151 / 294
下谷の屋敷
しおりを挟む一方、
ここは下谷の白見根太郎の屋敷。
お桐は桔梗屋で紹介状を受け取るとすぐさまその足で下谷へやってきたのである。
(お嬢様の美根様はまだかしら?)
先ほど、大年増の乳母から上等な絹の反物を五反も預かったが、乳母はお嬢様の美根を呼びに行ったきり戻ってこない。
もうお桐は長らく座敷で待たされていた。
(早くお嬢様の寸法を取らせて戴いてお暇したいのに――)
お桐は武家屋敷など初めてで緊張してカチンコチンである。
貧乏御家人といえど武家は武家、住まいは町人とは比較にならない。
拝領屋敷の敷地は広く二百坪はある。
拝領は敷地だけなので屋敷を建てるのは自前であるが、明和の大火の後に桔梗屋からの援助で再建したので新しく立派なものだ。
広い庭には内職で栽培している花の鉢植えが盛観にズラリと並んでいる。
そもそも下谷に近い入谷が朝顔市で有名なのは江戸時代に下谷の御家人が内職で朝顔を栽培していたことに由来する。
下谷の御家人が朝顔の栽培を始めたのは文化五年くらいからだそうなので今はまだ根太郎は庭でせっせと菊の鉢植えの手入れをしていた。
九歳ほどの樹三郎もしぶしぶと手伝っている。
「なんでしょうね。あのお針子は。桔梗屋のお葉さんも人が悪い。あれでは美根が可哀想にござりましょう?」
根太郎の妻のお幹は不服そうに文句を言った。
「仕方あるまい。何分にも面喰いのお葉さんの紹介なのだからな」
根太郎は妻の文句には慣れっこらしく、お幹に背を向けたまま、プチプチと菊の摘芯に専念している。
江戸では園芸流行りで武家も長屋の庶民もこぞって花の鉢植えを買うので根太郎は武士の役職よりも内職のほうが忙しい。
御家人というのはお目見え以下の直参武士のことで、根太郎も幕府の役職には就いている。
根太郎は御徒衆だ。
幕臣は役職で住まう場所が決まっていたので御徒衆の屋敷が集まっていたところが現在の御徒町である。
御徒衆は将軍樣の御成りの際に先駆けて通りを警備するお役目だ。
禄は七十石である。
時代によって異なるが江戸中期だと一石は一両ほどに換算されるそうだ。
根太郎は自分の禄の三倍近い二百両をお葉から融通して貰ったことになる。
それはさておき、
いったい妻のお幹はお桐のどこが気に入らぬのかといえば、
「婚礼支度の着物の仕立て物をするのに、あのような妙齢の美人を寄越すなんて嫌がらせとしか思えませぬ。桔梗屋には針仕事の得意な大年増の下女中が幾らでもおるだろうに、よりによって妙齢の美人をっ」
嫁入り前の不器量な娘の劣等感をおもんぱかっての母心なのだ。
お幹は見た目だけで判断してお桐が二人の子持ちの後家とは思ってもなかった。
農家では冠婚葬祭など改まった日くらいしかお歯黒を塗らぬのでお桐の見た目は未婚の妙齢の美人で通ったのである。
お歯黒は一日に何度も塗り直さなければならぬので富裕層でお洒落にかまけるほど暇な女子のするものだ。
「おい、乳母や、何をしておるっ。早く美根を呼んで寸法を取って貰わんかっ」
根太郎は妻のお幹を無視して乳母に怒鳴った。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
14
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる