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変わりつつあるもの
④
***
この日も、社長との出勤時間に合わせて起床した穂乃香は、キッチンで朝食の準備を進めていた。
そこに身支度を調えた奏が音もなく歩み寄ってくる。
そうしてすっかりお馴染みとなってしまった、奏曰く、朝のルーティンが繰り広げられようとしている。
穂乃香が味噌汁の味見をしようとお玉を手にしたちょうどその瞬間、穂乃香の背後をとった奏が耳元に甘く囁きかけてくる。
「おはよう、穂乃香」
指一本触れない――という約束通り触れてはいないが、奏の熱い吐息が耳を掠めただけで、穂乃香の身体は意図せず熱を伴ってしまう。
それが途轍もなく恥ずかしい。
何より、一夜を共にしてしまったあの夜の記憶が呼び起こされてしまいそうで、それが怖くて仕方がない。
「あっ、ちょっ……危ないですから、いい加減背後に立って耳元で囁くの、やめてくださいっ!」
そのため毎回、全身を紅潮させて大袈裟なほど肩を跳ね上げて狼狽えるという、過剰な反応を示してしまうのだった。
穂乃香の反応が面白いのか、いつもは早々に切り上げるはずの奏はなおも恋人同士のような台詞を口にする。
「同棲してから二月が経とうというのに、いつまでたっても穂乃香は他人行儀だな。そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないか?」
どうやら呼び方が気に食わなかったようだ。
(だからって、朝からそんなに絡んでくることないでしょっ!)
穂乃香は内心切れ気味に奏への突っ込みを炸裂させつつ、ツンと澄ましてやり過ごす。
「ど、同棲ではなく同居です。それに他人なんですから名前で呼ぶ必要もありません。さ、早く席についてくださいっ!」
「はいはい、わかったよ」
諦めた様子の奏が穂乃香からダイニングセットへと意識を切り替えてくれたので、穂乃香はほっと安堵の息をついた。
ほどなくして、できたての朝食が並んだ食卓を奏と共に囲んでるのだが、いつもならペロリと平らげるはずの奏の箸の進みが悪い。
ちなみに今朝の朝食は、寝る前に仕込んでおいた鮭の塩麹焼きをメインにした和風の献立である。
(もしかして、口に合わなかったのかしら? それとも今日は和風の気分じゃなかったとか?)
成り行き上とはいえ同居し食事を共にしているのだ。
仕事でもプライベートでも、奏に仕える秘書としての役目をまっとうしなくては――
「社長、何だか食欲がないようですが。もしかして、今日は和食の気分ではなかったのでしょうか? でしたらまだ時間もありますし、作り直しましょうか」
「いや、その必要はないよ。悪いがコーヒーだけ頼めるかな」
「そうですか。それではすぐにお持ちしますね」
あたかも内助の功のごとく働きを見せる穂乃香だった。
***
穂乃香は住み込みの家政婦のつもりでいるようだが、奏からすれば可愛い新妻にしか見えていない。
故に、穂乃香と一緒に暮らすようになってからというもの、奏は家に帰るのを心待ちにしていた。
そんな心情が透けていたに違いない。
奏は、柳本からことあるごとに。
『もうすっかり新婚さんのようですねぇ』
『穂乃香さんも奏様のために尽くしてくれていますし、本物の夫婦になるのも時間の問題ですねぇ』
などと言われていたものだから、期待感は上昇の一途を辿ってしまっている。
そんな調子だったものだから、おそらく気が緩んでしまっていたのだろう。
奏はこれまで、仕事にストイックなあまり生活面においては無頓着で、柳本にすべてを任せてきた。だがリフレッシュも兼ねてジムにも通っていたし、元々身体も頑丈だった。
幼い頃はよく熱を出したりしたが、大人になってからは体調など崩した覚えもない。体力面にも健康面においても自信があったのだ。
この日も、社長との出勤時間に合わせて起床した穂乃香は、キッチンで朝食の準備を進めていた。
そこに身支度を調えた奏が音もなく歩み寄ってくる。
そうしてすっかりお馴染みとなってしまった、奏曰く、朝のルーティンが繰り広げられようとしている。
穂乃香が味噌汁の味見をしようとお玉を手にしたちょうどその瞬間、穂乃香の背後をとった奏が耳元に甘く囁きかけてくる。
「おはよう、穂乃香」
指一本触れない――という約束通り触れてはいないが、奏の熱い吐息が耳を掠めただけで、穂乃香の身体は意図せず熱を伴ってしまう。
それが途轍もなく恥ずかしい。
何より、一夜を共にしてしまったあの夜の記憶が呼び起こされてしまいそうで、それが怖くて仕方がない。
「あっ、ちょっ……危ないですから、いい加減背後に立って耳元で囁くの、やめてくださいっ!」
そのため毎回、全身を紅潮させて大袈裟なほど肩を跳ね上げて狼狽えるという、過剰な反応を示してしまうのだった。
穂乃香の反応が面白いのか、いつもは早々に切り上げるはずの奏はなおも恋人同士のような台詞を口にする。
「同棲してから二月が経とうというのに、いつまでたっても穂乃香は他人行儀だな。そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないか?」
どうやら呼び方が気に食わなかったようだ。
(だからって、朝からそんなに絡んでくることないでしょっ!)
穂乃香は内心切れ気味に奏への突っ込みを炸裂させつつ、ツンと澄ましてやり過ごす。
「ど、同棲ではなく同居です。それに他人なんですから名前で呼ぶ必要もありません。さ、早く席についてくださいっ!」
「はいはい、わかったよ」
諦めた様子の奏が穂乃香からダイニングセットへと意識を切り替えてくれたので、穂乃香はほっと安堵の息をついた。
ほどなくして、できたての朝食が並んだ食卓を奏と共に囲んでるのだが、いつもならペロリと平らげるはずの奏の箸の進みが悪い。
ちなみに今朝の朝食は、寝る前に仕込んでおいた鮭の塩麹焼きをメインにした和風の献立である。
(もしかして、口に合わなかったのかしら? それとも今日は和風の気分じゃなかったとか?)
成り行き上とはいえ同居し食事を共にしているのだ。
仕事でもプライベートでも、奏に仕える秘書としての役目をまっとうしなくては――
「社長、何だか食欲がないようですが。もしかして、今日は和食の気分ではなかったのでしょうか? でしたらまだ時間もありますし、作り直しましょうか」
「いや、その必要はないよ。悪いがコーヒーだけ頼めるかな」
「そうですか。それではすぐにお持ちしますね」
あたかも内助の功のごとく働きを見せる穂乃香だった。
***
穂乃香は住み込みの家政婦のつもりでいるようだが、奏からすれば可愛い新妻にしか見えていない。
故に、穂乃香と一緒に暮らすようになってからというもの、奏は家に帰るのを心待ちにしていた。
そんな心情が透けていたに違いない。
奏は、柳本からことあるごとに。
『もうすっかり新婚さんのようですねぇ』
『穂乃香さんも奏様のために尽くしてくれていますし、本物の夫婦になるのも時間の問題ですねぇ』
などと言われていたものだから、期待感は上昇の一途を辿ってしまっている。
そんな調子だったものだから、おそらく気が緩んでしまっていたのだろう。
奏はこれまで、仕事にストイックなあまり生活面においては無頓着で、柳本にすべてを任せてきた。だがリフレッシュも兼ねてジムにも通っていたし、元々身体も頑丈だった。
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