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翌日の朝。
起きるとミカイルはもういなかった。
昨日の事件のことはかろうじて覚えているが、僕はいつの間にか眠ってしまったらしい。最後の方の記憶は現実と夢の世界が混じり合ってあやふやだった。
眼鏡をつけ、着替えてから部屋を出れば、玄関の方に手荷物を持ったミカイルの姿が目に入る。彼はもう帰ってしまうところなのか、母さんと父さんに挨拶をしている様子がこちらからは窺えた。
「それでは、僕はこれで……、」
「────ミカイル!」
大きな声でミカイルを呼び止める。ミカイルは驚いてこちらを振り返った。
「あ…ユハン。おはよう。よく寝てたね」
「ああ。……お前はもう帰るところか?」
「うん。昨日はたくさんお世話になったし、今日はもう帰るよ」
「だったら起こしてくれよ。何も言わずに帰られるのは寂しいだろ」
「…………それはごめんね」
ミカイルは眉を下げ、申し訳なさそうに微笑む。
その表情はいつもと変わらない様相に見えるが、視線がどことなく噛み合わないのが気にかかった。
「あのさ、もしかして昨日のこと……」
「昨日は、僕がどうかしてたみたい。ちょっと寝ぼけていたのかもしれないね。だからユハンはさっさと忘れてくれていいよ」
「えっ……そうだったのか?」
早口で被せられた彼の言葉に、パチリと瞳を瞬かせる。僕の覚えている限りでは、ミカイルが眠そうにしているところなど一度も見た記憶がなかった。
しかし彼はこれ以上聞かれたくないのか、何も言わずに顔を背けると、そのまま家を出ていこうとする。
「あ、ちょっと待てって!」
「……また会いに来るけど、ユハンも僕の家に来てね。ユハンなら、いつでも来ていいから」
僕の制止を聞いて一瞬迷ったように足を止めたミカイルは、背中を向けたままそれだけ言い残すと、扉を開けて本当に出ていってしまった。
傍にいた両親の不安げな眼差しが痛い。
僕はなんでもないから大丈夫だと伝えて、足早に自分の部屋へ戻った。
それから数日間、僕はモヤモヤとした気持ちを胸に抱えながら毎日を過ごしていた。
ミカイルのあの行動は今も意図が分からずじまいで、ちゃんとした理由はもちろん知りたいけど、なんとなく聞かない方がいい気もする。
それに、ふとした瞬間にあの感触を思い出してしまって、この状態でミカイルに会うのはとてもきまずかった。いかんせんあんなことをしたのは生まれて初めてなのだ。気にするなと言う方が土台無理な話だろう。
そして、ミカイルもミカイルで、何故かあれから一度も僕に会いにくることはなかった。
そんなある日、いつも通り母さんから勉強を教わっていると、突然父さんに話があると言われ呼び出しを受けた。
こんな風に部屋へ赴くのはこれで二度目だ。前回は悲しい話だったからか、やけに胸がざわついて仕方がない。
急いで部屋に入れば、父さんは何やら神妙な面持ちで執務椅子に腰掛け、僕を待っていた。
「父さん、来たよ」
「ああ。ユハン、勉強中にごめんね」
「いや、全然大丈夫だけど……。話って、何?また何かあった?」
僕の不安そうな表情に気がついたんだろう。父さんはふっと落ち着かせるように微笑むと、机の上で手を組み、話を始めた。
「安心してほしい。今日は悪い話じゃないんだ。……ユハンはさ、まだ学園へ行きたいと思ってる?」
「……それはもちろん。行けるものなら行きたいに決まってる」
「じゃあヴェラリール学園には、特待生制度があることは知っているよね?」
「知ってるけど、それがどうしたんだ?……まさか、僕を推薦してくれる人がいるのか?」
訝しげに父さんを見る。
特待生制度とは、優秀な人材に対して学園が費用を免除して入学を許可してくれるというものだ。
しかし、その枠へ入るためには上位貴族の推薦が必須で、学園でもほんの一握りしか存在しないほど、稀なものだった。だから僕もずっと縁がないことだと思い、この時まですっかり忘れていた。
「実は……ミカイル様が先日、ユハンを特待生として推薦したいと言ってくださったんだ」
「えっ……!ミカイルが!?」
