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第三章1
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《第三章》
例によって例のごとく。
笹原環は、激烈に後悔していた。
(あんなっ! あんな姿を人に晒しちゃったなんて……っ!)
オフィス街の高層ビル十四階。
デスクの島が並ぶ広いフロアのその一角――コピー機の前で、次から次へと出力される会計資料を眺めながら、環は顔を赤くしたり、青くしたりと大忙しだった。
(もうお嫁に行けない……、いや、お嫁に行きたいがための講習なんだけど……っ!)
資料の電子保存が進んでいるものの、一旦紙で出力するものも多い。
時代錯誤と他部署に言われるが、なかなか変えられないのが現状だ。
そのため環は、もう小一時間、コピー機と自席を行ったり来たりしている。
そして無心で出来る作業だからこそ、前回のショッピングと講習を反芻してしまうのだ。
「お疲れ様です」
「!」
コピー機を陣取る環に声をかけたのは、営業部の同僚――成瀬だった。
締め日破りの常習犯であり、環の苦手なキラキラオーラを纏う男性社員。
その成瀬が、長身を少し屈め、相変わらずの懐っこい笑顔で環を覗き込んでいる。
「お疲れ様です」
そう明瞭な声色で返した環に、成瀬は瞬きをした。
今までの環なら、まず目が合わなかった。
それが今、ぴたりと成瀬と視線を合わせ、笑顔で挨拶が返ってきたのだ。
成瀬が驚くのも当然だった。
「笹原さん、何だか雰囲気変わりました?」
「え?」
「こう、明るくなったというか……。あっ、元が暗いってことじゃなくて!」
「はあ……」
環の視界の端に、ブラウスのリボンが映る。
綾音とのショッピングで買った服だった。
オフィスカジュアルかつ、上下の組み合わせを変えて着られるようなものを数着買い足した。
初夏らしく、今までよりトーンを少しだけ明るいものを。
そのことだろうか、と環は思う。
「あっ、髪型変えました?」
「えっと、そうですね……」
ヘアスタイルは、長さを大きく変えず、整えられて軽やかに。
厚かった前髪は、少しすかれて薄く。
今は時折さらさらと額を掠め、くすぐったい。
綾音が何やら美容師に完成形の服装やら雰囲気やらを伝えて、その指示通りに作られた髪型だった。
見た目の変化は、どれもこれも綾音のおかげだ。
「前も良かったですけど、今はもっと素敵ですね」
「……」
環はまた綾音を思い出す。
綾音もあの夜、同じことを言って褒めてくれた。
――メイクは、大きく変えなくていいと思うのですが、ご希望あれば専門店に行ってみましょう。またご一緒します。
環を見つめ、そう優しくアドバイスをした穏やかな声色。
そして、
――ささはらさま……♡
耳に吹き込まれた、甘く蕩けるような声色。
「笹原さん?」
「えっ、あっ……すみません、ありがとうございます」
環は己の頬が熱を帯びているのを感じた。
どれもこれも、綾音のせいだ。
怒りとも羞恥ともつかない感情が、胸に湧き上がる。
「そうだ。これ、いいですか?」
成瀬はそう言って、支払依頼書を環の眼前に差し出す。
環はさっと依頼書に目を走らせたが、例にもれず、昨日の締め分だった。
「………成瀬さん」
環は依頼書を受け取りながら口を開く。
「締め日、昨日です」
「えっ」
「今回は受理しますけど、毎週月曜、木曜が締めなので気をつけてくださいね」
環は内心緊張しながら、けれどもピンと背筋を伸ばしてそう口にした。
成瀬は環の予想通り悪気はなかったらしく、わたわたと焦りだし、小さく頭を下げる。
「あ、ああ! すみません、ありがとうございます」
「い、いえ。こちらこそ今更ですみません」
環は出力した会計資料をまとめて、自席に向かう。
少しだけ高いヒールに足は浮腫むけれど、高い目線に心が落ち着く。
とろりとしたシフォン素材のシャツは肌触りが滑らかで、明るいベージュ色が鏡に映った己の顔色を良く見せてくれる。
足首にふれるロングスカートはくすぐったいけれど、女性らしい格好なのだという気持ちがして、なんだか嬉しい。
小さな変化だ。環の中身は、何も変わっていない。
けれども、環の気分は上向く。
だから、こんな勇気が湧いたのも、全部綾音のおかげなのだ。
環は今晩の講習に、どんな顔で臨めばいいのかわからない。
わからないけれど、綾音に対しても感謝を口に出来る勇気が湧いたらいいな、と思うのだった。
◇ ◇ ◇
例によって例のごとく。
笹原環は、激烈に後悔していた。
(あんなっ! あんな姿を人に晒しちゃったなんて……っ!)
