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因縁の菓子
しおりを挟む「ここだわな」
日本橋呉服町にある近江屋の別宅は粋な黒塀のこじんまりした造りであった。
以前は旦那の妾宅であったが、もう妾が本妻の座に納まったのでしばらく使われていなかったらしい。
まだ暑いので風通しに戸は開け放し、簾が掛かっている。
「サギは玄関の外で待っとっておくれ」
お花は振り返ってサギを押し止めた。
「ええ?何でぢゃあ」
サギもせっかく来たからには児雷也の顔を見たい。
「だって、サギは器量良しだし、児雷也がお侠好みだったら困るもの」
お花は口を尖らす。
『お侠』だの『伝法』だのと言われて江戸では顔立ちは美しく、態度は荒っぽい勇み肌の娘がモテた。
それゆえにお花はサギまで恋敵にならぬよう警戒せねばならない。
お花はサギを戸口の脇に隠れさせ、簾越しに中へ声を掛けた。
「ご免下さりゃまひっ」
緊張のあまり声が裏返る。
「ぷぷっ」
サギは戸口の脇の植え込みに潜んで笑いを堪えた。
ギシギシと重い足音が響き、戸口の鴨居をくぐるほどに大きな男が簾を捲り上げた。
見世物小屋の木戸口にいた坊主頭の大男だ。
「なんぞ用にござりますかな?」
仁王のような眼力でギロリと睨まれ、威嚇するような声音にお花はたじろいだが、
「あ、あたし、日本橋本石町の桔梗屋の娘にござります。児雷也様にお目に掛かりとう存じまする」
ビクビクしながらもどうにか伝えた。
「しばらくお待ち下さりまし」
坊主頭の大男が中へ戻っていく。
言葉どおりにしばらく待たされて児雷也が玄関へ出てきた。
「桔梗屋さんのお嬢様がどのようなご用にござりましょう?」
やはり児雷也は無表情に淡々として愛想がない。
ただ、今日の興行が跳ねてこちらへ戻ってから湯浴みでもしたのか舞台化粧を落としたサッパリとした素顔である。
涼しげな白茶色の着流し姿で素顔でも驚くほどに美しい。
「……」
お花はポカンと見惚れて口を利くのも忘れるほど。
「ご用の向きは?」
児雷也が冷静沈着にまた訊ねる。
「――あ――っ」
お花はハッと我に返り、
「あっ、あたし、児雷也様にご進物を。桔梗屋の菓子にござりまする」
あたふたと風呂敷から菓子の袋を取り出すと、
「ど、どうぞっ」
恭しく両手で掲げて児雷也に差し出した。
その菓子を目にしたとたん、
「――っ」
無表情の児雷也の目がカッと見開かれた。
バシッ!
児雷也の手が激しく菓子の袋を打ち払う。
菓子の袋は無惨に玄関の土間に叩き落とされた。
「……」
お花はあまりのことに声も出せず、石のように固まった。
「何するんぢゃっ」
サギが植え込みから飛び出して玄関へ怒鳴り込む。
「――っ」
児雷也はいきなり現れたサギを見てハッとした。
「菓子を粗末にしおって、罰当たりめがっ」
サギは菓子の袋を拾い上げパッパと袖で埃を払った。
菓子の紙袋に名が印してある。
それは『白雪豆』という名の豆菓子であった。
「――ぅ――ぐっ」
お花は喉元まで込み上げた嗚咽をぐっと堪えて、クルッと身を翻し玄関から走り出ていく。
コロン!
コロン!
コロン!
コロン!