予想外の言葉に思わず声が上がる。
「父さんもそれを聞いたときはすごく驚いたよ。まさかミカイル様にこんな提案をいただけるなんて…と思って」
それはそうだろう。僕だって今開いた口が塞がらないほどなんだから、父さんが驚かないわけがなかった。
「……もしかして、この間ミカイルと話をしてたのってそのことだったのか?」
「ああ。ユハンが急に出ていっちゃった時だよね。うん、そうだよ。元々ミカイル様には話があるから少し時間が欲しいって手紙をもらっていたんだ。……でもその様子だと、ユハンは聞いていなかったみたいだね」
「……うん。……全然知らなかった」
いつの間にそんな手紙を送っていたんだろう。そのような素振り、ミカイルは全く見せていなかった。
「本当はもっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、ずっと迷ってたんだ。父さんは、やっぱり自分の力でユハンを学校へ行かせてあげたかったから……。お金さえ貯まれば、編入させてあげることもできるしね。────でも、母さんとも相談して、このまま学園へ行けるか分からない不透明な未来を歩むよりも、この提案を受けた方がユハンのためになるんじゃないかと思ったんだ。……だから、ユハンさえ良ければ、父さんはこの提案を受けたいと思ってる」
真剣な眼差しを受けて、自然と背筋が伸びる。
ミカイルの提案には驚いたが、それは正直、願ってもないことだった。
何も考えず、このまま頷いてしまいたい。
けれども、僕の頭の中にどうしても一つの懸念点が浮かんでしまい、快諾することはできなかった。
「その……、ミカイルはどうして僕を推薦してくれるんだろう。もしかして、僕が友達だから?それとも僕と一緒に行きたいから、こんなことを言ってくれるのか?」
もしそうだとすれば、僕はこの提案を受けることは出来ないと思った。
何故なら、友達であるという理由だけで推薦を得るのは、なんだかとてもズルをしているような気がしたし、何よりも僕が学園へ行くためにミカイルを利用しているようで嫌だった。それに僕はミカイルをライバル視しているところがあったので、彼の手をわざわざ借りてまで行きたいとは思わなかったのだ。
父さんは僕の言葉にはっとすると、そういえば言い忘れていたと呟き、続けて話し出す。
「ミカイル様は確かに、一番の理由はユハンと一緒に行きたいからだとおっしゃっていた。でも、それだけじゃないんだよ。
ユハンはこれまでずっと勉強を頑張ってきたよね?
ミカイル様もそれを知ってるからこそ、今回、この話を持ってきてくれたみたいなんだ。学園へ行けば得られる知識も増えるし、一流の教師にだって教えてもらうことができる。その機会を逃してしまうのは、もったいないって、そう彼はおっしゃっていたよ。
……ユハンがこれをどう受け取るかは自由だけど、少なくとも父さんは、ユハンがこれまで頑張ってきた努力のおかげだと思う。だから、そんなに悪いように考えなくてもいいんじゃないかな」
父さんは僕の懸念を払拭させようと話してくれる。が、だからといってこの場で「じゃあ行きます」と言えるものでもなかった。
ミカイルは、僕以外の人の前では言い様に見せる節があるのだ。だから余計に、父さんの言葉を鵜呑みにすることなどできなかった。
「父さんの話はよく分かった。でも……一度ミカイルと会って、それから決めることにするよ」
「たしかに、そうだね。父さんもそうした方が良いと思うよ。……ミカイル様にもユハンがいる時にした方が良いんじゃないかと言ったんだけどね、何か思うところがあったみたいで、あの時は父さんにだけ話してくださったんだ」
「……?そうなんだ」
「うん、詳しいことは聞いていないから分からないんだけど……」
「……そうか、分かった。それも会った時に確認してみることにするよ」
「ああ。そうするといい」
満足そうに父さんが笑ってくれる。
僕は部屋から出ると、明日にでもミカイルへ会いに行こうと決めた。
アポも取っていないが、彼はいつでも来ていいと言っていたから、きっと家にはいるはずだ。というか、彼はもしかするとそれすらも見越して、あの時そう言ったのかもしれなかった。
