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ひるならぬ
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暮れ六つ。(午後六時頃)
晩ご飯が済むとサギと実之介は板間で小僧等と一緒に手習いの文机に着いた。
「では、今日も各々、カスティラの目出度い当て字を書くとしよう」
今日も手代の銀次郎が手習い師匠だ。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ」
お枝も手伝って半紙を数えてみなに配る。
「――のう?いつも銀次郎どんぢゃけど、金太郎どんと銅三郎どんは何しとるんぢゃ?」
サギは墨を摺りながら小僧の一吉にコソッと訊ねた。
「――ああ、金太郎さんと銅三郎さんは大人の遊興場へ行ったんだよ。二人とも岡場所に馴染みの女がいるんだそうな」
一吉も墨を摺りながらコソッと答える。
「オカバショってどこぞぢゃ?」
サギは吉原の遊郭なら読み終えた黄表紙の『金々先生栄花夢』に書かれていたので知っているが岡場所は初耳だ。
「それは、ええと、吉原よりか手軽に安く遊べるところさ」
一吉も大人の遊興場について詳しくはない。
吉原は幕府が許可している江戸唯一の公許遊郭でそれ以外は岡場所である。
この無許可の岡場所も幕府は黙認していた。
(む~ん、金太郎め、岡場所とやらで女遊びと見せ掛けて、ホントはどこぞで密偵の依頼人と密会しとるのかも知れん)
次の晩は金太郎を尾行し、行き先を突き止めてやろう。
(密偵の尻尾を掴んでやるんぢゃっ)
サギは気合いを込めてグッと筆を掴む。
しかし、今日は取り敢えず八木に頼まれた戯作五枚の清書をする。
そこへ、
「なあ、みんなが手習いしている間、あたしはここで唄うわな」
お花が三味線を抱えて板間へ入ってきた。
サギが剣術の腕前を見せびらかしたのでお花も負けじと得意の唄で美声を自慢したくなったのであろう。
「――え?そ、それは――」
銀次郎は口ごもった。
「唄など気が散るので迷惑にござります」とは奉公人の身ではとても言えやしない。
ペペン♪
お花は三味線の糸調子を合わせると鈴を転がすような美声で唄い出す。
「サァサ、浮いた、浮いた~♪」
ペペン♪
ペペン♪
やはり、気が散る。
「貞、丁、帝、定――」
みなカスティラに当てる漢字を書きながらも知らず知らずに三味線の音に合わせて頭が上下に揺れて調子を取っている。
ペペン♪
ペペン♪
筆先もペンペンと跳ねてしまう。
「やぁと、やぁと、やぁとぉ~♪」
実之介とお枝は手拍子を打ち、お花の唄に合いの手を入れる。
「――ふぅ――」
もはや銀次郎はお手上げで今日の手習いを真面目にやることは諦めた。
ペペン♪
ペペン♪
「テイ、テイ、ああ、気が散って漢字が思い浮かばん」
小僧の十吉は頭を抱え込んで文机にうっ伏す。
「あれ?サギさんは何を書いとるんだい?」
小僧の千吉がサギの手元を覗き込んだ。
「これは内職ぢゃ。人から頼まれた清書なんぢゃ」
ペペン♪
ペペン♪
サギはお花の三味線と唄の妨害をものともせず八木の戯作をせっせと達筆で書き移した。
「へっ、へへっ」
小僧の八十吉は手習いを怠けて文机に本を広げて笑い崩れている。
今日は貸本屋の文次に借りた本があるので早く読みたくて辛抱が出来なかったのだ。
「何を読んどるんぢゃ?」
サギは振り返って八十吉の本を引ったくった。
「――古今屁歌集?」
題名のままで屁を詠んだ歌を集めた本である。
「それは手代の銅三郎さんが借りて、おいらに貸してくだすったんだっ」
八十吉はムキになってサギから本を取り返す。
「屁歌?面白そうだ。読んどくれっ」
実之介に命じられ、八十吉は声高らかに読み上げた。
「芋をくひ 屁をひるならぬ 夜の旅 雲間の月を すかしてぞみる」
これも元木網の作。
「すかし屁の 消えやすきこそ あはれなれ みはなきものと 思ひながらも」
紀定丸の作。
どちらも江戸時代の屁歌の名作中の名作である。
「う~ん、見事な歌ぢゃあ。八十吉は相変わらず屁に夢中なんぢゃのう」
サギは屁歌に感心して唸った。
「だって屁放男の人気はますます高まって今や江戸中に屁放り旋風が吹きまくってるんだっ」
八十吉は興奮して思わず立ち上がる。
今にも放りそうな勢いだ。
「屁放り旋風っ?そんなもんが吹きまくったら臭そうぢゃあ」
サギは思わずパタパタと手で扇いだ。
ペペン♪
ペペン♪
「浮いた、浮いた~♪」
お花は唄いながら顔をしかめた。
みなして屁歌なんぞに感心して自分の唄を褒めやしない。
この美声をそっちのけに屁に夢中だとは。
所詮、サギや小僧等なんぞに高尚な芸術は分かりゃしないのだ。
「七へ八へ へをこき井出の 山吹の みのひとつだに 出ぬぞ きよけれ」
八十吉がまた読み上げる。
四方赤良の作。
「ほお、それは『七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき』が本歌であろう。屁歌も歌の知識がなくては分からぬもの。たかが屁歌とは侮れん」
堅物の銀次郎まで屁歌に感心する。
「まったくぢゃ。本歌は兼明親王の歌ぢゃな」
「わしも手習い所で習うたぞ。かの太田道灌が鷹狩りで雨に降られ、農家で簑を借りようとした時に農家の娘が簑がないと言う代わりに山吹の花を道灌に差し出したのはこの歌に掛けてなんだ」
サギも実之介も小僧等も当然のごとく本歌も道灌の山吹伝説も知っていた。
「どーかんはおこったんだえ」
なんと、お枝まで知っていたらしい。
「そう、道灌はこの歌を知らなんだばかりに山吹で示した娘の機転を解さずに怒って家臣の前でとんだ赤っ恥を掻いてしまった。それ以来、道灌は熱心に歌を学んだという話だ」
銀次郎はここぞとばかりに手習いの教えに持ち込む。
「道灌のように恥を掻かぬためにも手習いは字の上達ばかりでなく歌を多く覚えられるのだから真面目に励まねばな」
どこまでも堅物な男だ。
「……」
お花は苦々しい顔をした。
どうやら、この場で知らなかったのは手習い嫌いのお花だけのようだ。
ペペン♪
(えい、癪に障るっ)
腹立ち紛れで爪弾きについ力が入り、
ビチッ。
三味線の糸が切れてしまった。
糸は切れた弾みでビロンと跳ね返り、
ペチッ。
「あいたっ」
お花の鼻っ面に当たった。
一の糸、二の糸、三の糸で太さが違うが、一番太い一の糸が切れた。
三味線の糸は絹なので切れやすい。
切れた糸は顔の前に跳ねて危ないので糸が擦り減りケバ立ってきたら先に替えておくものだ。
(もお、屁放男のせいだわなっ)
お花はあろうことか屁放男を逆恨みした。
よもや、屁放男の妙技が児雷也までをも魅了させているとは夢にも思わぬお花であった。
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