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一心同体
しおりを挟む一方、その頃。
「……」
お桐は胸に抱えた風呂敷包みで顔を隠すようにして芳町の路地へ入っていった。
「お桐姐さん?そのコソコソした様子じゃかえって目立ってるぜ?」
背後から竜胆が声を掛けた。
「あ、竜胆さん。だって、こんな明るいうちに来るのは初めてで。知り合いに見られでもしたら――」
お桐は振り返って背後の人通りを気にして見やる。
「そしたら、俺に仕立て物を頼まれて持ってきたとでも言えばいいのさ。俺の長屋はこの待合い茶屋の裏なんだし」
「え、ええ」
お桐はこんな色町に出入りする上手い口実を教わってホッと胸を撫で下ろし、竜胆と一緒に待合い茶屋の二階へ上がった。
「いらっしゃい。お桐さん」
二十歳くらいの娘が座敷で待ち構えていた。
この娘の名はカリンという。
カリンの父は玄武一家の博徒で、カリンはあの「当てられたなら、当ててみなんせ~♪」の見世物の花魁の役をやっている女芸人だ。
「――こ、これは?」
お桐は座敷に入ってビックリと目を見張った。
座敷の真ん中に鎌首が八本もある蛇の化け物がとぐろ巻きになっている。
蛇の化け物は布製の被り物で畳三枚分からはみ出すほどに大きい。
「ああ、これ、ヤマタノオロチさ。紫檀先生が見世物の大道具の職人に特注して作らせたんだってさ」
竜胆が蛇の化け物の頭をポンポンと叩く。
その弾みで蛇の大きく開いた口から伸びた長い舌がベロンベロンと上下に揺れた。
「まあ、よく出来ていること」
お桐は蛇の被り物の出来映えに驚嘆する。
「そいぢゃ、お桐さん、支度しよっか」
カリンがお桐を次の間の鏡台の前に促した。
「え、ええ」
お桐は次の間に入り、帯を解いて着物を脱ぐと長襦袢だけになって鏡台の前に座った。
銀杏返しに結った髪をほどいて長い黒髪を背中に垂らす。
カリンが背後で髪を櫛付けてくれている間にお桐は眉を描き、唇に紅を引く。
鏡の中に映る顔はもう普段のお桐ではなく妙にしどけない女の顔になった。
実はお桐は人知れず歌川紫檀という人気絵師の春画の活き手本となる仕事をしていた。
弟の樺平の大怪我で治療費に困っている時に玄武一家にこの仕事を世話して貰ったのだ。
月に三べんほど紫檀先生が借りている待合い茶屋の座敷で裸の姿を描かれるだけで破格の報酬を得られる割の良い仕事であった。
お桐は生身の男と絡むのだけは勘弁して欲しいと拒んだので頭を悩ませた紫檀先生がそれならばと架空の化け物との絡みを思い付き、それがかえって人気の春画となったのだ。
絵師とはいえ男にまじまじと裸を見られるのは恥ずかしいが、指一本、触れられる訳でなし、手伝いにカリンのような若い娘と女には興味のない竜胆を付けてくれる気遣いをお桐は有り難く思っていた。
「紫檀先生ぇ?支度、済んだよ」
カリンが座敷の外へ声を掛けると、ひょろりとした色白の三十男が入ってきた。
「紫檀先生。またお仕事の手伝いに呼んで下りまして有り難うござります」
お桐は丁寧に感謝の言葉を述べる。
弟の樺平が療養を終えるまではこの仕事を失いたくはない。
「やあ、こんな蛇の化け物まで用意して驚いたろう?実はさるお方から春画と同じ題材を洋風画で描いてみてくれまいかと依頼されたものでね」
紫檀先生は洋風画も学んだ絵師である。
洋風画のように写実的に描くためには実体を見なくては難しいとわざわざ蛇の化け物を作らせたのだ。
「左様にござりましたか――」
お桐は洋風画というものを見たこともなく、想像も出来ないので曖昧に答える。
「では、始めましょうか」
紫檀先生がキリッと顔を引き締めて、頭にキュッと鉢巻きを結んだ。
「ええ」
お桐は畳の上に膝を突くと紫檀先生に背を向けて長襦袢をスルリと肩から滑り落とす。
何度となく繰り返したことではあるが最初の一脱ぎがいつでも恥ずかしい。
「それぢゃ、膝を立てて座って、後ろに右手を突いて、背を反らして、顔は上向きに」
紫檀先生が蛇の長い胴体をお桐の膝にグルグルと巻き付ける。
「……」
蛇に巻かれたお桐は努めて平静な顔をして、赤い腰巻きだけの姿で釣り鐘のような乳もあらわに背を反らした。
芸術としての仕事だと自分を納得させるためにも、ここは恥ずかしがってはならない。
「竜胆。お前さんはこの蛇を被って。三本目と五本目の蛇の首をお桐さんの上に突き出して」
紫檀先生が蛇の化け物の被り物を竜胆の頭に被せる。
蛇の首の中は深編笠になっていてスッポリと被れる構造だ。
「こ、こうっすか?」
四本目の蛇の首を被った竜胆は片膝立ちになって両手を入れた左右の蛇の首を突き出す。
「カリンは蛇の後ろ側の首を二本、持ち上げて。頭の上まで。もっと高く」
紫檀先生はカリンにも蛇の被り物を被せた。
「こ、こうかい?」
カリンは竜胆の後ろ側に立って蛇の首を万歳する格好で高く持ち上げる。
「よしっ。そのまま動かず。じっとしてっ」
蛇の化け物と美女の体勢が決まると紫檀先生は画帳に立ち向かった。
そうして、三人がじっと動かぬこと小半時|(約三十分)あまり。
「せ、先生ぇ?まだっすか?この蛇、かなり重たいんすけどっ」
竜胆は蛇の被り物の中で茹で蛸のごとく汗ダラダラである。
化け物の重量感を出すために八本の首にしっかり詰め物を入れた被り物はまるで掻巻き布団のようだ。
「あ、あたし、もう腕が痺れちまって――」
カリンも汗ダラダラで蛇の首を持ち上げた両手をブルブルと震わせている。
「辛抱しろ。ああっ、蛇を描くのに手間取るっ。なんせ八本も首があるんだからなっ」
紫檀先生は画帳を抱えて蛇の化け物の周りを這い廻って写生している。
「……」
お桐は蛇に巻かれて背をのけ反ったまま、文句も言わずにじっとしていた。
今にも後ろに倒れそうな辛い姿勢に息も絶え絶えという顔になっていたが、
「おおっ、お桐さん。それだっ。その表情だっ」
紫檀先生はそれが蛇の化け物に襲われている美女の表情だとばかりに夢中で筆を走らせる。
「……」
お桐は額に汗を滲ませて必死に姿勢を崩さぬように堪えていた。
今、描かれているのは蛇の化け物に巻かれた美女が釣り鐘のような乳を蛇の長い舌でチロチロされて身悶えしているという世にも馬鹿げたスケベな絵である。
だが、もう恥ずかしいどころではなかった。
重たい蛇の被り物を被って持ち上げている竜胆とカリンも姿勢を保つのに必死なのだ。
まさに一心同体。
お桐はみなで力を合わせて一つの作品を作り上げる一体感を覚えていた。
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