起きるとミカイルはもういなかった。
昨日の事件のことはかろうじて覚えているが、僕はいつの間にか眠ってしまったらしい。最後の方の記憶は現実と夢の世界が混じり合ってあやふやだった。
眼鏡をつけ、着替えてから部屋を出れば、玄関の方に手荷物を持ったミカイルの姿が目に入る。彼はもう帰ってしまうところなのか、母さんと父さんに挨拶をしている様子がこちらからは窺えた。
「それでは、僕はこれで……、」
「────ミカイル!」
大きな声でミカイルを呼び止める。ミカイルは驚いてこちらを振り返った。
「あ…ユハン。おはよう。よく寝てたね」
「ああ。……お前はもう帰るところか?」
「うん。昨日はたくさんお世話になったし、今日はもう帰るよ」
「だったら起こしてくれよ。何も言わずに帰られるのは寂しいだろ」
「…………それはごめんね」
ミカイルは眉を下げ、申し訳なさそうに微笑む。
その表情はいつもと変わらない様相に見えるが、視線がどことなく噛み合わないのが気にかかった。
「あのさ、もしかして昨日のこと……」
「昨日は、僕がどうかしてたみたい。ちょっと寝ぼけていたのかもしれないね。だからユハンはさっさと忘れてくれていいよ」
「えっ……そうだったのか?」
早口で被せられた彼の言葉に、パチリと瞳を瞬かせる。僕の覚えている限りでは、ミカイルが眠そうにしているところなど一度も見た記憶がなかった。
しかし彼はこれ以上聞かれたくないのか、何も言わずに顔を背けると、そのまま家を出ていこうとする。
「あ、ちょっと待てって!」
「……また会いに来るけど、ユハンも僕の家に来てね。ユハンなら、いつでも来ていいから」
僕の制止を聞いて一瞬迷ったように足を止めたミカイルは、背中を向けたままそれだけ言い残すと、扉を開けて本当に出ていってしまった。
傍にいた両親の不安げな眼差しが痛い。
僕はなんでもないから大丈夫だと伝えて、足早に自分の部屋へ戻った。
それから数日間、僕はモヤモヤとした気持ちを胸に抱えながら毎日を過ごしていた。
ミカイルのあの行動は今も意図が分からずじまいで、ちゃんとした理由はもちろん知りたいけど、なんとなく聞かない方がいい気もする。
それに、ふとした瞬間にあの感触を思い出してしまって、この状態でミカイルに会うのはとてもきまずかった。いかんせんあんなことをしたのは生まれて初めてなのだ。気にするなと言う方が土台無理な話だろう。
そして、ミカイルもミカイルで、何故かあれから一度も僕に会いにくることはなかった。
そんなある日、いつも通り母さんから勉強を教わっていると、突然父さんに話があると言われ呼び出しを受けた。
こんな風に部屋へ赴くのはこれで二度目だ。前回は悲しい話だったからか、やけに胸がざわついて仕方がない。
急いで部屋に入れば、父さんは何やら神妙な面持ちで執務椅子に腰掛け、僕を待っていた。
「父さん、来たよ」
「ああ。ユハン、勉強中にごめんね」
「いや、全然大丈夫だけど……。話って、何?また何かあった?」
僕の不安そうな表情に気がついたんだろう。父さんはふっと落ち着かせるように微笑むと、机の上で手を組み、話を始めた。
「安心してほしい。今日は悪い話じゃないんだ。……ユハンはさ、まだ学園へ行きたいと思ってる?」
「……それはもちろん。行けるものなら行きたいに決まってる」
「じゃあヴェラリール学園には、特待生制度があることは知っているよね?」
「知ってるけど、それがどうしたんだ?……まさか、僕を推薦してくれる人がいるのか?」
訝しげに父さんを見る。
特待生制度とは、優秀な人材に対して学園が費用を免除して入学を許可してくれるというものだ。
しかし、その枠へ入るためには上位貴族の推薦が必須で、学園でもほんの一握りしか存在しないほど、稀なものだった。だから僕もずっと縁がないことだと思い、この時まですっかり忘れていた。
「実は……ミカイル様が先日、ユハンを特待生として推薦したいと言ってくださったんだ」
「えっ……!ミカイルが!?」
予想外の言葉に思わず声が上がる。
「父さんもそれを聞いたときはすごく驚いたよ。まさかミカイル様にこんな提案をいただけるなんて…と思って」