オフィス街の高層ビル十四階。
デスクの島が並ぶ広いフロアのその一角――コピー機の前で、次から次へと出力される会計資料を眺めながら、環は顔を赤くしたり、青くしたりと大忙しだった。
(もうお嫁に行けない……、いや、お嫁に行きたいがための講習なんだけど……っ!)
資料の電子保存が進んでいるものの、一旦紙で出力するものも多い。
時代錯誤と他部署に言われるが、なかなか変えられないのが現状だ。
そのため環は、もう小一時間、コピー機と自席を行ったり来たりしている。
そして無心で出来る作業だからこそ、前回のショッピングと講習を反芻してしまうのだ。
「お疲れ様です」
「!」
コピー機を陣取る環に声をかけたのは、営業部の同僚――成瀬だった。
締め日破りの常習犯であり、環の苦手なキラキラオーラを纏う男性社員。
その成瀬が、長身を少し屈め、相変わらずの懐っこい笑顔で環を覗き込んでいる。
「お疲れ様です」
そう明瞭な声色で返した環に、成瀬は瞬きをした。
今までの環なら、まず目が合わなかった。
それが今、ぴたりと成瀬と視線を合わせ、笑顔で挨拶が返ってきたのだ。
成瀬が驚くのも当然だった。
「笹原さん、何だか雰囲気変わりました?」
「え?」
「こう、明るくなったというか……。あっ、元が暗いってことじゃなくて!」
「はあ……」
環の視界の端に、ブラウスのリボンが映る。
綾音とのショッピングで買った服だった。
オフィスカジュアルかつ、上下の組み合わせを変えて着られるようなものを数着買い足した。
初夏らしく、今までよりトーンを少しだけ明るいものを。
そのことだろうか、と環は思う。
「あっ、髪型変えました?」
「えっと、そうですね……」
ヘアスタイルは、長さを大きく変えず、整えられて軽やかに。
厚かった前髪は、少しすかれて薄く。
今は時折さらさらと額を掠め、くすぐったい。
綾音が何やら美容師に完成形の服装やら雰囲気やらを伝えて、その指示通りに作られた髪型だった。
見た目の変化は、どれもこれも綾音のおかげだ。
「前も良かったですけど、今はもっと素敵ですね」
「……」
環はまた綾音を思い出す。
綾音もあの夜、同じことを言って褒めてくれた。
――メイクは、大きく変えなくていいと思うのですが、ご希望あれば専門店に行ってみましょう。またご一緒します。
環を見つめ、そう優しくアドバイスをした穏やかな声色。
そして、
――ささはらさま……♡
耳に吹き込まれた、甘く蕩けるような声色。
「笹原さん?」
「えっ、あっ……すみません、ありがとうございます」
環は己の頬が熱を帯びているのを感じた。
どれもこれも、綾音のせいだ。
怒りとも羞恥ともつかない感情が、胸に湧き上がる。
「そうだ。これ、いいですか?」
成瀬はそう言って、支払依頼書を環の眼前に差し出す。
環はさっと依頼書に目を走らせたが、例にもれず、昨日の締め分だった。
「………成瀬さん」
環は依頼書を受け取りながら口を開く。
「締め日、昨日です」
「えっ」
「今回は受理しますけど、毎週月曜、木曜が締めなので気をつけてくださいね」
環は内心緊張しながら、けれどもピンと背筋を伸ばしてそう口にした。
成瀬は環の予想通り悪気はなかったらしく、わたわたと焦りだし、小さく頭を下げる。
「あ、ああ! すみません、ありがとうございます」
「い、いえ。こちらこそ今更ですみません」
環は出力した会計資料をまとめて、自席に向かう。
少しだけ高いヒールに足は浮腫むけれど、高い目線に心が落ち着く。
とろりとしたシフォン素材のシャツは肌触りが滑らかで、明るいベージュ色が鏡に映った己の顔色を良く見せてくれる。
足首にふれるロングスカートはくすぐったいけれど、女性らしい格好なのだという気持ちがして、なんだか嬉しい。
小さな変化だ。環の中身は、何も変わっていない。
けれども、環の気分は上向く。
だから、こんな勇気が湧いたのも、全部綾音のおかげなのだ。
環は今晩の講習に、どんな顔で臨めばいいのかわからない。
わからないけれど、綾音に対しても感謝を口に出来る勇気が湧いたらいいな、と思うのだった。
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