富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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武家娘恋風涙雨

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(ああ、あのお方に間違いない――)

 美根の目にみるみるうちに涙が溢れた。

(あのお方のお姿は十年前と少しも変わっていない)

 美根は十年の歳月が一瞬にして消し飛んだかのように錯覚するほどだ。

「――あの?美根様?」

 お桐は怪訝そうに美根の視線の先を追って真向かいの東桟敷に目をやり、こちらを驚いたような顔で見ている馬場に気付いた。

「も、もしや、花見で出逢われたお方?」

 お桐はそうであって欲しいと期待でドキドキしながら訊ねた。

「……」

 美根は嬉し涙を噛み締めるようにコクリと頷く。

「まあっ」

 お桐は思わず歓声を上げた。

「けど、わたくし、夢を見ているのではないでしょうか?」

 美根は信じられぬようにお桐に確かめる。

「いいえ、夢なものでござりますか。わたしにも見えておりますもの。ほら、あのお方も美根様に気付かれて、こちらを驚いたようにご覧になられ――あっ」

 お桐が驚いたのはその東桟敷の馬場がクルッと身をひるがえし、後ろの戸を開けて出ていったからである。

「あ、あ――」

 美根はどうしていいか分からずオロオロとした。

「美根様も早く出ていらしてっ」

 お桐は自分が後ろの戸を開け、美根を押し出すようにして桟敷席を出た。

 パタパタ、
 パタパタ、

 美根はお桐に背中を押されながら西桟敷の裏の通路を小走りで抜けると東桟敷口と西桟敷口の中間にある土間へ出た。

 ここは平土間の客が入る鼠木戸と呼ばれる出入り口が左右にある広い土間だ。

 土間の西桟敷口側の仕切り場には桟敷番がいるのだが客を席に案内している最中なのか誰もいなかった。

 反対側の東桟敷の裏の通路を抜けた馬場は一足早く土間へ出ていた。

 美根は土間の端の仕切り場からお桐に背中を押されて夢現ゆめうつつのように馬場に歩み寄った。

「……」

 馬場は美根に一礼した。

「……」

 美根も馬場に一礼する。


(美根様、しっかり)

 お桐は仕切り場に身を隠し、両手を胸元にギュッと握り合わせて祈るように見守った。

「あ、あの、いつぞやは上野の花見の折りに風呂敷を拾って戴きまして有り難うござりました」

 美根は何と言ったものか分からず十年以上も前の礼を述べた。

「ああ、覚えていて下さったとは有り難い。それがしは幕臣、馬場馬三郎と申しまする」

 馬場はまた一礼してから意を決したように切り出した。

「じ、実は、無礼を承知でお尋ねしたいことがござる――っ」

 馬場の声は緊張からか上擦うわずっている。

「……」

 美根は期待に胸を躍らせる。

 だが、

 馬場が尋ねたいこととは美根がまったく想像だにせぬことであった。

「あの花見の折りにいつも一緒にお出でになっていた小柄なコロコロとよく笑っておられた方は、そう、たしか、お女中衆にチンコロ様と呼ばれていた、あの方は、今はどうしておられるのでござろうか?」

 馬場は熱心な眼差しで美根を見やる。

「――チンコロ様――?」

 美根は思いがけずに聞いた奥女中仲間の渾名あだなにポカンとした。

 毎年、弥生の宿下がりの花見には奥女中仲間六人で上野の山へ出掛けていたが、二つ年下のチンコロ様という渾名の久良くらもいつも一緒であった。

(何故、このお方は久良様のことを知りたいのか)

 美根は頭の中が真っ白になった。


(な、なんということ――)

