏璃は央輔を止めるため声を絞り出す。
「……あ、あの、こういうことは、お互いのことをもっとよく知ってからのほうがいいと思うんです。いくら鷹村さんに……その」
――マテができないほど余裕がない切羽詰まった状態だとしても……
そう言葉を重ねようとしたところで、央輔が自身の名前を口にした。
「央輔」
唐突にそう言われても、杏璃には央輔の真意がまったく理解できない。
「……へ?」
虚を突かれた杏璃の口からも間の抜けた声が飛び出していた。
キョトンとしている杏璃を央輔が無表情で静かに見下ろしている。
麗しい見目は、見れば見るほど推しとそっくりだ。
だが、感情の一切を廃した完全なる無表情は、相反する激情を有する推しとはまったく異なったものである。
……あるはずが、なんだか、ムスッとしているように見えるのは、気のせいだろうか。
杏璃が思考に耽っていると、央輔の低い声音が再び投下された。
「同じタカムラなんだから、ややこしいだろ。下の名前で呼んでくれ」
苗字の『鷹村』ではなく、『央輔』と呼べということらしい。
確かに、同じ読みの苗字で呼び合うのはややこしい。
「あっ、は、はい。わかりました」
杏璃の言葉を聞き届けた央輔が、杏璃の背中に手を添えた。
その瞬間、杏璃は再び貞操の危機に見舞われる。
央輔が続き部屋になっている奥のベッドルームに、杏璃を誘導しようとしていると思ったのだ。
つまり、杏璃との身体の相性を確かめるために、いよいよ事に及ぼうとしている、と。
慌てふためいた杏璃は、央輔の身体をえいやっと力任せに押しやった。そのつもりが、押しやる前に慣れないパンプスのせいでバランスを崩し、前のめりにつんのめる。
「きゃっ⁉」
とっさに高い声をあげた杏璃の身体は、央輔の逞しい腕により抱き留められていた。
杏璃が転倒を免れたことに安堵する暇もなく、央輔の低い声音が耳朶を擽る。
「おい、大丈夫か? 杏璃」
杏璃の名を呼ぶ央輔の声と、夢で見た氷のプリンスの声とが、シンクロする。
たちまち杏璃の鼓動は尋常じゃない速度で心音を刻み始めた。
けれど、どういうわけだろうか。
――まったく嫌じゃない。
こうして腕に包み込まれていると、ほわりとしてあったかいし、妙に居心地がいい。
むしろこのままずっと包み込んでいてほしいくらいだ。
「……あっ、は、はいっ。大丈夫です!」
央輔の腕のなか、はしたない願望を抱いてしまった杏璃は、それらを誤魔化すために無駄に元気な声を放っていた。
それからすぐに、アンティーク調の調度品で設えられたリビングルームの応接セットに座るよう促された杏璃は、央輔から今回の見合いを受けた理由についての説明を受けているところである。
「昔から女性がどうも苦手なんだが、杏璃には嫌悪感を抱くこともなかった。だから協力してほしいんだ」
数分前まで貞操の危機からなんとかして逃れようとしていたというのに。
央輔から〝協力してほしい〟と言われた杏璃は、なるほどと納得すると同時に、酷くガッカリしてしまっていた。
別に、央輔との結婚を望んでいたわけでもなかったし、ましてや央輔に見初められたなどと思っていたわけでもない。
なのに何故だろう。こんなにも落胆してしまっているのは……
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