けたたましく、ぽっくりの鈴が鳴る。
「あっ、待てっ」
サギも慌ててお花の後を追って走り出ていった。
「――はぁはぁ――」
通りへ出るとお花もさすがに走る足を止めた。
甚だしい人混みで走ることもままならぬのが日本橋であるが、小町娘としての見栄があるので何事もなかったかのように澄まし顔して歩いていく。
「お花、気にするな。きっと児雷也は豆菓子が嫌いなんぢゃ」
サギにはそれしか思い付かない。
「うん、きっとそうだわな」
お花も訳が分からぬのでそう思うことにした。
結局、呆気なくも二人が出掛けたのは小半時(約30分)にもならぬ短い間で桔梗屋へ戻ってきた。
女中のおクキは台所で出入りの魚屋や八百屋のご用聞きから近所の噂話の聞き取りに忙しく、
乳母のおタネは奥の間で奥様と一緒に実之介とお枝の世話に忙しく、
誰もお花が出掛けたことには気付いていなかった。
その頃、
二階のお花の部屋では、
小僧の千吉が襖の前に正座でかしこまってお花の帰りを今か今かと待ちわびていた。
「――千吉どん」
サギがコソッと声を掛けると素早く襖のつっかえ棒が外される。
「あぁ、ご無事で。良うござりぁしたぁ」
千吉は緊張の糸が切れたように全身の力が抜けてグッタリとへたり込んだ。
「何ぢゃ?お茶も菓子もそのままか」
サギは手付かずの盆を見やった。
「と、とても喉を通るものではござりぁせん。わたしゃ、恐ろしゅうて、恐ろしゅうて、命が縮まる思いにござりぁしたぁ」
千吉は半べそで非難がましく訴えた。
お花が親に無断で家を抜け出すための片棒を担いだなどと知れたら店をクビになってしまう。
この時代は不始末をして店をクビになった奉公人は余所の店でも二度と雇っては貰えない。
郷里《さと》へ帰って百姓をするしかないのだ。
辺鄙な田舎の実家よりも桔梗屋のほうが断然、居心地が良い。
千吉は桔梗屋から暇を出されることがなによりも恐ろしかったのである。
「あぁ、暑いったら。振り袖なんぞ着替えてくるわな。サギ、その菓子、千吉と片付けてしもうて。あたしゃ、見るのもイヤ」
お花は八つ当たりに豆菓子を睨み付けて、次の間へ振り袖を着替えに入った。
「そいぢゃ、片付けるかの」
サギはさっそく豆菓子の袋を開けてザバッと口に放り込み、ボリボリと噛み砕く。
「んう、甘じょっぱくて、歯ごたえも良うて、美味いっ。こりゃ後引くのう」
炒り豆に白雪のように砂糖をまとった豆菓子だ。
「こぉんな美味い豆菓子を嫌いな人間などおるかのう?」
サギはまたザバッと口いっぱいに頬張って首を捻った。
「あのう、わたしの下の弟はおちゃらけて炒り豆を鼻の穴に詰めて危うく死にかけたことがござりぁして、それから豆という豆は大の苦手でござりぁす」
千吉はちょっと膝を進める。
錦庵でも熊五郎にペラペラとしゃべっていたようにおしゃべり好きな小僧なのだ。
千吉の弟は鼻の穴の両方に炒り豆を詰めて取れなくなり七転八倒の末、猛烈なクシャミをしたとたん豆が鼻から飛び出し、事なきを得たが、それ以来、豆を見ただけで同じように呼吸困難を覚えるという。
「ふうん、なるほど。そういうことぢゃなっ」
サギはポンと膝を打って合点顔した。
「千吉どん、ほれ、お前も食わんか」
サギもカスティラの耳の一件でいくらか学んだとみえて千吉に豆菓子の袋を差し出す。
「あのう、みんなの分も戴いてよろしゅうござりぁしょうか?」
千吉には自分だけ美味い菓子を食べるなど有り得ないことである。
「あ、そうか。ほれ、みんなに持っていけ。わしゃ自分で買うて帰るからええんぢゃ」
サギはまたいくらか学んだとみえて残りを袋ごと千吉に渡した。
そもそもサギは富羅鳥山の猟師で鳥を売った自分の稼ぎは江戸での小遣いに持ってきている。
豆菓子を買うくらいの銭はたんまりあるのだ。
「へいっ、ご馳走様にござりぁす」
千吉はホクホクとして豆菓子の袋を懐に抱えて一階へ下りていった。
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