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天道是か非か
しおりを挟む一方、
その頃、サギはといえば、
桔梗屋のお仕着せの仕立て物の座敷に入り浸っていた。
ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、
下女中五人はせっせと針仕事の手を動かしながら、口もひたすら動かしている。
今日から杉作の母のお桐が針仕事の仲間に加わったので一層おしゃべりに花を咲かせていた。
「――まあ、お新さんのところの新太は魚市場の問屋に奉公へ、おイソさんのところの波一は船宿に奉公へ、おフミさんのところのお筆は紙問屋に女中奉公へ――」
お桐の目に羨望の色が滲んだ。
杉作と手習い所で一緒だった同じ年頃の子等はみな奉公へ出ていて、それぞれの奉公先をお桐は興味深く聞いていた。
(もう杉作は来年十三になるのだから早く奉公へ出さねば他の子等にますます遅れを取ってしまう)
(商家が小僧として雇うのは元服前の十四歳までなのだから)
(親の欲目でも才長けた杉作にいつまでも田舎で野良仕事をさせていてはいけない)
お桐は丁寧に針を動かしながらも内心では焦っていた。
杉作も三年前の火事さえなければ森田屋と縁のある材木問屋に奉公していたはずなのだ。
「おくりちゃん、どれでもすきなにんぎょうをえらんでええわな」
お枝は今日は手習い所へは行かずに杉作の妹のお栗と座敷で人形遊びしていた。
元々、まだ数え五歳なのに兄の実之介にくっ付いて手習い所へ行っていただけなので妹のような遊び相手が出来てご満悦だ。
「ほれ、サギもだえ」
お枝はサギにも市松人形を突き出した。
人形はお花のお下がりも含めて高価な市松人形から西洋のビスクドールまで種類も様々ゾロゾロと十八体もある。
ままごと道具はすべて蒔絵の揃いで、人形の布団は真綿入りの緋縮緬と信じられぬほど贅沢だ。
そもそも市松人形はままごと遊びに使う人形なのであろうか。
サギは人形遊びなどしたこともないのでさっぱり分からない。
「わあ、かわゆらしいなあ」
数え四歳のお栗は見たこともない豪華な遊び道具にもう夢中である。
(今日の八木のメエさんのオヤツは何ぢゃろの)
(お花が稽古から帰って来んことにはオヤツも来んぢゃろの)
(まだ昼ご飯前ぢゃけどの)
サギは手持ち無沙汰にままごと道具をひっくり返しながら、ただただオヤツが来るのが待ち遠しかった。
その昼近く、
「ご免やすぅ」
錦庵には近江屋の女中が蕎麦の出前を頼みにやってきた。
呉服商の近江屋は京に本店がある江戸店で奉公人はすべて上方から来た者だ。
しっぽく三人前、花巻三人前、たぬき二人前、あられ二人前、卵焼き五人前を頼んで近江屋の女中は帰っていった。
「おう、近江屋の別宅の鬼武一座に出前ぢゃ」
ハトが「頼んだぞ」というように我蛇丸の背をポンと叩く。
「――え?わしが出前に行くのか?」
我蛇丸はとたんに複雑な表情になる。
そういえば先に我蛇丸は鬼武一座の出前から戻ってからしおしおにしおれていたのだとシメは思い出した。
「わしが行こうかえ?」
シメは案じるように口を出したが、
「いや、蕎麦十人前なら岡持ちが二つぢゃ。シメにはまだ二つも持つのは無理ぢゃ。腰の痛みは用心せんとぶり返すからのう」
ハトは取り合わずに出前の卵焼きを詰める折り箱を棚から取り出す。
「う、ん、そうぢゃのう」
シメは腰を擦ってみた。
たしかに腰の痛みが治ったからといって無理は禁物だ。
「ああ、ええんぢゃ。わしが行く」
我蛇丸は努めて平然と答えて、卵をパカパカと割り始めた。
この間は坊主頭の大男一人で蕎麦六人前の注文だったが今日は蕎麦十人前なので児雷也もきっと食べるに違いない。
そう思うとやはり卵を焼くのに気合いが入る。
チャカ、
チャカ、
チャカ、
チャカ、
我蛇丸は張り切って大鉢の卵をかき混ぜた。
よもや、この鬼武一座への出前が風雲急を告げる事態の前兆になろうとは、我蛇丸はまるで想像だにしていなかった。
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