それはそうだろう。僕だって今開いた口が塞がらないほどなんだから、父さんが驚かないわけがなかった。
「……もしかして、この間ミカイルと話をしてたのってそのことだったのか?」
「ああ。ユハンが急に出ていっちゃった時だよね。うん、そうだよ。元々ミカイル様には話があるから少し時間が欲しいって手紙をもらっていたんだ。……でもその様子だと、ユハンは聞いていなかったみたいだね」
「……うん。……全然知らなかった」
いつの間にそんな手紙を送っていたんだろう。そのような素振り、ミカイルは全く見せていなかった。
「本当はもっと早く伝えるべきだったのかもしれないけど、ずっと迷ってたんだ。父さんは、やっぱり自分の力でユハンを学校へ行かせてあげたかったから……。お金さえ貯まれば、編入させてあげることもできるしね。────でも、母さんとも相談して、このまま学園へ行けるか分からない不透明な未来を歩むよりも、この提案を受けた方がユハンのためになるんじゃないかと思ったんだ。……だから、ユハンさえ良ければ、父さんはこの提案を受けたいと思ってる」
真剣な眼差しを受けて、自然と背筋が伸びる。
ミカイルの提案には驚いたが、それは正直、願ってもないことだった。
何も考えず、このまま頷いてしまいたい。
けれども、僕の頭の中にどうしても一つの懸念点が浮かんでしまい、快諾することはできなかった。
「その……、ミカイルはどうして僕を推薦してくれるんだろう。もしかして、僕が友達だから?それとも僕と一緒に行きたいから、こんなことを言ってくれるのか?」
もしそうだとすれば、僕はこの提案を受けることは出来ないと思った。
何故なら、友達であるという理由だけで推薦を得るのは、なんだかとてもズルをしているような気がしたし、何よりも僕が学園へ行くためにミカイルを利用しているようで嫌だった。それに僕はミカイルをライバル視しているところがあったので、彼の手をわざわざ借りてまで行きたいとは思わなかったのだ。
父さんは僕の言葉にはっとすると、そういえば言い忘れていたと呟き、続けて話し出す。
「ミカイル様は確かに、一番の理由はユハンと一緒に行きたいからだとおっしゃっていた。でも、それだけじゃないんだよ。
ユハンはこれまでずっと勉強を頑張ってきたよね?
ミカイル様もそれを知ってるからこそ、今回、この話を持ってきてくれたみたいなんだ。学園へ行けば得られる知識も増えるし、一流の教師にだって教えてもらうことができる。その機会を逃してしまうのは、もったいないって、そう彼はおっしゃっていたよ。
……ユハンがこれをどう受け取るかは自由だけど、少なくとも父さんは、ユハンがこれまで頑張ってきた努力のおかげだと思う。だから、そんなに悪いように考えなくてもいいんじゃないかな」
父さんは僕の懸念を払拭させようと話してくれる。が、だからといってこの場で「じゃあ行きます」と言えるものでもなかった。
ミカイルは、僕以外の人の前では言い様に見せる節があるのだ。だから余計に、父さんの言葉を鵜呑みにすることなどできなかった。
「父さんの話はよく分かった。でも……一度ミカイルと会って、それから決めることにするよ」
「たしかに、そうだね。父さんもそうした方が良いと思うよ。……ミカイル様にもユハンがいる時にした方が良いんじゃないかと言ったんだけどね、何か思うところがあったみたいで、あの時は父さんにだけ話してくださったんだ」
「……?そうなんだ」
「うん、詳しいことは聞いていないから分からないんだけど……」
「……そうか、分かった。それも会った時に確認してみることにするよ」
「ああ。そうするといい」
満足そうに父さんが笑ってくれる。
僕は部屋から出ると、明日にでもミカイルへ会いに行こうと決めた。
アポも取っていないが、彼はいつでも来ていいと言っていたから、きっと家にはいるはずだ。というか、彼はもしかするとそれすらも見越して、あの時そう言ったのかもしれなかった。
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