 お桐は美根より先に事態を察した。

 美根が十年も恋焦がれたあの方の想い人は美根ではなく奥女中仲間の久良という女子おなごであったのだ。

「く、久良様は、もう昨年にお城をお下がりになられて――」

 美根はそれ以上は言えずにグッと喉が詰まった。

「くら、くらという名であったか。そうでござるか。やはり、もうすでにお嫁入りされたであろうとは思うておったが、未練がましく――」

 馬場は自嘲気味に笑ったが、

「あいや、申し訳ないっ」

 慌ただしく美根に一礼して桟敷席には戻らず足早に芝居小屋を出ていった。


「ほ、ほほ、ほほ――」

 美根は力無く笑い出した。

「ああ、可笑しい。ほほ、わたくしったら、なんて馬鹿なんでしょう。ほほほ」

 十年余りも独り善がりで相惚れだと思い込んでいた悲しさ、悔しさ、恥ずかしさをすべて笑って誤魔化すつもりだ。

「み、美根様――」

 お桐のほうが泣いていた。

「ええ、久良様はたしかに小柄でコロコロと明るく、よく笑って、わたくしとは正反対の可愛ゆらしい方でござりました」

 美根は久良の屈託のない笑顔を思い出したとたん、

「――うっ」

 こらえきれずに両手で顔を覆った。


 そこへ、

「芝居ぢゃ、芝居ぢゃあ。いやさ、幕の内弁当ぢゃあっ」

 能天気なサギの声が聞こえてきた。

 サギとお花と乳母のおタネが鼠木戸から土間へ入ってきたのだ。

 三人は土間にいる美根とお桐にチラッと目を向けたが顔を覆って泣いているので誰かは分からなかった。

「なあ?さぞかし泣ける芝居らしいわな?」

 お花は二人が芝居に感動して泣いているものとばかり思った。

「きっと紅涙こうるいをしぼるような悲恋物にござりましょう」

 お花もおタネも悲恋物の芝居は大好物でウキウキと嬉しそうだ。

「わしゃ、幕の内弁当に嬉し泣きぢゃあっ」

 三人は賑やかに平土間へ入っていった。


 一方、

 東桟敷の幕臣七人は真向かいの西桟敷の見合い相手が出ていったきり一向に戻らぬのでヤキモキしていた。

「どうしたのでござろうぅぅ?」

 お庭番の八木は困り顔して他の六人を見やった。

「さだめし、武家娘はそこもと方が意地汚く食い付かんばかりに見ていたのに気付き、耐え難く不快になって出ていったのでござろう」

 上級旗本の蝶谷が冷笑するように言った。

「そういえばぁ、武家娘はこちらを見て驚いたように慌ててお供のお女中を押して出ていったようにござるぅぅ」

 八木はあの武家娘はいかにも清らかで純情な乙女で恥ずかしさに居たたまれず逃げ出したのだと思った。

「そこもと方を桟敷さじきはりと思われたのやも知れん」

 蝶谷はさらに冷淡に駄目押しする。

「な、なんとっ」

「我々が桟敷はりっ?」

 小納戸の山鹿と猪野はカッと気色ばんだ。

『桟敷はり』とは桟敷席で向かい側の桟敷席の女客を品定めする不埒者のことである。

「よくも、言うに事欠いて我々を桟敷はりなどと」

「聞き捨てならんっ」

 小納戸の山鹿と猪野は上級旗本の蝶谷と一触即発になった。


「――あれ?見合いは?」

 お花は西桟敷と東桟敷を交互にキョロキョロと見た。

 西桟敷に武家娘らしい客は見えぬではないか。

 それに東桟敷の幕臣等は何故だか揉めている。

「へえ、喧嘩ぢゃろうか?」

 サギは東桟敷の幕臣等を見た。

 見合いは幕臣八人のはずだが七人しかいない。

「なあ?見合いは?」

 お花は不満げに口を尖らせた。


 また一方、

「……」

 美根は帰りの猪牙舟ちょきぶねで押し黙ったまま波打つ水面みなもを見つめていた。

 なにやら思い詰めた顔だ。

 そよ吹く風に着物の裾が乱れても身動き一つせず。

「……」

 お桐がそっと美根の着物の裾を直した。

 すると、

「――ああっ」

 にわかに美根が顔を覆って泣き伏した。

「わ、わたくし、あのお方に久良様のことを話せなかった。久良様はお嫁入りなどなさってないというのに――っ」

 美根は取り乱していた。

「み、美根様?」

 お桐がしっかと美根の肩を支える。

「あ、あのお方に本当のことをお話したほうが良かったのでしょうか?」

「美根様?いったい何を?」

「――く、久良様は、よ、吉原へ、う、う、売られてしまったと――」

「まあ――っ」

 美根は嗚咽しながら、やっと言葉にしたが、吉原と聞き取れただけでお桐はその意味をかいした。

 久良は貧乏旗本の娘で父の借金のために吉原の遊女に売られたのであった。

「……」

 お桐は奥女中まで勤めた武家娘が吉原の遊女とは、あまりに気の毒な身の上に言葉を失った。

 たまさか馬場が吉原へ行って、久良と再会することは有りや、無しや、

 それは神のみぞ知ることであった。
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