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乙女の意地
しおりを挟む「ひとまず良かったのう」
サギが台所を出て長い縁側をトテトテと進んでいくと、
裏庭に面した仕立て物の座敷では、お花が下女中のお市に刺繍を習っていた。
お花は文机ほどの大きさの刺繍台に向かって悪戦苦闘している。
「あああ、なんだかグチャグチャだわな」
お花の刺繍は文字と同じくミミズがのた打ち廻ったような有り様だ。
(な、なんちゅう、ぶきっちょぢゃっ)
サギは言葉を呑み込んだ。
手鞠の図案を刺繍しているらしいが何故だか楕円形に歪んで手鞠に見えない。
お市が手本に刺した手鞠の刺繍とは似ても似つかぬイビツさだ。
「あ~、お花様は力が入り過ぎなんでござりますよ。あんまり刺繍糸を引っ張られて布がつれております。もっと、こう、ゆるりと」
お市が手取り足取り教えている。
「ゆるり、ゆるり、う、うううん――」
お花は得意でないことを習うのは苦痛で堪らない。
(そうだえ、いっそ、お市小母さんに綺麗に刺繍して貰うて、児雷也にはあたしが刺繍したことにすれば――)
そんな悪知恵が頭をよぎる。
(――んうう――)
お花の心の中でも悪玉と善玉が争った。
悪玉
(児雷也に送った文だってサギに流麗な文字で代筆させたんだえ?はなっから上手い人に頼めば簡単だわな)
善玉
(ううん、お手製は下手でも心がこもっていればええんだわな)
悪玉
(児雷也は完璧主義だわな。下手っぴいな刺繍なんぞ見られたら根性なしと思われるわな。綺麗な刺繍でなければ駄目だわなっ)
善玉
(ううん、けど、けど――)
どうやら善玉が劣勢である。
悪玉
(ほれ、ほれ、代わりに綺麗に刺繍して貰えばええわなっ)
悪玉はバサッと扇子を広げ、今にも勝利の悪玉踊りを踊り出さんばかりだ。
「ふん、ふん、ふん~♪」
他の下女中の四人は鼻歌混じりで、サギのお仕着せの色とりどりの木綿の反物を水通しして火のしを当てて地直ししている。
「さあ、明るいうちに裁っちまうよ」
おトネはすでに地直しを済ませた焦茶色の生地からシャーッと裁っていく。
「ほお、良う切れる包丁ぢゃっ」
サギは鮮やかに生地が裁たれていく様に目を見張った。
この時代は生地を裁つのは主に包丁である。
鋏は『舌切り雀』の婆さんが愛用の小さな糸切り鋏しかなかったので一気に真っ直ぐに裁つなら包丁なのだ。
剣豪(自称)のサギとしては刃物の切れ味には関心がある。
「うちの亭主が研いだ包丁だからね」
おトネが自慢げに言う。
「あたし等の亭主はみんな職人なんさね」
おイソが言うと、おムサ、おヤエも頷く。
話を聞くと明和の大火の後で桔梗屋を再建する時に集められた職人等なのだという。
職人は大工、左官、屋根、畳、建具と揃っている。
どの仕事も刃物を使うので研ぐのはお手のものな訳だ。
職人等は桔梗屋の店屋敷と裏長屋が完成すると田舎に疎開していた妻子を呼び寄せて、そのまま桔梗屋の裏長屋に落ち着いたのだ。
「へええ、みんなの亭主がこの屋敷を建てたんぢゃなあ」
サギは感心して縁側から桔梗屋のだだっ広い屋敷を見渡した。
そこへ、
「ただいま戻りました」
「それっ、ニョキニョキ草を飛ぶ鍛練だっ」
実之介とお枝が乳母のおタネと手習い所から帰るなり裏庭でニョキニョキ草を飛び出した。
「おっ、よしよし、その調子ぢゃっ」
サギは師匠ヅラしに裏庭へ下りていく。
(――ううう――)
お花はまだ心の中の悪玉に負けじと自分のイビツな刺繍をじっと睨んでいた。
「お花様は初めて刺繍をなさるんですから、いきなり上手くは刺せませんよ」
お市がお花の気を引き立てるように励ます。
「うん、そうだわな」
お花はやっぱり自分で刺繍をせねばと思い直した。
児雷也がお花のお手製と信じてお市の刺繍した財布を肌身離さずに持っているとしたらと考えるととても居たたまれない。
ただ、お花はすこぶる見栄っ張りなので下手くそな刺繍の財布は絶対に渡せない。
そうなれば上手くなるしかないのだ。
「ようしっ」
お花は奮起して手鞠の図案をまた刺し始めた。
善玉
(上手くなって綺麗な刺繍の財布をこしらえてみせるわなっ)
心の中の善玉が悪玉を突き飛ばした。
恋する乙女の意地が勝ったのだ。
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